全試合(「いい歌バトル」Vol.2 20181216)のログ



バトルの流れ
①評する短歌を印字した紙を提示。
②ジャンケンで決めた先攻・後攻に沿って先攻(3分)→話し合う(3分)→後攻(3分)→話し合う(3分)の評の時間をとる
③他の参加者によるジャッジで、より魅力的だと感じた歌/評を決める


※今回それぞれには「2018年に知った歌」2首と、「発表年に関わらない、推したい歌」を1首用意していただきました


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1試合目

相田奈緒 対 温

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(じゃんけんの結果、相田さんの勝利。後攻を選択)


――――では先攻、温(あたむ)さんの推したい歌を開いてください。

温:じゃあ一つ目だけどこれにします。

相田:!

――――これは・・・「●」がついているということで発表年度に関係ない、温さんが推したい歌ということになります。今年発表の歌ではありません(笑い)。

では評をお願いいたします。

温:

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日/俵万智

えっと…まぁ、短歌というものの中では世間的にいちばん有名なんじゃないかと思う歌ですけど、あらためて読んだときに、短歌としてすごくいいなと思いました。なにが良いって、世間的にどう受け止められてるのかは分からないんですけど‥‥ばかな歌なんですよね。基本的に。頭の中がお花畑になってしまった人の歌。

この味がいいね、って褒められたときに「嬉しい!」っていう反応をとるのと比べて、「じゃあ今日を『サラダ記念日』にしよう!」っていう発想。思考回路のばかさ加減。これがこの歌のいちばんいいところだと思っていて…「7月6日」という日にちや、「サラダ」という食べ物、のチョイスが音的にも意味的にもおもしろいんですけど、「サラダ記念日」を作ってしまおう、というところがまずはこの歌の眼目だと思います。

僕はまだ生まれてない時代の歌です。まぁバブルがブヮ~って来てるときの幸せなキラキラ感。その本質って、言葉では語りつくせない飛躍や、爆発感に象徴されると思っていて、この歌はそれを完全に体現しちゃってる。

「この味がいいね」と言われた→じゃあその「記念日」を制定してしまおう!と思うばかさ加減……今何分ですか?

(睦月「ちょうど2分です」)

あと1分ある…のでじゃあ、「サラダ」っていうチョイスにも触れていきたいんですが、有名な話だとまぁ、ほんとは『から揚げ』だったんだけど3音、の「サラダ」にしたっていうのがありますね。3音だったら他の物でもよかったはずなんだけど「サラダ」にするチョイス。

添え物あつかいの「サラダ」、メインじゃなく端の、小さい小さいもの…を「いいね」と褒めた側も、そんな大した気持ちではなかったかもしれない。鳥のから揚げに対する「これいいね」に比べて、ちょびっとした気持ちだと思う、そのちょびっとした瞬間に対して記念日を制定することで、この人とこういう日常を過ごしていける喜び…がバン!っと際立っていると思います。

――――はい。ありがとうございます。後半1分・・・くらいから、実はちゃんと聞いたことはない角度からの読みになったのかなという印象です。

で‥‥は相田さん、この歌に対しての3分間の質問等があればお願いいたします。

相田:はい、すごい歌を持ってきたな、と聞いていました。めちゃくちゃ有名な歌。

後半おっしゃっていた「サラダ」が添え物だからこそ「記念日」との対比として効いているというのは納得しました。技術的に優れているというのは納得しつつ、この〈ばかさ加減〉ですか。カップルのばかさ加減、お花畑感…っていうのは、わからなくはないですが、わたしはこの歌の主体の人の真顔で言ってる感じが、なんだろう……怖い…まではいかないですけど「え、本気で言ってるのか」と思ってしまうんですけど、温さんはそういうふうに読まれましたか。

温:「サラダ記念日」っていう言葉に主軸を置くとハッピーなほうにいくんですけど、一方で相田さんのいう「真顔」もなんとなく分かって。というのは、短歌で「説明しちゃってる」歌だからなのかなぁと。「」を使ったり、「~と言ったので何々」みたいな説明口調がこの歌をそうさせている。でも最後の「サラダ記念日」というワードのトんだ感じってのが、この歌を説明だけの歌にしていないと感じますね。

相田:そう……、そこの、そういう読みを温さんがしたうえで、それで「何」を推したいか聞きたいというか…どこが好き?(笑い)

理屈はわかるんですけど…正直あんまり好きじゃない歌というのも私はあって、その…

好きですか、この歌、

温:好きですね…。いい意味で、ばかな人が詠む歌だなあと思います。「言ったから」のなんかとぼけ具合、がむしろ技巧的に見てしまったり、「本心か?」となってしまうというのはけっこうこの歌に対してのクリティカルなんですけど…

(睦月「3分経ちました」)

…最後 肯定して終わってしまいましたね

――――(笑い)

先攻の時間が終わりまして…では後攻、相田さんの推す歌をひらいてください。

相田:はい。こちらです。

―――――では評をお願いいたします。

相田:

自分がステキになっていくのを感じてる レンジで爆発するウインナー/武田穂佳 

これは今年の、「ねむらない樹」に掲載されていた歌です。この「ステキ」ってすごくないですか…っていう。それで、ここに持ってきました。

「自分がステキになっていくのを感じてる」…ってなんというか、口に出して言ったりはしないけど、みんなどこかで経験がある、心当たりのある人が多いんじゃないかと思っててですね。「そんなの感じたことないよ」って人もいるかもですけど意外とみんな、黙ってるだけで感じたことはあるんじゃないかというのを、この歌を目にしたときに思った。というのがあります。そんな急所を鋭く刺してくる。まっすぐ刺してくる、っていうのが武田さんの歌の特徴としてあると思っています。

「自分がステキになっていくのを感じてる」って、やや客観的な言い方にはなってるんですけど、乖離して遠くから自分を眺めてる…ってほどではなく、わりと熱量を持ったまま自分を見ている感じ。

下句の「レンジで爆発するウインナー」もすごく良くて、この爆発。この熱量。すごいステキだなと思います。爆発最高。
(睦月(笑い))

相田:(笑い)・・・「ステキ」がカタカナなのもいいと思っています。カタカナにすることで熱量が‥‥客観視してるところはクールなんですけど、そのまま熱量が伝わって来る感じ。

(睦月「あと45秒あります」)

