むかしむかし、平和寮で



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 友達のひじきのげろを見たことがある。

 本人はすでにあおむけで寝てしまっていて、誰かおなか踏んでる?くらいに〈ごぽ、ごぽ〉と湧く次々のげろを学園祭実行委員の人らと見た。それは彼の連れてきた仲間たちで、その夜初めての彼らとの会話は、げろを見おろしつつのものになった。

「ノハラさんはこういう飲み方しかできないんです」

「これで死ぬ人もいるんだろうね」

数年後に観た「ブレイキング・バッド」では死んでいた。

 いい感じに全員と話せる飲み会と、後半に小声でもう一度、自己紹介をしあってからの飲み会がある。

 一言も発しない会があれば、「全員」なんて言えないような小さな会があり、だからこそ馴れ合えて、それにより楽しかった、って会もある。寮は大学から近いというだけで、様々な人間が行き来し交流するわけでもなく、我々はひたすらに閉じていた。映像学科を卒業した先輩がときどきくら寿司をおごりに来寮する夜があり、車でやって来て、ごちそうしてくれ、空き部屋で寝、朝に帰っていく。兵庫の新長田から来ていたと思う。漁師をしていた。我々はその先輩の来るのが楽しみだった。

 その何度目かのとき、お前らは色が白すぎる、と言われた。

「もっと出かけろよ。」

 七人いて、たしかにみんな白い。オートバイを持ってるのが一人だけいたが、あとは近くのガソスタで売っていた、中古の自転車のいちばん安いのに乗っていた。最安の色はあずき色だったので、駐輪場じゅうがあずき色だった。

 寮には旧館と新館があった。その両方にギチギチに学生が住んでいたころのこの場所は、もっと荒っぽい長屋だったという。いま建っている平和寮はどちらでもなく、これらの両方を閉鎖し建てた「平和寮新館」というものである。ここで一旦、【平和寮】の歴史やノリや便器の汚さは途切れたといっていいと思う。

 ひじきのげろは、いっしょに飲んでたらしい、カルアミルクか?の白と一緒に床へ広がっていって、これを書いてる今もコンクリに染みている。白のゲロに浮いた黒いつぶつぶを、ぼくはドラゴンフルーツの切断面をみるたびに思いだす。

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 ほとんど奈良な大阪府に大学はあり、平和寮はそこの大学委託寮です。共益費2000円が込みの家賃21000円で、「それでも高い」を卒業までに何回も言う。廊下に水たまりが、屋内なのにあり、それは二度と乾くことはなかった。ムカデが出たし、チャバネが出たし、洗濯カゴにいた蛇に、コンクリを踏むスリッパの音で逃げていってもらったことがある。おそらく大麻の先輩が室内の六面を緑色に塗った六畳半があり、雨の日にバイクで入ってきた警官が落ちた、手すりの無い排水路があり、向こう側のカップルとこちら側の寮民とで、4月のうちだけ目が合う、隣の学生マンションがある。

 逮捕者はいなかったが、急性アルコール中毒で運ばれたオカヤマはいた。泥棒が入ったこともあり、バイクの警官はそのときの用で来てたのだが、穴のなかでバイクごと、倒したカタツムリみたいに〈横〉だった。

 ヤバいTシャツ屋さんに「喜志駅周辺何もない」と歌われていた喜志からさらに何もない方向へいく。歌われていたこの頃から、さらにサークルKが消え、それは全国のサークルKにまで及んだ。

 同じくヤバいTシャツ屋さんに「週10ですき家」と言われていたすき家を過ぎたら、スーパー銭湯にするか、大学にするかで迷って大学にしたという噂の地主のおかげで、そこにはぼくの母校がある。文芸学科は年100万円の学費だった。高いと思う。

 寮出身者には「鬼畜大宴会」「青春⭐︎金属バット」の熊切和嘉監督がおり、一時期だけ住んでいた人に空気階段の鈴木くんが、5年いた人間にぼくがいる。自分のことはジークと呼んでくれ、と自己紹介で言っていた矢野くんがいて、2年のときに〈彼女が結婚した〉柴田さんがいて、バイト先のパチンコ屋のロッカーに革靴を置いて逃げてきたオカヤマがいて、梅田のビッグエコーに革靴を置いて逃げてきたぼくがいて、サッカーで高校時代 バキバキに太くした両脚を、一日の3食ぜんぶを粉のミロにしてがりがりにしていったユズブチさん?がいた。

