おもしろいと思うものーーーーはだし『聞いた話』を読む



声ではどのように区切って読んだのか、は画像を見てください。赤色の/が休止部分。

はだしさんについては以前、こちらhttps://note.mu/gegegege_/n/n5cb877a3c5a9 で

ちょっと横断歩道がとおい二車線をわたって夏のほうへふたりは
はだし『渋谷区』(なんたる星 2015年6月号)

が良いと思う、と結んだ評を書いたのだが、そこから2年以上が経った今もはだしさんで浮かぶのはこの夏の歌……なことが僕には不思議だ。はだしさんにはおもしろい歌も、好きな歌も、もっと他にあるから。

ここにはおそらく、次なる〈おもしろさ〉のヒントや萌芽みたいなものがある。

「おもしろい」はだしさんには次に、この一連の夏の歌にあるような〈当事者〉感や、リアルタイム性といったものが加わることを強く期待してしまっている。  



連作『聞いた話』(なんたる星・8月号)は、見栄えとしては4首→小休止、4首→大締め1首、という形をとった小品であるが、その前半ブロックはおおむね〈事後〉の描写に終始している。

鎌倉へいった写真が何枚かあって隣のひとを知らない
自動車もガードレールも金属をつかっているからこの有り様
芦ノ湖をもらって、それが苦しくて三週間も寝込んだらしい
大荒れの海を動画にする人とその友だちをさらっていった

旅行の写真や事故の残骸、つづくファンタジックな空想も「らしい」で結ばれることによって、一連は当事者っぽさやリアルタイム感(かん)から離れた言葉たちの置き場になっている。

最後に置かれた【大荒れの~】の一首から2011年のあの日を漠然と……さえも思わないことはさしあたって不可能だが、それがこのパートの〈事後〉感や「あとの祭り」っぽさを、より強固なものにしている。

相撲 花火の日の夜にそういう背中、みたことあって
土曜日のサッカー教室をみている大人の、親ではない若い人
 巡査がくるぶしを見せてくれたのを覚えてる すだちみたいだった
線香の煙ながれる方にいるらしいと聞いて、あなたはわたわたし

続く2パートめでは「事後」性はいささか薄れ、かわりにリアルタイム感が浮上してくる。

土曜日のサッカー教室をみている大人の、親ではない若い人

【土曜日】【大人】などの語句は「事後」として思い出すためのラベリング……な言葉だが、その回想映像の中で見かけた再びの【大人】を【親ではない】とほどく、ことにより単なる回想ではない、なにか生々しいものの描写へと歌を仕上げたところにこの歌の手柄がある。

巡査がくるぶしを見せてくれたのを覚えてる すだちみたいだった

【くるぶしを見せてくれた】ことを思い出している、とき主体は「事後」の時間を生きているが、それに【すだちみたいだった】という喩を与えることで歌には当事者っぽさとリアルタイム感が取り戻されてくる。

しかし、次の歌の

線香の煙ながれる方にいるらしいと聞いて、あなたはわたし

においては、【煙ながれる方にいる】→【らしい】とすることで、「距離」のことば+(伝聞、という)「距離」のことば といった書き方でふたたび「当事者」性を逃れるような処理に流れてしまった印象がある。書かれている【あなたはわたし】が決して、「わたしはわたし」ではなかったのだということを読者に、言うでも匂わすでも力づくで黙らせるでもしてほしかったし、評の言葉としては品のない書き方をすれば、これはもはや作家の手癖に近いものだろうし、更に言えば、作風が自動的に呼び込んでしまうこのような手つきに共感を持つ身……としての「こうなってしまうこと」への痛ましさと、ひたすらな納得がある。

「回想」や「伝聞」、そして「当事者」性から下りること……によっておもしろがり、をスタートするとき、そこへは多くの場合〈距離をとる〉ための言葉も置かれることになる。

番組のゲストに招かれた俳優やアイドルが、(たしかに、返しには困るようなことを)くどくどと話す。その語りについてではなく、途中の「つっかえ」「舌足らずになってしまった箇所」へ、「まぁ、噛みましたけどね」と言及することや(松本人志)、目の前で若手芸人が繰り広げた出来事の珍奇さへ、「テレビで何してくれてんねん」(雨上がり決死隊・宮迫博之)と大づかみに処理することが強さを持った「おもしろ」の季節が、確かにかつてのこの国にはあったと思う。