相田:45秒…、はい。「レンジで爆発するウインナー」って、ちょっと温めすぎている「失敗」なんですけど、自分がステキになっていくのを感じてる状態においてはそんなのは失敗でもなんでもなくて、純粋な爆発になるというか。すごい…なんですかね。「良い」とか「悪い」とかじゃない。「パワー」みたいなものとして受け取っています。

――――ありがとうございました。「純粋な爆発」。それでは温さんの質問の時間です。3分間、どうぞ。

温:えっとじゃあまず上の句について訊きたかったのが、カタカナの「ステキ」で自分を肯定する感じ…っていうのを相田さんは珍しく感じた、のかなぁというふうに受け取ったんですけど、僕はむしろ、広告とかではよく見る表現かなと思ったんです。ルミネの広告とかってまさにこのテンションだと思うんですよ。(相田「あー、」)

「レンジで爆発するウインナー」があるので、この歌はルミネの広告になってないと思うんですけど… 

上の句だけで言ってみるとそのあたり、どうですか。

相田:そこは、「ステキ」がカタカナであることで回避できていると思います。カタカナの「ステキ」は基本的にダサいと思うんですよ。なので広告の感じではない。もちろんあえてやってると思うんですけど、カタカナにしても「ステキ」が保てているということは本当に素敵だから・・・というか(笑い)

広告的ではないものを、ダサさを入れることで手に入れているんだと思います。

温:ダサさを差し色にして…というか、マックスなキラキラ感に異化してる…やり口っていうのは、真新しいものではないと感じているので――スピッツとかってそういう感じあるじゃないですか――ダサいものをあえて入れることで直球に見える、という。そのテクニックだけがあると言うこともできる歌かもしれない。本当はそんなことは思ってないですけど。

(一同 笑い)

そのテクニックに関してはどう思いますか?

相田:テクニック…はあってもいい、というのが一つと。あと爆発しちゃってるからな…。

(一同 笑い)

――――というところで、先攻・後攻の時間を終了とさせていただきます。
これ勝敗は、バトルを見てる他の二人が「せえの」で勝ったと思う人を指して決めたいと思います。

この場合ですと、睦月さんと伊舎堂ですね。

ではよろしくお願いいたします。

せえの、

睦月→相田
(「温くんは好感度の高い負け、という感じ。「サラダ記念日」を持ってくる度胸とか、相手の歌、攻めてるのに「ほんとはそんなこと思ってないんですけど」って行っちゃうところとか。
一方で、持ってきた歌の好き度っていうか熱量っていうかが相田さんのほうが圧倒的で。最初は落ち着いて評をはじめたのに、だんだんステキ!爆発!ドーン!!みたいになってきて面白かった(笑)。歌のパワーだなあと思いました」)

伊舎堂→相田
(「よっぽどの変化球が要る気がするので、3分で推せる歌じゃないのかなー…と「サラダ」に関しては感じました」)

――――勝者、相田さんです。対戦ありがとうございました!


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2試合目

睦月都 対 伊舎堂仁

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(じゃんけんの結果、睦月さんの勝利。先攻を選択)

睦月:開く歌は、この歌です。

伊舎堂:お、●(くろまる)。

睦月:

水溜まりに空の色あり地のいろありはざまに暗き水の色あり/小原奈実 

水たまりの歌って短歌にすごく多いと思うんですね。短歌だけじゃなくて、ポップソングでもよく歌われる気がするし、詩にもなるし、っていうポエティックなワードだと思うんですけど、詩の世界に出てくる「水たまり」って、必ず何かを”映している”ものだと思うんですね。空だったり、木でもいいし、あるいは自分自身を映すもの。

雨上がりの場所に出てくることから、そういう晴れやかさを伴って使われることが多い印象。もっぱらそういう水鏡(みずかがみ)的な、世界や自己を映す機能として用いられる印象の強い「水たまり」というモチーフですけど、小原さんのこの歌では「水たまりそのもの」を詠む、ということをした、独特な歌だと思います。

「水溜まりに空の色あり」、ここまでは一般的な、ふつうに私たちが認識する「水たまり」ですよね。そこまでは表層的な水たまりなんだけど、そこからさらにこの人は「地のいろ」までを見てしまう。たぶん、水たまりを見る角度を変えたら、影に入って、地の色が見えたのかな。

空の色が無くなって→地のいろがあらわれる、でも結局それって何の色なんだってことまできっとこの人は考えてしまって、「はざまに暗き水の色あり」、はざまに本来の水の色がある……見えてしまった、っていうことなんだと思います。それだけ、なんですけど、「空の色あり」「地のいろあり」「水の色あり」って3つ、同じ構造を重ねるっていうどこにも行かなさもすごいんですけど、どこにも行かない、代わりに深く「水たまり」をとらえているっていう独特な歌だと思います。

……。

(相田「あと35秒です」)

睦月:……そんな感じなんですけど。あと「水たまり」っていうものが、もっぱら詩の世界では「映す」ものっていうニュアンスに対して、リアルな水たまり…ってどっちかというと避けるものじゃないですか。あんまり綺麗なものじゃないですよね。その、物質の本質をとらえていくとこういう美しい詩になる。そこに価値を感じる歌です。

――――ありがとうございます…では3分の質問時間に移ります。

伊舎堂:ほんとに…なんだろう。出して、なんだったら後は無言でもいいくらい歌がお仕事をしてくれてる、くらいの一首だと思っています。となると、睦月さんの推してた部分とか、あと歌人・睦月さんに絡めて刺していったほうが効率的かなと感じたのでそれをしたいです。

この歌、(睦月さんの実作との)共通点として言えばたとえば「文語」だというのがあると思います。
この歌が

水たまりに空の色が映っていて映っていないところの色よ

とかだった場合に損なわれるものってあるんですかというのがまず訊きたいです。

睦月:え!?全然駄目じゃないですか!?

伊舎堂:!

睦月:というか、先に攻撃手法を明かすの親切?ですね……?

「空の色あり」「地のいろあり」「水の色あり」って3回も繰り返すのって、構造として大胆だと思うんです。その構図の、構図のっていうか構文によって歌が立ってる部分ってのも少なからずあると思っていて。

伊舎堂:「暗き水の色あり」の「暗き」…って言われなかったら「暗い色」であることは分からなかったんだけど、そのうえで「暗き」まで言ってほしくなかったかなーってのがあるんですよね。勝手に想像したかった。

睦月:この「暗き」っていうのも―――水の色って透明だから何も無い、ですよね。「暗き」、のここだけ認識が入ってると思うんです。実際にはその下の地面の色があって、人間に見えるのはその色だから〈暗い〉っていう言葉となって表れてきてるんだと思います。

伊舎堂:…水たまりに空の色が映っていてそうじゃないところの色よ では駄目ですか?