 自分が寮を出たあと、熊切監督は「私の男」を撮ったし、ゲームのシナリオをやっている人もいる、鈴木くんはキングオブコントのチャンピオンで、短歌の本は出したが今のところなんでもないぼくがこういうのを書いている、というのは、なんというか「っぽい」なと思う。BUMP OF CHICKENの暴露本が出るとして、作者は絶対に藤原基央ではないじゃないですか。そういう。

 沖縄から初めて出てきての奈良寄り・大阪府だったので、三月が、ぼくの知ってる三月の寒さではなかった。買った布団を全部かぶり、THE BACK HORNの『美しい名前』をもう(地元で僕はこの歌を、くじけそうなとき聴こうと決めたのだった)、うつぶせで聴いていた記憶があるので、この曲がいつでもトリガーになる。これを書き終えたら聴く。こんな関係ないこと、悪文になっちゃうけど、リップスライムって誰が暴露本を出してもふさわしい感じになってる今が奇妙だと思う。

 台所は共用で、大きなテーブルがある。パーティー開けしたポテトチップスBIG BAGが見える。 カレーせんべいのオレンジな包装が、 切ったあとフライパンで炒められた魚肉ソーセージが見える。

 JINROが見えるし、REDのウイスキーが見えるし、壁の日本国旗が見える。テーブルには僕の炊飯ジャーがあり、誰かの野球グローブが上に乗っている。緑のゴミバケツに捨てる時のどごん!をそこで今鳴っている、くらいに思い出せる。

 シンクに現れたムカデにかけるために、お湯を沸かしていたツカダは地元で農協に就職した。子どももだし、もう家くらい建てているかもしれないが、寮内で共有していたインターネット回線の月1000円を払えと、電車の時刻の迫るなか迫ると「…………。はい。」と一万円札を出すので「お釣りを今持ってないから、地元帰ったら振り込んでくれ」と言うと「……はい。」と言って背中がこっちに向いて、未だに振り込まれていない。それが最後で、我々は敵どうしだった。pixivで知り合ったという、つじあやのさんに似ている女性が一度だけ寮に来ていた。お米を手じゃなく、水道水を注げば中で回転するプラ容器に入れて洗っていた。あるいは、嫌われたのはこういう見つめかたに由来があるのかもしれないが、今となっては確認しようがないし、たぶんそれで合っている。

 来週、もっとちゃんとした新入生歓迎会やるから予定開けといてよ、と小峯さんが〈うすしお〉を食べた。歓迎会か、となった。あの先輩もあの先輩も来るし、あの人とは初めて話せるかもしれない。楽しみだった。

 寮にはインターネット回線のみならず、内部BBSがあった。

   書こうと思えば匿名で、寮の人間が寮の人間の悪口を書けるし、そこにスレッドが立ってるのがもう僕には信じられないのだが、先輩とかちあった入浴時間で「あ、」「あ、」とゆずりあいになった後すいません、と先に入った風呂の数日後に【普通 先輩にゆずるよね?】【寮に来てまだ3日とかなのに】と書かれてたので一回だけ、そこのBBSが怖かったが、あとはいつも短パンだったことを「伊舎堂のズボン 半分盗ったやつ早く返してやれよ」と書かれていたくらいで、無害だった。

 日芸に行けば江古田やら所沢やらのアパートでたぶん10万……くらい家賃を親へ払ってもらいつつ、大学で「なにかに長ける」…へ歩む時間のすべてがプレッシャーだったろうから、21000円は助かりに助かったのだが、それよりも自分には、絶対に妙な人がたくさんいるに決まっている・この学生寮に住めるのが嬉しくてしょうがなかった。汚いなら汚く、煮詰まっていければいいなと考えていた。

 そうこうしてたら来週になり、旧館の2階、今は空き部屋になっている……を勝手な合い鍵で開けた六畳半に一人ずつ新一年生が新館から呼ばれ、僕の番なので僕が今ここに立っているわけなのだが、どうも様子がおかしいのだった。

 木刀を床についている人がいる。

 その前に、部屋の中央のろうそくの火がおかしい。

 空き部屋なのだから電気は通ってないとして、わざわざこんな、みんな(片膝を立てた20人くらいがいた)が不気味に、壁のオレンジ色の中に人数分影が、へばりつくような見栄えのなか、それで〈新入生歓迎会〉だろうか。

えっと……みたいなことを口がごにゅごにゅ言っていると、木刀の先がフローリングを叩いた。

「ヘラヘラしてんじゃねぇよ」

 ヘラヘラが引っ込めれてたのかは分からない。自分の顔は自分では見えないから。

 でも、このときのことをこうやって書くことで初めて芯を喰って気づけたのは、自分が自分をイメージするときのどうしようもない〈へらへらした感じ〉は、このときの木刀の音+〈ヘラヘラ〉って言葉によるものだろう、ということだった。かわいいは作れる。そしてオブセッションも作れるのである。

