山下翔『温泉』の感想


これ



が通る自動販売機を探すところから始まった日

2台目(KIRIN…× BOSS…〇)で購入に成功。「やさしい麦茶」を買う。

9/24は石川さんの「架空線」についてのトークイベントで駅前の胡桃堂喫茶店へ。内山さんに「裏島」「離れ島」の草稿を読んでもらったときの最初の反応の話がおもしろかった。国分寺駅前のほうには2回、西国分寺駅のほうのクルミドコーヒーには1回行ったことがある。階段がある喫茶店って楽しい。喫茶店レベルが高い感じがする

『架空線』関連の展示が始まって最初の三連休に行ったのが一度目。

「やがて秋茄子へと到る」って今そんな入手困難なのかーとキリ丸がほっぺたの横で恋人つなぎみたいに自分の手をやってるときの目で『架空線』フェアーの棚から手に取ったけど「・・・・・・・・・」くらい黙ったあとそんなことはやめて山下翔『温泉』を買う。会じたいが9:15~11:00だったので、帰ってきても二度寝した日くらいの休日の残りぐあいで、ネットフリックスを観ながらブルボンのチョコチップクッキー ずっしりクリームデニッシュ レトルトのスパゲッティ 親子丼 と夜眠るまでに食べてしまう 

バカ舌…だとつまらない人間が出来上がると確か藤山寛美が言っていたらしいがちょくちょく、しかしペースは上がってその話が気になってくるようになった。詳細を知りたい。芸事の幅はどれだけおいしいものを日々食べているかに左右されるという説で、それはどういうからくりなのかも「章」くらいのボリュームで書いてある文章で読みたいくらいに気になっている。死んだあとItunesの再生数みたいなふうに出る食べた数があるとして、うすしお…13099です、みたいに言われるとして、それにしっくりくる一生がこのままだとできあがりそうだ。13099(いちまんさんぜんきゅうじゅうく)は書いてみてかなりこのくらいの数字だと思う

食卓は息子のきみがいつしやうけんめい話をわかりやすくしてゐる

ここからすべての短歌は引用元、山下翔『温泉』から。書かれてるけど、とにかく食べものがたくさん出てくる歌集だ。痛風は親指が腐り落ちるらしい…というイメージを伝え聞いた日から僕はそれの恐怖症で、読んでるあいだ何度か指のあたりがムズムズするような気持ちに襲われた。これは甘いものがどんどん出てくる佐藤涼子さんの『Midnight Sun』以来のものだった

やっぱり「温泉」の一連がいちばん読んでる時間じゅう歌集、というサービスを受けている気になる

世の中にはいろんな歌集にいろんな連作があるなかで、けっこう何回も何回も読み返すのは「温泉」のような一連の気がする。『人の道、死ぬと町』で言うと「なれますともさ」、『タルト・タタンと炭酸水』だと電車に落ちてた図書館の本をその市まで返しにいく連作

本を手に取り、この世の誰かの打ちあけ話・問わず語りを座りの良いソファなんかで読むわけだけどこの盗み読む、感覚は小説からも、惜しいけどエッセイ本からもあんまり得られない。それが歌集、で、職場の同僚には少し無理だけど、こんどひさびさに会う友だちくらいにはちょっと話すかもしれない(結局言えないかもしれない)くらいのトピックがごちそうに感じる。あと長い、距離を移動する一連とかもなんか気持ちいいですよね

食卓は息子のきみがいつしやうけんめい話をわかりやすくしてゐる

「温泉」らしさは他の短歌から吸い取り楽しみながら、ふせんを貼りたいのはこういうひとつ高次にある、「温泉」世界の外でも起きてそうな普遍化されたケース、っぽい歌になってくる。けっきょく「あるある」ばっかり好きだなお前 それが弱点だお前の とも自分に思う「うすしお」ばっかり食べてるから

父、母、息子、娘、祖父、祖母って集団があるとして、息子、が交通整理を担ってない集団にはちょっと自分は不安をおぼえてしまう。職とかにあぶれてる「息子」像がこんどは逆に、浮かび上がってこないといけない感じ。

この「いつしやうけんめい」な息子にばくぜんと代入して読める知り合いを、多くの読者は持つのじゃないか。

爆竹のババンババンバンバンと鳴るゆふべ澄みたる山の空気に

わが打ちしピンポン玉とほく弾みゆきかへつてこない母からの玉

どっちも『温泉』のなかでは大切な歌だと思う。特に2首目のほうが好きだ

「ピンポン玉・とほく」と読むと「・」のところでヒュッ、てなる時間経過が、作者がこの歌を詠むに際してもう一度ちゃんと「ピンポン玉」を思いだせていた、ような感じを受けるからだ

力の限りあなたをおもふぎゅつと眼をとぢても潰れない二つの目玉

こういう、ほとんど「死んでもいい」みたいなやりきれなさ、で嘘をついてくる人じゃないという気が山下さんにはしてるしこの歌は好きだ・・・けど、「なんということもないんだけど」「短歌の韻律で言われると心地がいい」と言うことができる短歌、に喜んでるとき自分はなんか感情を過分に搾取、されてる気がして不安だ

『温泉』の多くの歌にはどうもそれではもったいないんだろうけど「だまされないぞ」みたいな気持ちを持った。

韻律がボコボコな、未知の別な作者の「でも大声は出てる」みたいな歌にはコロリといっている(らしい)から、これは歌の上手さ、研鑽を積んだ時間、への逆差別という気もしてますけど

卒業式で読みし答辞をここでもまたほめられてをり七年経ちぬ

秋の夜の弔辞読みたし母の顔、友の顔うかべ次々ころす

こういう歌ってけっこう作歌姿勢、みたいなものをこっそり言ってくれてる歌だよなぁと僕は思っているし、この歌の「答辞」「弔辞」ってかなり「短歌」のことだよなぁと安心、もするんですよね。なのでこの二首は好きなんです

つまり、そのまま・思ったまま言ってしまうとあまりに「なにか」の足りない感情や出来事、を「弔辞」「答辞」「しらべ」というパッケージにおさめちゃう、ことで別途なにかを得てるわけで、そこに対してなにかを支払わされてる、気持ちに僕は「搾取」という言葉をあてたくなるんじゃないか。ゆとりが自分には足らないんだと思うし、じゃあなんでお前「短歌」でそれ言ってんのって質問に5年自分はこたえられてない。(「おもしろくなるときがあるから」と言うことにしている)

だから、

悪口を言へばよろこぶ飲み会にわるぐちだんだん過激になりぬ

じゃないんだぜマジで、という気持ちになる。このあたりにはけっこう私怨も含まれる


ポップな