睦月:……(無言で首をかしげる)。

伊舎堂:……

(相田「あと30秒です」)

睦月:別の話……とか……

伊舎堂:やるならぜったいに添削例、上回らないといけなかったですね…

ちょっと早めに締め切って、自分の推す歌いきます。

――――――では開く歌をどうぞ。

伊舎堂:

絶対に許してもらえないようなことをしたさが銀色になる/平岡直子 

歌ですべる…外す…わけにはいかないだろ……という気持ちが人にも自分にも強くなってきてて、つまらない歌が最近本当に憎いんですね。どうしたらおもしろくなるか…ってよりは「なにをしなければつまらなくはならないのか」みたいなところに興味があります。で、固有名詞じゃないかと。固有名詞をどんどん追い出していけば「つまらなさ」は歌から消せるんじゃないか。

「ウインナー」くらいだとなんというか、まだ画素が荒いから大丈夫なんですけど、例えば「サイゼリヤ」とかでおもしろい歌詠むのってたいへんだと思うんですよ。「サイゼリヤ」って語への好感度や嫌悪度なんて読んだ人によってパラつくし、そんなリスキーなことできない。この歌は「銀色」っていうところでしか固有名詞してない、と思ったんです。

なんだろうな…。この主体の中に悪意があって、それが育っていって今まさに「銀色」になったよっていう瞬間のことを書いているんですけど、「わたしこの言葉嫌いだわ」とか「好きだわ」ってなりようがない言葉としてこの「銀色」は働いてると思うんです。

そのうえで、小学校のときの折り紙の授業とかで「えらい色」、ちょっと取り合いになる色としての「金色」そして「銀色」ってのは、トガってる語句じゃない、うえに読む人に広く共有されてもいるワードだと思う。言葉の人気投票、とかをさせない何かが「銀色」にはある。絶対に許してもらえないようなことをしたさ っていう口に出すことの憚られそうな感情、を置いた後それを「銀色」にするっていうところに、おもしろさ、プラス嫌われなさ、も備わっている歌だと思います。2月くらいに見た歌ですけど、今年はこの歌を越えるやつあるかな、という基準にもなっていた一首です。

―――――――ありがとうございます。では睦月さんからの質問時間をお願いいたします。

睦月:折り紙の「銀色」のレベルの高さみたいなところ、おもしろいなと聞いてました。
歌に情報量が少ないんですよね。短歌において、モチーフを抜いていくと取っ掛かりが無くなっていってイメージ喚起力というか、読み手とで共有できるものが少なくなっていくんですけど、この歌もすごく抽象的な話をしてて……

……これを読んだときに、伊舎堂さんのなかにはどういうイメージが浮かんだのか。どういう心の動きがあったのかを知りたいです。

伊舎堂:この歌をマンガにしたときに、たとえば〈誰かが椅子に座っている〉→〈なんか目の色が変わった〉くらいの変化しかないようには見えると思うんですね。「闇堕ち」とかって言うじゃないですか。セイントなキャラクターが邪悪になるときに、目のスクリーントーンがちょっと薄くなる。それだけの変化なんだけど、こいつもう絶対以前のこいつじゃないな、って感じられる。それ以外の体は動きはなく、まさに目の色だけが「銀色」に変わったような気がする。

睦月:「銀色」はどういう色ですか?

伊舎堂:「金色」は馬鹿な色なんです。許してもらえなさ  が「金色」だとなんかマジな、独裁国家、っぽくなるんですけど「銀色」だともっと未熟な、立派すぎないものというか。だから短歌に入ってこれるんだと思うんですけど。

睦月:わたしの銀色のイメージと違ってるところがあるなーと思って聞いてました。「金色」は権力の象徴で、銀色はもうちょっと抑えめって言ってましたよね。金色って暖色じゃないですか。銀色は、寒色の中の極点みたいなところにある色。で、その「許してもらえないようなこと」の先にあるのもやっぱり銀色だな、とは思ったんですね。先行する作者の歌としては、葛原妙子とか…あと水原紫苑さんにも〈銀色にひらめく〉というイメージがあった気がして。なんかその、「冷たい怒り」が銀色に象徴されるのはけっこうあるなとは思ったんですね。

わたしもこの歌すごく好きで、とにかく「銀色になる」という突き抜け方ってのは、情報量とかではない、方向性だけ、その勢いだけ…というところが潔いなと思っていて―――思って、いました。

伊舎堂:思ったんですね?(笑い)

睦月:思いました(笑)

伊舎堂:「許してもらえそうになさ」という感情…ニッチなところを先行作品に足してバージョンアップしてもいるなーって。

睦月:この歌のポイントは「したさ」でもあると思うんですけどね。この言い方、というか。軽い書き方が。そういうところが。

伊舎堂:ありがとうございます(笑い)

――――――それではほかの二人の方、勝敗を決めてもらえますでしょうか。いっせいの、

相田→伊舎堂
(「両者とも好きな歌でした。小原さんのこの歌もよくて、でも睦月さんのその論点だと他にも歌がありそう感が…。」)

温→伊舎堂
(「最初に攻撃方法を宣言するという戦術で、睦月さんの評ポイントを削ったというか。」)

睦月
(「どっちも色の歌でしたね」)

伊舎堂
(「こういう偶然は嬉しいです」)


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3試合目 
温 対 睦月都

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(温さんがじゃんけんで勝利。後攻を選択)

――――それでは睦月さん先攻、温さん後攻でよろしくお願いいたします。

睦月:はい。

母となり祖母となりあそぶ春の日の結んで開いてもうすぐひぐれ/小島ゆかり 。こちらでよろしくお願いいたします。

いきなりちょっと悪口から入っちゃうんですけど、この歌、本当に上手い歌だなと思ってて。巧すぎる歌ってちょっと嫌じゃないですか。でも、抗いきれずに採ってしまいました。
母となり祖母となり――という、長い時間での連環のようなものを出している。自分に子供ができて、今は孫がいる。そういう普遍の巡りのように繰り返す春の中で、今、「結んで開いて」をして遊んでいる。そのなかに「もうすぐひぐれ」が来る。一日の中の日暮れでもあるでしょうし、この人の人生における「ひぐれ」でもあるというダブルミーニングでもある。人間の老年期を季節に喩えて玄冬、といったりしますけど、一日にたとえると「ひぐれ」であると。
そのへんが上手い……ですしこの「上手い」についてしゃべっちゃうと、整理されすぎてしまう感じもあって正直言いたくない(笑)。