はだしさんはおそらく、そのような方法論から性格の悪さ……のようなものを慎重に取り除いたうえで歌作を行えている歌人であるし、おそらくおそらく、この〈距離をとる〉言葉 & 態度 それじたいがおもしろがり、のセオリーとしては強さを持たないものになってきていると感じる瞬間が、最近の「おもしろがるため」の時間のほとんどについて回るようになってきた。お笑いの鑑賞、日頃の雑談、そしてもちろん歌作や、短歌の鑑賞。

「お笑い」と「おもしろい」は違う。

しかし自らの死活問題や、生活の糧、として時流の変化を捉えることができるのもまた「お笑い」従事者としての〈その人たち〉であることを考えてみても、その世界における表現の最新のかたちへ耳を澄ませることには多くの実りがあるのも確かだ。

現行の「お笑い」において最も強い出力をほこるハリウッドザコシショウや虹の黄昏、街裏ぴんくの三者(ここに「通り過ぎてしまった4番手」として、サンシャイン池崎が続くかもしれない)は、自らが〈異物〉であったり〈異常事態〉の当事者であったりすることを引き受けるところから、その表現を開始している。これらの要素は全て、「距離をとる」態度とは無縁のところにある。

 さてそろそろとお湯になった鍋からすくってコーヒーにする夜があつまってくる


で、【あつまってくる】である。

「る」。

ここに希望がある。はだしさんも僕も再び、この「る」と【夜】から始めなくてはならない。電気ケトルやポットは無く、土鍋だけがある。そんな社員寮の一人部屋でインスタントコーヒーを飲んだことがある。お玉で一杯分の湯をすくうと、その分少なくなったお湯が土鍋で「ふしゅしゅしゅしゅ」と泡を立てる。この「ふしゅふしゅふしゅふしゅ」が僕には「おもしろい」。

池崎やザコシショウ、黄昏や街裏のような「奇声」や「大声」や「変な音」を短歌で発することは可能だろうか?それは引き続きの、僕の興味だ。


■   ■   ■


ここで、はだしさんが脱臭させた「性格の悪さ」について考えがゆく。読み味として「性格の悪さ」を感じさせないことはさしあたり、読み手のストレスを1つ取り除けるというメリットがある。

思ったこと

言ったこと

起きてること

あったこと に「ふぁぼ」がつけられてしまう(もしくは「つけられないでしまう」)世界線において、短歌を存在させようとするとき、その〈うたの言葉〉はどのように現れてくるのか。

比較的最近のものから、2首を引く。

疑わしい話だけども1日もあなたを思い出さない日はない
脇川飛鳥『うたよみん』への投稿歌
(2017年・11/10時点での「86週前」発表作品)
この歌に出てくる君は君なので僕だけ好きな歌だと思う
小向大也 短歌展『笑ういつもの君だったのに』展覧作品


歌の内容へは、比較的無感動な感動しか湧かない。なのにそのうえで、この歌がこうなってしまう、ことへの強い感動がおこる。

【疑わしい~】と【この歌に~】はどちらも、「断言」をいったん避ける形での「断言」によって叙情へたどり着こうとしているのだが、そのために削がれている発想や歌柄の「シャープさ」を、出来上がった歌のボディに残像として見てしまううえで、この鈍重さが愛おしい。

「ふぁぼ」るかどうかは一旦置いて、これらの歌には「つっこみどころのなさ」がある。自己解決している、とさえ言える。クソリプを送る余地のない、「性格の良い」文体でもってこのような歌に仕上げる真摯さを・・・…とか言いだすとそろそろ評の言葉ではなくなってくるのだが、ほとんど同じ理由により、これらの歌には、読者が〈その中で動けるスペースがない〉ということも言えてしまう。しかしこの居心地の悪さには信頼が持てる。