「なんでここに来たのか言えよ」

大学のことだろうか。小説が好きだからです、と言った覚えがある。

「小説読んでればいいじゃねぇかよ、じゃあ」

別の大学行ってよ、と壁際からべつの声がする。
小説を書きたいので……と続けると

「こんな大学くるより、なんか変なところで働いたりしてよ、変な経験したほうがなんか書けるんじゃないのかよ」

これは本当にそう思うね
でもこれを言ってるのが、同じ学科の3年の人だったことが、この場面ではより太い意味を持つのかもしれない。なんなんだよあいつ、とも思う。ヘラヘラしてたし。

それは……と口ごもっていると、「…好きな小説家 言えよ」と声がする。頭の中をさがして、さがして……をしていると考える、は〈ヘラヘラ〉と同じくらい駄目らしい、二度目の〈どん〉があった。

「村上春樹です」

春樹…    春樹…  春樹…  と東西南北、からしんそこ、笑うような声がして、高校のとき聴いてたグループ魂の「大江戸コール&レスポンス」途中の「中村屋…」と皆が抜くように言う、そのところにここは似ていた。ふつうにみじめだった。そしてみじめじゃなくなったタイミングも、これ以後べつに一回もなかった気がする。

「なんかギャグやれよ」

「おもしろい小説書けるかそれで見てやるよ」

「お前の思ってる文学 をギャグで表現してみろよ」

 とことんまでいくのかよ、と今、ここ、から思い出すとそんなことも思えるものだけど、トコトンマデイクノカヨ、は脳でそういう言葉として思えず、しかし成分は同じ気分として、心臓のへんにベチャッとにじむみたいな逃げ出したさがあった。なんなら今もだし、露骨にサッと書き流す。「その場にアルマジロみたいにしゃがみこみ」→「『大』に伸ばした全身で立ち上がる」という動きをとりながら、「1次元」「から」「4次元」と言った。

意味わかんねぇよ、と小峰さんの声がした。何日か前に、万代(まんだい)スーパーへ買い物にいくときの自転車を貸してくれた人とは別の人だった。

「そもそも小説って一次元のものではないし…  そこから四次元って広く、していけばよいというものでもないわけだし…」「ねぇ…」

シマムラさん(さっきの、同じ学科の先輩だ)がさっきからずっと別口でうるさかった。片膝を立てている、先輩たちのなかでこいつだけ口調がちがう、メーカーがちがう、シリーズがちがう嫌さがあってそれはその後(卒業までだ)も続いた。

逃げたかった……と書いたが、もしかすると本当に逃げていたのかもしれない。

そこで帰れたはずは絶対にないのに、そこにいた記憶がない。

「いちじげんからよじげん」のあとの質問の二三、をまったくここに再現できない……と顔をしかめていると、木のドアを叩く音が背中からした。はげしいノック音のあと、入寮の夜ぶりの、大家さんの声がした。

「あんたら, まだこんなことやってんのか」

誰かが出て行き、廊下で「いや…」「あの…」みたいに話しだし、たぶんその時点で5年生だか6年生だかのヨシノさんの声だった気がする。

くだらんことやめや! くだらん…

  いつまでやってんねん…

もうそんな時代ちゃうねん! いや、でもですね…

 なにがでもや!

今後、こんな、就活にも役立たないような大学でやっていく…覚悟みたいなのをここで迫る必要が絶対にあるわけですよ…


 そんなら楽しい、お茶でも飲みながら、こんな暗い部屋で「どん!」「どん!」ってせんで楽しいー、に話せばえぇやないの

でも、これだって伝統なわけですし…

 こんなんでな、びっくりしてな、せっかく入った子寮出る。べつのきれ〜〜〜いなアパート、入る。大家としてな、それをな、あんたらはな、なんやの。ひとり出ていったぶんの補填は、できんの?

……………。 と、たぶんヨシノさんが、なっている、その「………。」が、聞こえる気がした。

「……座ってていいよ」

「4次元」のままだった僕の、両肩に手が乗せられ、誰だったかが体重をかけてきた。床に座ると、僕が覚えてる、この夜の大家さんが言ったこと、では最後の声が聞こえた。

こんなしょうもない、ドッキリを毎年毎年やってからに

言っちゃったよ……と壁の誰かの声がした。

「言っちゃったよって言っちゃったよ」

誰かの声が続いた。笑った。

「むかしむかし、平和寮で」から、
『ならし』     終わり

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