でも、「結んで開いて」のチョイスが絶妙なんですよね。♪むすんで ひらいて…っていうあの童謡の手遊びにも、「手を打って」「むすんで」「また開いて」という風に、動作が繰り返し巡ってゆく。子どもだった「わたし」が母となり祖母となり、また子供ができて…という巡りが、命が―――「命」なんて大げさな言い方になってしまい嫌ですが――命が「結んで開いて」いくようなそういう動作のイメージが、豊かに、ふわふわとひらいていく感じがあって、そこへ「ひぐれ」がくる。

すごくさらっと言ってる「ひぐれ」ですけど、あー……「ひぐれ」か……っていう…

…じわっと来ちゃう時間の長さに、あらがいがたいやばさがある歌という風に感じています。以上です。

――――ありがとうございます。では準備が出来次第、質問時間へお願いいたします。

温:「母となり祖母となり」の連環が、この歌の他の要素と多層的に響きあっているというのを面白くききました。そして「わたし」の子供もまた母となり祖父/祖母になっていくこと‥‥をこのように書くことでいい歌になってはいると思うんですけど、この構造じたいはけっこう、今どんどん軋みはじめているという印象が僕にはあって…その構造にめちゃくちゃポエジーをぶち込んで良い歌にしているっていう。この構造に感動してしまうのは危険だなという気持ちがあります。これについてはどう思いますか。

睦月:言いたいこと、すごくよくわかります。そこは迷いながらも採ったところがあって……

ただ一方で、こういった連環を信じたまま終わっていける、最後の世代の歌だというのも思うんですね。これで終わりなんですよ(笑)。この歌がきっと最後。

この歌の入っている『六六魚』って、小島ゆかりさんが祖母になったということをふまえて詠まれている家族の歌が多い歌集で、お母様を含めた4世代の中の自分、というのが自覚的に織り込まれている。「当たり前に母となって、やがて祖母になっていく」みたいな人生観っていまの世代はウッと来てしまうけど、一方で、リアルにおばあちゃんになった人にしか詠めない歌ってのもあるじゃないですか。そういった価値観の違いとは別の次元で。そういうのを私はやっぱり見たいんですよね。「ひぐれ」の実感がすごくある。歌として非常にいい。

温:おばあちゃんだから詠める…ということ、そして「ひぐれ」に実感がある…っていうのはその通りでありつつ「ずるい」っていう見方もできると思うんです。歌に感動してるというよりはその人の人生に感動しちゃってる…というか。

 …そのあたりはどう思われますか。

睦月:でももうここは、抗えなく、ないですか?

全部ふくめてこれはもう、動かしようがないことだと思います。ちょっと反論になってないですけど、自分はこの「ひぐれ」にも反論できないんですよね。

―――ありがとうございます。では時間となりましたので温さんの推す、歌をひらいてください。

温:はい、

温:

かわるがわる松ぼっくりを蹴りながらきみとこの世を横切ってゆく/大森静佳 

「松ぼっくり、ありがとう」となった歌で。まつぼっくりのおかげで、この世が遠景になったということを話したい歌です。

前提として、この世をわたる…っていうか、生きていく、中でいろんな苦あり楽あり、波あり、という局面があって、それはこの歌の主体も無関係ではいられないと思うんですけど、「松ぼっくり」があったおかげで、「横切る」心持ちでこの世を進んでいけること…というのがこの歌のいちばんいい所だと思います。

「かわるがわる松ぼっくりを蹴る」、お互いに蹴り続ける…ことの〈副産物〉として人生を…人生をっていうか生きていく、進行方向に「縦に進む」結果が伴ってくる形っていうんですか。生きていく、が〈松ぼっくりを蹴る〉のついで、かのように書かれている。

たぶんこれは二人だとおもうんですけど、松ぼっくりを交互に蹴るっていうシンプルな楽しさだけをメインにしながら、進まざるをえない中を進んでいく…っていうところから、松ぼっくりにありがとうを言いたい気持ちがありました。

「松ぼっくり」という語句のチョイスも良くて、読む人に共有されている子どものころの記憶、を援用している。友だちと何かを蹴りあいながら帰ったりする、あの。「小石」でも「缶」でもいいんですけど「松ぼっくり」っていう、共有されている度合いがもう一つしっかりと強い、ものすごくポエジーがあるものが選ばれている。蹴った時の音もいいし…。カサカサカサ、っていう。それをじっと見ているふたりの、そういうミクロな情景を「この世」っていうマクロなものにリンクさせるっていうところに、この歌の良さがあると思いました。

――――ありがとうございました。それでは睦月さん、質問等をお願いいたします。

睦月:前半の説明がちょっとよく分からなくて。松ぼっくりを蹴っているのは二人、というのはわかるんですけど。「進まざるをえない」っていうのは……? 道などを横切っている、というリアルな意味での「横切る」なのか、もっと観念的な「この世」を「横切る」なのか。どう読まれましたか。

温:どちらかというと後者です。

「この世を横切っていく」というのはこの歌特有の言い方で、一般的な語に翻訳すると「この世を生きていく」ということになるんですけど、松ぼっくりがあるおかげで、「横切っていく」にできる、というか。

睦月:「松ぼっくりがあるおかげで」、というのはどういう?

温:この世を生きていく、ということに真正面からぶつかっていかなくても良くて、蹴り続けていく、だけでこの世を生きていける、時間が過ぎていく、というか。松ぼっくりを蹴り続けていけば、という。そういうことでの、松ぼっくりにありがとうを言いたい、という…

睦月:「松ぼっくりにありがとうを言いたい」も実はずっとよくわからないんですけど(笑)、

今説明いただいてなんとなく分かったのが、松ぼっくりを君と蹴ってる情景は、私リアルだと思ったんですよ。そこに、「歩いていく」を飛躍した形で言っている「この世を横切っていく」なのかと思って、現実を拠点に読んでいたので。でも、温くんはもうちょっと全体に観念的な…「生きていくこと」読みをしているのかな、というか。でもそれだと、「松ぼっくりを蹴る」はサブな扱いになりませんか?

