新谷道太郎の話はウソ?ホント??

慶応3年11月下旬、薩長芸三藩同盟は6500人もの大規模な挙兵をする。この事前の密議はどこで行われたのか。明治時代以降も、あまりにも謎すぎで歴史学者や大物歴史作家はふれてこなかった。

それは慶応3年11月6日、龍馬の主導の下に、四藩の志士が「巨大な徳川を倒す」という君命で密議を行った。場所は瀬戸内の大崎下島・御手洗港から約1.5キロ奥まった寺で、住職の宅だった。幕末志士の新谷道太郎(にいや みちたろう)の生家である。そこに集まった十数人の志士たちが密議を行い、極秘の四藩軍事同盟を結んだ。

四藩軍事同盟の参加者(慶応3年11月3日〜7日)
芸州藩 池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平
薩州藩 大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞
長州藩 桂準一郎(木戸 孝允)、大村益次郎、山縣狂介(有朋)
土州藩 坂本龍馬、後藤象二郎

星野文平
幕府の昌平坂学問所に入り学者として名声を博す。文久元年広島藩校学問所(現修道中高等学校)教授に登用。京都で高杉晋作ら諸国の志士と討幕運動に参画。文久3年に軍備の近代化を進めていた広島藩の藩命により勝海舟と蒸気船購入交渉を行うため京都に向かう途中、切腹時の古傷が悪化し、文久3年2月10日死亡

龍馬はあえて広島藩・大崎下島の新谷道太郎宅(寺の住職宅)に三藩の主力メンバーを集めたうえで、同藩との軍事同盟を結んでいた。
(道太郎述書より)

芸州(広島)藩は、西日本一の雄である。豊富な軍資金と兵器と物量をもつ。徳川幕府につけば、薩長土にとっては大きな障壁となる。巻き込めば、徳川を倒せる可能性がある。重要なキャスチングポートだった。

明治維新から60年余年経ったところで、道太郎がこれら四藩の志士たちの偉業を世に伝えはじめた。皇族の前で語ったり、各地を講演して回ったりした。昭和11年には述著として単行本で遺した。当時は新聞などにも取り上げられていたが、翌年、盧溝橋事件で日中戦争に突入。世間やマスコミの話題は明治維新よりも、戦争へと傾斜していった。道太郎の存在は薄らぎ、幕末の四藩軍事同盟すらも、ふたたび歴史から消えてしまった。

そもそも新谷道太郎がなぜ昭和になって語ったのか。
慶応3年11月3日から7日まで、四藩のメンバーが御手洗の同家(実家)で会合し、軍事同盟を結んだ。 そして「この密議は60年間黙っていよう。しゃべれば暗殺の危険が及ぶぞ」 龍馬が全員に約束させた。
「なぜ60年間も待つのか」新谷道太郎が訊いた。
「これから60年経てばみな死んでしまう。いかに佐幕派のものでもその子孫までが怒りを継いで殺しに来ないだろう。この参加者のなかで60年生きたものだけがこの御手洗の四藩密議から歴史が大きく動いた、と語るとよい」と11月7日にそう口止めした当人の坂本龍馬が、8日後の11月15日に京都で暗殺された。誰もが口を封じた。だから、歴史の真空地帯になった。

しかしこの話、記憶が60年前の話だったうえに、四藩軍事同盟の参加者には、6年前に死んだ星野文平が混じっている事や、その他複数の史実とは違う事を証言しているからという理由で、新谷道太郎の話はボケ老人の昔話扱いされている。

引用・参考文献:穂高健一ワールド

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