『それはとても速くて永い』批評会のこと


■漢a.k.a.GAMIが新譜を出したので探している。ディスクユニオン立川店には無し。UMBの2007と『罵倒』2013のDVDを買う。「井の中の蛙って言葉があるけどー」「俺は井の中の蛙かもしれないけどー」「でもその井の中のことはだれよりも知ってるぜ」とかってラップ前の自己紹介タイムで言ってる人がいたりと、2007年くらいだともうぜんぜん観てられない。その人はPONYというタトゥーのラッパーなんだけど、あのPONYではないので詳細が気になる。GOCCIの優勝。GOCCIかっこいい。セノウGEEに声質が似てる。「こんな良い声だったらそりゃあバンド組むよなー」と昔ニッケルバック、の曲に黒島くんが運転しながら言った後「なんか今の、絶妙にばかだったね」と笑ってくれた。


■土曜に『それはとても速くて永い』批評会。のびのびと第二部の司会をさせてもらう。ZEEBRAのマイクの持ち方。温(あたむ)さんが最前列でつくる、指での×。

開始前に呂布カルマを聴きながら気分をあげていたことを懇親会でいしいさんにイジられて、そういう高橋尚子みたいなところが自分にはあると思う。脳を動かすため・・・と食べて飲んでたブラックサンダーと缶コーヒー無糖HOT、が結局 今年口に入れた甘いものでいちばんおいしかった。歌集第Ⅲ部の明るさ、関西弁や人名の頻出、は作風の変遷や製作意図・・・・を含んだ、まだ使ってない主体のノリや語彙を出動させないといけなくなった、ひらくさんの台所事情ではないかと思ってる。

来場者に配布された小冊子(いい茶色、)の新作からだと、

猫のいる団地のなかを突っ切って帰る 違うわ、米買うんだわ

法橋ひらく『アパート』

が好きだ。

「まちがい」としてとつじょ裏返される動作 突っ切って帰る が「っ」音(おん)によって語感を良くされていることで、そこから〈駆けてって戻る〉際の主体の軽やかさも損なわれない、ことが予告されている。浮かび上がってくるのは、そういった日常の不如意さを含め愛する方法を手に入れた〈だれか〉の居姿だ。

寂しいよ寂しくないかと訊かれればこだわりの岩塩で肉焼いてるよ

法橋ひらく『アパート』

「寂しくないかと訊かれれば」→「岩塩で肉焼いてるよ」のようにずらす、ことをしてでも距離をとるしかない、ものが「寂しさ」やその他・ままならない世事の領域にはあると思う。話をそらした、ようできちんとその先の「岩塩」にーーなにせ「岩塩」さんはあんなに心なさそうなピンク色だーー事態を引き受けさせて、その「塩味(み)」にままならなさ、を吸収させている。思い浮かべた岩塩が、そこでちょっとだけピンクさを増したのが「見えた」だろうか。 僕はこのピンク色に笑ってしまう。


「肉」や「岩塩」のようなものを挟まずに向き合ってはならないものが「寂しさ」であるという含みを、おそらく作者は第一歌集『それはとても速くて永い』や、それ以後の時間において手に入れたのではないか。だとするとこの一首は、その後の作者の歩みを予感させるに充分 象徴的な歌だと思う。襲ってくる感情から逃げる・でもなくて置いておく、やり口を掲出歌は提示しているわけだけど、そこから「肉が焼けるまでの時間」も加えて連想させてきていることがこの歌の謎だと思う。

なにもしない時間、に加えて、そうして焼ける肉を挟もうと・待ち構えている箸や手首の角度、のひもじさはまちがいなく「寂しさ」も連れてくるものだ。一度は回避してみせた感情にふたたび向かい合わされることで、読み手はヒントを、たったいま言われた歌の中に見つけに行こうとする。そこでようやく僕は、ずらされる前の一首が「寂しいよ」という断定、によって始められていたことに肉声、とともに気づく。

(おれだって)寂しいよ、
では、ままならなさの押し付け合いになる。

(だれだって)寂しい、ものだとしても僕は僕の「寂しさ」を、そのようには引き受けたくない。

ここに作者は第三の方法として(それでも)寂しい、を付け加えてみせたのではないか。

責任の所在を、ずらした先の「行動」や「物品」にすることで染み出してくる寂しさを、僕は炎を見るように原初的な「さびしさ」として処理することができる  気がする。(それでも)寂しい、ものとして感情を始めれば、もしかしたら含まれているのかもしれない遠くの(おれだって)や(だれだって)な寂しさ、へさえも慈しみが持ててくる ような気がする。

会話における応答、のような文体をとることでリアルタイムな感じが出てくるけど、このことによる・今この瞬間も・(たとえば)法橋さんはさみしい、と思う場合のこの「だれか」の浮かび上がり方も、不思議といえば不思議である。この「だれか」は、【(だれだって)寂しい】の「(だれか)」では釣り上がってこないタイプの「だれか」だからだ。

歌によって〈たったひとり〉を思い起こさせること。そしてもしかしたら、現在このような「さびしさ」との向かい方を知らない読者に方法のひとつ、として手渡すこと。そのために選択される「~わ」のような普段使いの口調は、今のところ充分な効力を持っていると強く、僕は思う。

■でもフラッシュモブだけは本当に、無いと思う。

■30日に8:30~15:30の番をして、転職前の最後の勤務日は終了。

昨年の5月からの勤務先で、モノレール会社の受付だったんだけど、最後らへんはいろいろとおかしくなっていて

「こんにちは」

来場者「●●産業で2名、入場です」

「お車はございますか」

来場者「無いでーす」

「『無いでぇす』」

みたいなことを平気でやるようになっていたので、もうほんとうにこのあたりが潮時だったと思う。自分はもう今後一生、なにかのプロにはなれないだろうなという気がしている。

立川からの帰りの車両で、おばちゃんがおばちゃんに「『寺(じ)が付く駅名の町は他の中央線の駅よりも2℃くらい寒いらしい』」というトリビアを推していて、きちじょうじ、こくぶんじ、にしこくぶんじ、はちおうじ…ほらね?みたいに言っているのを、僕も含めた、電車内の人たちで「八王「子」は『寺』じゃなくないか・・・?」みたいな顔で聞いていて、たまに東京って楽しいと思った。

この日の帰りでは買えた。

新譜じゃないほうに入ってる曲だけど、『the first and the last diss song』がすごかった。これ‥‥

のロングバージョン。