そうなると、歌にとってあんまりよくない読み方になるんじゃないか、と……

温:松ぼっくりがサブになる…

睦月:比喩に陥っていくのでは、というか。

温:比喩に落としてるつもりでは僕としてはなかったんですけど…。 …リンクしてる、くらいの感じですか。松ぼっくりを蹴り合っている、はもちろん現実に起こっていることとして読んで、でも現実のこととして始まっているものが最後「生きていく」にリンクしていくんじゃないかと。それが「この世」の「この」なんだと思っています。そして街並み、ではなく「世」。ちょっと拡大して書いているというか。

――――あり…がとうございますお時間です。ブレ―ク、ブレーク…

‥‥それでは観戦の方は、勝者と思うほうに指さしをお願いいたします。

相田→睦月
(「大森さんの歌の方に対する指摘で、現実軸なのか観念軸なのか、というところ以降、温さんの受け答えが曖昧になってしまった気がしました」「たぶん歌について感じていることは二人ともそんなに遠くないんですけど、バトル上、言い負けたように見えた」「鋭い攻撃」)

伊舎堂→温
(「ずるい」を攻めていくのが若手の役目だと思っているので、温さんの「人生…人生というか、」という口ごもり方にグッときた)

――――割れましたので、ドローということでよろしくおねがいたします。

(温
「『バトル上』…」)

(睦月
「温くんは絶対『カミーユ』の歌持ってくると思ってた」)


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第4試合

相田奈緒 対 伊舎堂仁

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(相田さんがじゃんけんで勝利。先攻を選択)

相田:では、歌を開きます。

相田:

鳥肌がかけぬけるだけほんとうのありがとうには相手はいない/雪舟えま 

えーっとこれは。本当に本当にそうだな、というところで持ってきました。

なんか、すごい力で説得されたというか。入ってる歌集の話からしちゃうんですが、これは巻頭歌。いちばん最初の歌です。「鳥肌」って、ふつうに言うと〈立つ〉ものだと思うんですけど、「かけぬける」と表現していることで、違和感なく体感が強まっている。

ほんとうに「ありがとう」の時には‥‥そう思ったり、言ったりとかではなく鳥肌が「かけぬける」だけなんだということを言われたときに、完全に同意してしまう力がありました。

「ありがとう」は表明ではなくて、自分の中に生じる感覚なので「相手はいない」。それを向ける相手は本当の「ありがとう」の場合はいないんだと。それに私は完全に同意したんですけど、他の方…は同意できるものなのかなというのが聞きたくて持ってきた歌でもあります。

相手がいないのが本当の「ありがとう」だと書くことで、本当ではない「ありがとう」もあるんだっていうこともこの歌の裏には貼りついていて、そのことをこの主体はかなり心を追い詰めて考えていたんじゃないか…というのも感じました。とりあえずそういうところです。

伊舎堂:「鳥肌がかけぬける」…を言うことで、それを経験したことのない人間にも「かけぬける」を想像させる力がここにはあると思うんですよ。すごい感謝…が訪れたときの自分を想像しろ、と言われた気持ちになるというか。で、そこはすごい上手くいってる。そんなことがあったらすごそう、っては思える。

問題は「ほんとうの」ですよね。「ほんとうの」ってけっこう割れる言葉だと思う。このパワーワードをどう飲み込むか、になってくるんですよ。反知性主義‥‥というか。BUMP OF CHICKENに似たような言葉で「本当のありがとうはありがとうじゃ足りないんだ」みたいなのがあったのを思い出したりしました。この短歌での雪舟さんはさすがにそれよりは進んでる‥‥んですけど。

いわゆるキラーフレーズ…ってなんかそれを喜ぶ人たちのいる密室、が見えてきちゃうような感じがあるんです。セミナー室の横を通ったときに「本当のありがとうは…」とか漏れ聞こえてきてこの部屋マジか!ってなる自分になっちゃう、というか。強ければ強いほど、密室の外に立たされた感じになるんです。「ホストである前に人間やろ」におお!ってなると同時に「『ホストの前に人間』なの??」にもなってしまう。だから、「ほんとうのありがとうには相手はいない」→「おぉ~」→「ほんとうのありがとうには相手はいない…の??」となる、のを言いたいです。

相田:セミナー‥‥だと嫌なんですけど、私は雪舟さんが、この短歌を読んだ人に講師、としてこのことを言っているという風に感じなかったんです。で、受け取れたんですけど。それはなんでそう思ったかっていうと、「鳥肌がかけぬけるだけ」っていうのが、今、のこととして書かれているという感じがするからです。瞬間の気づき、として書かれている。だから下の句は…

伊舎堂:自分で自分に言っている…

相田:という。「セミナー…」「じゃない!」みたいな感じです。

――――では次は伊舎堂さん、推す歌をお願いいたします。

伊舎堂:僕のはこちらです。

伊舎堂:

友人のあだ名はリズム 友人の名前はまさし まさしのリズム/永井祐 

さっき睦月戦で言ったこと…をまた使うと、歌が仕事をしてくれているから俺は黙っててもいい一首、というか。

職場でも、地元のグル―プでもいいけど、そこに「リズム」ってあだ名の友だちがいると。「リズム」ってあだ名はありうると思うんですよ。なんか机とかをコンコン~って癖でやってたりで。で、そのグル―プの永井さん以外、の人は「あいつ『リズム』だよね」みたいに言ってる。たぶん。

となると、永井さんは「リズム」のことをどう思ってるのかが気になってくるんだけど、「友人のあだ名はリズム」って書かれた時点では永井さんの、「リズム」って友人に対する「リズム」観が、好悪の感情が見えない。

その次に「友人の名前はまさし」と続いてこれもまた、単に事実だけを言うんですよ。この時点でもまだ永井さんの気持ちが見えない‥‥というところで「まさしのリズム」って言ってきて、「いや、イジってたのかよ」というか。「いじっていた短歌」だったことがここで分かる。笑っちゃう。ありがとう!というか。そこがもう、って感じですね。

「リズム」もおもしろいんですけど、「まさしのリズム」と言うことによって、「まさし」も「リズム」と同じくらいなんか面白い…ことが判明してしまう歌なんです。「まさし」はおもしろい名前なんですよ。なぜなのかはわからないですけど。「まさしのリズム」…ということでなんか、カニの身を吸い尽くす、みたいに「まさし」を面白がりつくそうとしてるのがたまらないです。

なんだったら「リズム」ってあだ名をつけた他の友人たちよりもいじっているというか。でも「まさし」の明るそうっぽさから、いじめっぽくもなってないという。陰口ですらないと思うんですよこれは僕は。

相田:そうですね‥‥伊舎堂さんのおっしゃる、結句にいくまで感情の好悪が見えなくて、最後で「いじってるじゃん」ってのが分かるっていうのはその通りだなと思ったんですけど…

最後まで読んで「いじわるだな」みたいに思っちゃうことはないですか?じゃっかん嫌な気持ちに……。
まさしは「おい!」っていう、明るい感じ?