「幻視」や「奇想」、時には「キャラクター性」を味わうことにも疲弊してきた読み手にとって、この「切実さ」の変奏、には不思議な心地よさがある。

   現代の子どもがその人生の最初に学ぶ「労働価値」とは何か? それは他人のもたらす不快に耐えることである。 こう書くと驚く人が多いだろうが、考えてみると、これ以外にはないのである。 現代日本の家庭内で貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に貨幣として認知するのは「他人が存在することの不快に耐えること」なのである。 現代日本の典型的な核家族では、父親が労働で家計を支えているが、彼が家計の主要な負担者であることが、彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される。 ものをいうのもつらげに不機嫌に押し黙り、家族のことばに耳を傾ける気もなく、自分ひとりの快不快だけを気づかっている人間のあり方、それが彼が「労働し、家族を扶養している」事実の歴然とした記号なのである。

(中略)

   現代日本の家庭では「苦痛」が換金性の商品として流通しているのである。 子どもたちも事情は同じである。 彼らは何も生産できない。生産したくても能力がない。親たちの一方的な保護と扶養の対象であるしかない。(中略)いまの子どもたちには生産主体として家庭に貢献できるような仕事がそもそもない。 彼らに要求されるのは、「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」とか「ピアノの練習をしろ」という類のことだけである。 これらはすべて子どもに「苦痛」を要求している。
  内田樹『不快という貨幣』(「こんな日本でよかったね─構造主義的日本論」 木星叢書)


別著で内田は「共同生活者の成員の数が多くなるほど、居住者ひとりあたりの生活の快適度は下がる」ことを続けて、先進国において核家族や「おひとりさま」が増えることは、それぞれが「生活の快適度」の向上を目指したことの結果であるという意味のことを述べる。

快適なひとり部屋と引き替えに「わたし」が得たのが「さみしさ」だったとすれば、それらにある種の感じの良い主体が設定され、その者による叙情や叙景によって出来上がった短歌が「ふぁぼ」性というか、そういうものと相性がよくなっていくことには納得がある。

しかしそれだけでは、あくまでも〈感じの良さ〉の消費でしかない。自分の全体重で乗しかかりたい、読んだ者の全身を取り込みたい、とひとり部屋から、別のひとり部屋にむかって「ダサかろうが信じてもらう」ときに、うたの言葉は【疑わしい話だけども】や【僕だけ好きな歌だと思う】といった現れ方をするのかもしれない。

言うまでもなく、「さみしさ」も「感じの良さ」も「おもしろさ」も、そして「当事者」性も、各々の好みの中で追及されていくとよい要素でしかないが、「おもしろさ」が在る……ためには「さみしさ」や「感じの良さ」は邪魔になってくる場合が多い、というのは現時点での僕の持っている結論だ。偏見とも言えるかもしれない。

  トウルはあたしの顔を見て顔色を変え近づいてきてあたしの手を握り幸福になってくれと言った。あなたもねとあたしは言ってあたしは泣きながらタクシーに乗りその運転手があたしの曲がった鼻を見てボクシングでもやってたんですかと聞いたので口論になりあたしは座席から身を乗り出して運転手の首をしめて車は左へ滑り不忍通りのガードレールをこすって駐車中のトラックに衝突し運転手は頭を割ってあたしは左側頭部を打ち右の眼球が左に寄ってしまった。
  村上龍『鼻の曲がった女』(「トパーズ」 角川文庫)


【幸福になってくれと言】われた時点では【眼球が左に寄ってしま】うことなど予想もしていなかっただろう、この2ヶ所の【あたし】どうしの距離への暗い笑いが、眼が【寄ってしまった】瞬間に訪れる。

 父方の祖父の首吊り前夜には乳を揉まれて幸福でした
懶い河獺『ジョニーウォーカー』(神大短歌 vol.3)

「トパーズ」において【あたし】は【幸福になってくれと言】われる側だが、懶い作品においては「あたし」が、「あたし」として【幸福でした】を思う。それぞれに、それぞれのジャンル表現における特性が出ている。  

フィクションの散文においては引き受ける「実在」の無い【あたし】の【幸福】が、短歌においては「歌の」「中において」いったん所在がはっきりとされている。

はだし作品において避けられていた「当事者」性やリアルタイムな感じ、脇川・小向作品に見られる「性格の良さ」という要素や、「ダサかろうがこれを言うのだ」という態度とも離れたところで懶い作品は強さを放っていて、ここに活路が見出せるかもしれない。「ただただ書いていく」ということ。