伊舎堂:そう…ですね、

相田:それはどこから…

「リズム」「まさし」の明るい単語の感じですかね?

伊舎堂:僕らが「まさし」に押し付けてる部分ももちろんあるとは思うんですよ。「まさしは明るいからこれくらい許してくれるだろう」という。

相田:あ、そうそう。それがなんかじゃっかん嫌な気持ちになるのかな…

「友人」って言ってるので友人ではあると思う。ぜんぜん嫌いじゃないとは思いますね。けど、まさしは実はちょっといやなんじゃないかっていう…

伊舎堂:そこを言われると確かに弱いところは…

でも「まさしは実は怒ってるんじゃないか」って思う事…がいちばんまさしを傷つけるんじゃないか…って思いたいですね。「え、怒ってないのに…」というか、

相田:そうですか‥‥

なんか「友人」を二回言う所とかも「ほんとうにそう思ってるのかな・・・」っていうか。いや、思ってることは確かなんですけど、「友人」の定義がなんなのか揺らいでくるところもあって、この繰り返しはなにか別のものを連れてきてるな、と。

伊舎堂:友人認定がちょっと荒っぽい人なのでは、みたいな。

まぁそこは、「リズム」って友人への歌として、歌の中でリズムを作ってあげてるな~くらいに読みましたね…

相田:……まあでもそうか、「まさしが怒ってるのでは、と思うことがまさしにとっては逆に‥‥」みたいのは、まあたしかに……

伊舎堂:物とか隠してもぎりぎり大丈夫な人だと思うんですよ

相田:だめですよ!

睦月:ネットで嫌われるタイプのものいいだ

――――それ、では、どうでしょうか。ジャッジをお願いいたします。

睦月→相田
(大変迷ったのですが……
前半、伊舎堂さんのほうは「圧巻のパフォーマンス」という感じで、「BUMP OF CHICKEN」とか「セミナー」とか、ぜんぜんべつのところで生まれたはずの歌一首を伊舎堂ワールドに完全に呑み込んじゃう感じですごい。相田さんはよく耐えたけど、前半戦は伊舎堂さん、でした。
問題は後半戦で、「お笑いの世界のイジりってイジメでは?」なトピックって昨今感度が高いと思うんですけど、伊舎堂さんの評はそういう意味で危うかった。相田さんがそこをきっちり詰めてくれたんで、ここは相田さんに入れたいです)

温→伊舎堂
(「指摘されたあとの相田さんの応酬までを含めて、「でも雪舟さんの歌ってそうじゃん」というところを越えられてなかった…という感じはしたんですけど、まぁ」)

――――ドローとなりました!この試合、ドロー!

(相田
「だって『相手はいない』じゃん」)

(伊舎堂
「(ジャッジって)ちゃんと分かれるもんですね~」)

●  ●  ●  ●  ●

第5試合

睦月都 対 相田奈緒 

●  ●  ●  ●  ●


(相田さん じゃんけん勝利。先攻を選択)

―――――――では相田さん、歌を開いてください。

相田:

数々の二〇〇〇年代の夜明けから滑車の軋む音をあつめた/我妻俊樹

言葉の、複数ある意味が並走して読みに入って来る‥‥みたいな感じがおもしろいなと思って持ってきました。順番に読んでいくと、「数々の二千年代」っていうと2000年~2009年まで‥‥っていうと細かいですけど、それぞれに365日があるとして、そういう「数々の」を頭に置きつつ、時刻は夜明けで、たくさんの滑車の音が聞こえてくる… 具体的な景はそこまで結ばない歌だとおもうんですけど。

私がおもしろいと思ったのは「~年代」って手前にあるうえで「夜明け」と続くと、ふつうの夜が朝になる、以外にももっと比喩的な、時代の夜明け…幕開け…みたいなイメージが強めに引っ張り出されてくるところ。滑車のきしむ音、ってのも現象的な「軋む」もあるんですけどもっと比喩的な、上からの圧力‥‥強い者から弱い者に対する圧力を、苦し気な感じを想像させる。引っ張って来る、と思うんです。「時代」のことが最初に言われてるし。

現実的なほうの読みと、比喩的なほうの読みが、こう…同時に、どっちも負けない感じで入って来るんですけどその読み味が不思議で…言葉でこういうことができるんだ、と思いました。
最終的に頭に何が残るかというと、〈滑車の仕組み〉みたいなものです。車輪やベルトなり鎖なりがあって、動かすことで、力の向きを変えたり増幅したり…だとかが、

(アラーム音)

じかん足りない!

…並走の果てに滑車の力そのものが残るのがおもしろいなと思いました。以上です。

睦月:並走してる感じ、っておっしゃってたんですけど、それって弱点にもなり得ますよね。どっちつかず、という。
この歌の中に出てくる具体物って「滑車」だけになるので、読み手としてはそこからイメージを展開させていこうとするんですけど、「二〇〇〇年代」も「軋む音をあつめた」も非常に抽象的で、まさに滑車のようにイメージがすべっていってしまう、そこが結構ストレスになってしまうかなと感じる。

比喩読みだとすると、「二〇〇〇年代の夜明け」っていう語からはなにか革命前夜的な雰囲気を感じられて、その頃だとIT革命とか言われてたかな、でも「滑車」だとむしろ産業革命?みたいになっちゃって……、これはなんのことを言っているんですかね?

相田:具体的なことからあえて逸らしてる感じがします。産業革命、とかの特定の事は言っていなくて、巧みにずらされてるような。言葉の意味の中心、具体物にくっついていない芯、のところを浮かび上がらせるために、そのへんのところを避けて書いてるのかなって。

睦月:…その「芯」ってのはなんですかね?

相田:「夜明け」が「年代」とくっついたときに、具体的な時代じゃなくて、「幕開け」みたいなイメージが自動的にひっぱりあげられてくる「ところ」、ですかね…

軋む音、とかも、直接的には「苦しい」とかを書いてる歌ではないんですけど、その意味が裏から、滑車のように引っ張り上げられてくるっていうか…

(アラーム音)

相田:時間が足りない…まだ言いたいことある…

―――――では歌を変えまして、睦月さんのにいきましょうか。

睦月:はい。


「身体のしんそこまで冷えること。そういう感じの寒さ。」底冷え/花山周子

底冷えそのもの、みたいな歌だなと思いました。この歌集、最近手にして読んでるんですけど、こちらが冒頭に置かれていて。「底冷え」から本が始まるっていう。

「身体のしんそこまで冷えること。そういう感じの寒さ。」は、「底冷え」の辞書的な説明文。「底冷え」=「身体のしんそこまで冷えること。そういう感じの寒さ。」だから、この歌は最初から最後まで「底冷え」のことしか言っていない。

現実の、辞書をひく動作を思い出してみると、まず「底冷え」ってどういう意味だっけと思う、辞書を開いて「そ」のところを引く。そ、こ、び、え、あ、あった、で、「底冷え」の意味を知る、という順番になる。それをこの短歌の構造では、

「身体のしんそこまで冷えること。そういう感じの寒さ。」

っていう説明文、いきなり出てくるとちょっとふしぎな一文のがまず出てきて、「?」ってなっている頭に「底冷え」って、あ、底冷えのことを言ってたんだって最後に明かされるっていう、軽くめまいの起こるような反転がある。

底冷えのことをこういうふうに書かれてる辞書ってどれなんだろう、っていくつか辞書を引いてみたんですけど、そのものぴったりな説明文は見つからなくて、で、試しにGoogleの検索窓に入れたら、いまって単語を単語を入れると検索する前にその単語の意味をサジェストしてくれるじゃないですか、そこに「体のしんそこまで冷えること。そういう感じ(の寒さ)。」が出てきたんです。

この説明文も意外と変なことを言っていて、「しんそこ」ってなんだ、とか。これはたぶん、AIによって自動生成されてるからこうなってるのかな。体の「芯」と「底」との複合語としてとることもできるんですけど、やっぱり「しんそこ」と言われるとまず「心底」って頭の中に浮かんじゃって、「体の心底まで冷える」……ってちょっと矛盾したポエジー感がある。AIが出してきたポエジーというか。そういう風にも受け取れると思います。

――――ありがとうございます。では相田さん質問の時間に移ってください。

相田:わたし今この歌集を読んでるところです。で、これが辞書の言い方だってわかってなかったですね。なんで気付かなかったんだろう。辞書の言葉だな、そして辞書ってよく読むと変だ、という取り方と、ただ変だ、と思ってしまうところで分かれてしまったんだなと思いました。

睦月:文法ですかね。辞書文法だっ、とすぐ思った。「~~のこと。そういう感じの何々。」って、逆に辞書でしか見ない書き方じゃないですか。
〈そういう感じの〉もよく考えるとおもしろいですよね。説明を放棄するなよ、みたいな(笑)。

相田:なるほど、その変さも込みで辞書っぽさ…と思えたんですね。人の発話みたいな感じで取ってしまって。「」でくくっているからってのもあるんでしょうけど。

睦月:歌集のいちばん最初に置かれてるってことも大きいと思います。映画の冒頭に、その映画を象徴する一語を辞書から引用する、みたいなのって、なんか見たことある気がして。そういうイメージで入ってきました。

この一首は本当に「底冷え」のことだけで、短歌に乗せるには情報量が少なすぎますよね。感情や主観が一切入らない。その少なさが逆に、なにか予感めいたものを強く引き寄せている感じがするんですよ。この作者は短歌という詩型にあえて”入れない”ことで、空いた器に勝手に満ちてしまう予感みたいなものが……

(アラーム音)

お互いに時間が足りない…ですね…

―――――ではジャッジを‥決まり次第お願いいいたします。

伊舎堂→睦月
(「3分では相田さんの『言葉でこんなことができるんだ』の『こんな』が見えなかった…です」「歌集の冒頭に置かれてることで予告として効いてもいる‥‥に説得されました」)

温→睦月
(「花山作品の、4コマ漫画の最後にタイトルを持ってくる感じ」)

相田
(「あと何分かあれば魅力を言えます」「説明のしやすい歌を持ってくることもできたんですけど本当にいいと思う歌を持ってきたかった…と書いておいてください」)

睦月
(「すごいくやしそう…」)

――――睦月さんの勝利です! ありがとうございました。


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第6試合 

温 対 伊舎堂仁

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(伊舎堂がじゃんけんで勝利。後攻を選択)


温:

笑いながらフェラチオしてる君の目にうつるすべてを忘れたくない/ナイス害

好きな歌だったので持ってきました。「忘れたくない」がこの歌の主眼なんですけど、そこに納得感があります。何がこの納得感をもたらしてるんだろう…と考えてみたんですけど、笑いながらフェラチオされている、ってのが構造的におもしろいんじゃないかと思いました。

ごめんなさい、がっちりセックスの話をしてしまうんですけど―――人間のセックスって非日常で、あんまり最中のことを覚えておくタイプの行動ではないと思うんですね。非日常に寄っている。かつ、記憶するエリアに入っていない。対して、普通のデートの時間などは記憶に入りやすいようなことだと思う。「こういう思い出があったよね」というときに、セックスの話は引っ張り出されてこない。

「笑いながらフェラチオ」と書くことで、覚えておかないエリアのことが一気にグッ‥‥と日常方面に引き寄せられてくるから、これは官能的に…セックスしたいからセックスしてる、とは違うなにかがあったこと、として思い出されるっていうか。笑われた、ことで。そこに強い、「生きていてよかった」という感情がついてくる。そういう構造上の引き寄せ方…が、セックスの時間から「非」セックスの時間のほうに持ってきてるこのエンジンが、強く「忘れたくない」に作用している。

「忘れたくない」という願いは、だいたいのことは「忘れてしまう」という前提に基づいて引き起こされてくるものだと思うんですけど、この歌に書かれてるような時間・・・・という特に忘れやすいもの、を「忘れたくない」によって保持する気持ちというか。それを結句に置く感じというか。

そういうところに、「上手い」ってよりかは強く共感、した歌として持ってきました。

伊舎堂:ナイス害かー…。

―――――ありがとうございます。それでは伊舎堂さんからの質問をお願いいたします。

伊舎堂:「忘れたくない」という感情の強さを言うナイス害を疑うのか信じるのか‥‥みたいなことを争点にしたいです。歌に入ってる感情の強さ、を認めないといけない時間が俺は嫌いなんですよ。忘れちゃいそうなことだから、強い「忘れたくない」が要るっていうは分かる、うえで、それを上回るパワーの忘れない努力‥‥を主体はすればいいじゃないかって思っちゃうんですよ。

忘れない…ための努力が十全に払われてない形として「忘れたくない」っていう結句は表れてるように思います。君を、君の目に映る僕を、君と僕を大事にしてる…ように見せかけてなんか最後の最後にはこれを読む読者、のためのなにか、に持ち込んでないか?と。

ナイス害の短歌に関しては基本的に全部「疑い」ってものさしをはさまないと読めなくて…。「本当っすか」となるんですよ。書こうとしてるこれ、よりも「これ」を短歌にすることで手にする副産物の方をナイス害は愛してるんじゃないか、って思ってしまう。「君」よりも好きな何か。

…君の眼に映るもの、はそもそも主体には見えないものじゃないのか、って質問ではどうですか?

温:目の中に映ってる風景が反射してみえてるっていうか。あと、セックスだからもっと一体化した、視線かもしれないです。そういう読み方もありだと思います。

‥‥の一個前に言ってた「ナイス害のことを疑うことから始める」に戻って応えると、すごい分かる…話ではあるんですけど―――「あざとさ」みたいなことにもつながるし―――「ナイス害だから疑う」っていうことを始めちゃうと、そもそも短歌ってそういうものじゃなくない?という所に繋がるというか。ナイス害がそう見えやすい、ってことはあるにしても。ある程度は疑わないで読むことを強いる…のが短歌じゃないのかっていう反論があります。

伊舎堂:んー…

―――――それではお時間、大幅に、ですので伊舎堂さんの推す歌をお願いいたします。

(相田「んー… の内訳は聞きたいです」)

伊舎堂:はい、僕の推す歌はこちらです。

インターネットに悪口書くのやめてくださいカバも迷惑してます/直泰

…えーっと、さっきの平岡さんの歌、永井さんの歌、って「俺が黙ってても別にいい歌」を持ってきたんですけどこれはそうじゃない、歌ですね。俺が助けてあげないといけないって歌。57577にもなってないし…言い終わったあとに生じる何かも、共有されなさそうなやつ、ってことで「俺がなんとかしないと!」ってなるんです。そういう歌。

韻律の力も頼ってないから「ここが字余りですから性急な感じが出てますよね」みたいな手助けも受けられない。発想だけの歌。直泰さんという人が生きてて、こういうことを書けた、っていうところでしか勝負してない、そういう歌なんですよ。

インターネットに悪口書くのやめてください

は「分かる」と思うんですよ。これを言われて「なんで?」ってなる人は少ない。でもその後に「カバも迷惑してます」で「あれ?」ってなる。カバ。カバなんですよ「わたし」じゃなく。ここ…はかなり「嘘」ですよね。迷惑してるカバはいない。でも直泰にカバのことまで言わせてしまうインターネット罵詈雑言空間・・・みたいなのが、嘘だし全然意味わからない、ことで「見えた」感じがするんですよ。

「インターネットに悪口を書くのをやめろ!」が「お前の住所を晒してやるぞ」みたいな方向にいって結果、インターネット空間の嫌さを増してしまう、のでなく、「カバ」の捏造に向かって「は?」みたいなところに着く。イソジンのやつ…みたいなイラストのカバを想像させることで「悪口」を書くことの馬鹿さを、絵柄で相殺するんです。効く、けどかわいい攻撃。こんな歌は見たことがないです。

温:―――二つ、この歌の嫌なところを言いたくて、ひとつは「インターネットに悪口」が少し古いということがあります。インターネット=悪口ってイメージって10年くらい前のものですよね。今現在のネットでの「悪口を書かないでください」ももちろん射抜いてる…部分はあるんですけど、でもこのインターネット=悪口 の取り合わせがそれこそ「電車男」くらいの古さだと思います。今インターネットには悪口以外の色んな不愉快があふれていて…そういう世界に対しての正確なディスたりえていないかなあ、と。

そして伊舎堂さんも自分で言っていた「カバ」のかわいさ…道具として「カバ」を持ってきたことの嫌さがある。なんか、カバ… 「カバだよ。」「和もう」「みんな落ち着こうよ」みたいなセンスって。となるし、「カバじゃなくて自分でいけよ」と言いたくなる嫌さがあります。

伊舎堂:…これはあの、あれなんですよ。「カバ」にも主眼がありつつ、こういうことを言わざるをえない直泰‥‥っていうのも味わうポイントの歌なんですよ。カバを連れてきてしまうくらいに…「直泰を追い詰めたのは俺たちだ」という反省っていうか。そういう感じではどうでしょう。

…でもあれですね、「悪口」よりはもうちょっと次の、それぞれが正しいと思ってることのぶつかり合い…っていうのがインターネット空間の「今」だろ的な指摘をされるとそうだよなって思ってきちゃいますね…

温:あと「韻律を頼っていない」の件なんですけど僕はむしろ逆だと思ってて、「575にあえて乗せないよ」ってスタンスって、かなり韻律に補助されてると思うんですよ。良い歌か悪い歌か、ってところを離れて、そこは指摘しときたいところです。

―――――では最後のジャッジに移りますが…。どうでしょうか。

相田:なんかお互いの持ってきた歌の、下句、への「あざとさ」みたいなところで争ってるようにも感じます。

―――――お願いします!

相田→温
(「『今は「悪口」以外もある』って言われると、そうじゃんってなる」「歌でいうと直泰さんの歌のほうが好きです」「それまではまだ攻めていた伊舎堂さんですけど、温さんの「短歌って、まずは信じないといけないものなんじゃないか」って攻撃のあと、反撃ができてなかった」」)

睦月→温
(「ナイス害さんに疑いを持ってしまう…の件は聞けましたけど、それ以後は伊舎堂さんの、自分の攻撃がぐるぐる自分に回っていったという感じでした」「『インターネット』についての温さんの指摘でクリティカル」)

伊舎堂
(「『直泰がいちばんインターネットしてた時期』が憎いです‥」)

――――温さんの勝利です!全試合が終了!終了!








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