見出し画像

母に会いに行った話(隠れ虐待と母との記録完結編)

街頭すらまばらな暗闇の中を、各駅停車は南へ南へと走っていった。

家の最寄り駅に着くと、母の車が停まっていた。
いざ母のそこにいる気配を感じるとぐっと緊張した。
あの軽の運転席に収まっているだろう小さな母は、あそこで何を思い、私を待っているのだろう。

私は母の車の後部座席を開けた瞬間に、いや、ドアを開ける動作にちょっと食い気味に言った。

「今回は色々お騒がせしてごめんなさい」

乗り込むために若干頭を下げた状態から、頭を全く上げず、後部座席に着地しながらもっと腰を折る。

「なんのことだかわからないな~」

という感情がないように取り繕った母の声が、頭を下げた向こう側から聞こえた。

決まっていつもそうだ。母は、自分のキャパを越えたものには全てわからないと言うのだ。
「お母さんの将来の夢はなんだった?」という質問にも、意を決した「彼氏ができたの」という報告にも「私はわからないな」決まってそう答えた。

私は後部座席に小さくなって座った。
ひたすらエンジン音を聞きながら、車は馴染んだ暗い町を進む。温暖なこの地域では、きっと明るい時間なら、笑おうとしている山が田んぼ越しに見られるはずだった。

海と畑と低い山しかないこの町は、行き交う車のライトが町を照らす明かりだ。
私の町には学校がひとつもない。正しくは、まもなく、なくなる。

実は、このタイミングで母に会いに来た理由は、弟に会ったからというだけではない。

明日は、私の通っていた小学校の閉校式があるのだ。
家族全員が通った小学校が、閉校する。

その閉校式で、私は出演として呼ばれていた。
というのも、この地域は地域ごとの山車や神輿の祭礼が盛んだった。うちの一家も代々それに参加していて、私はお囃子の笛吹きをしている。そこで閉校式での囃子の演奏を頼まれていたのだ。
行けたら補欠で行きます、と返事をしてあったのだが、家で母と2人で居続けるのはお互いに辛い今、そのタイミングで帰省するのは好都合だった。

「いつ帰るの?」

沈黙する車内で、母はおもむろに口を開いた。
私は後部座席でひっそりと身を固くする。
そして母は、私が返事をするのを待たずに言った。

「閉校式が終わったら、帰りな」

それは、感情をできるだけ圧し殺したような声だった。
いつもは決まって「いつまでいられるの?」と聞いてくる母が。数日いれると「じゃあゆっくりできるね」と喜ぶ母が。
こう私に言うと、覚悟して準備しましたと言わんばかりだった。

「次の日の11時過ぎに新宿行きのバスがあるはずだから」と、母は続けた。

いつもは「バスの時間なんて私わかんないから~」という母が。

なんでも、「私はわからない」と、いう母が。

「わかった」と、言うしかなかった。
胸に、針が刺さったような痛みを確かに感じた。

自宅に着くと、ちゃんちゃんこを着た父が迎えた。
父はいつも通りのようだった。母がどうなろうとも全く態度や機嫌を変えない父だが、今回はいつも通りを努めているようにも見えた。

その日はもう遅かったのでお風呂に入って寝た。

翌日。朝から母と父のやり合う声で目が覚めた。
閉校式に行くのに、母は混雑でどこにも車が停められないに決まっていると言い張り、父はそんなわけないはずだと弱々しくも反論してる。
心配系の妄想癖の母vs寛容で適当な性格の父、の両親が毎日のようにやっていたやり取りだ。

学校に太鼓などの楽器の搬入するのを手伝いに行った父とは別行動になり、母と車で小学校へ向かう。

昨日の夜と同じように、車はいつのも田舎道に走り出た。

山が、笑っていた。

その日は空色というにはあまりに濃い、あきれるような見事な青空が広がっていて、山は緑の伝統色を散りばめたような色とりどりの緑に染まり、ところどころに彼岸桜のピンクが飾りのようにあしらわれている。山の麓には爽やかな若葉色の田園が広がり、満開の菜の花畑が作る黄色い絨毯が目を引く。日本列島でも一足先に春が来るこの地域の、一年で一番美しい瞬間だ。

母との車の中でそんな景色を見ながら、小学校の卒業式のことを思い出していた。
卒業式が終わったあと、校門までの道の両端に在校生と先生がずらっと並んでくれていて、卒業証書を持った私たちはそこをちょっと恥ずかしがったりしながらも晴れ晴れと通るのだ。
そこにはこの日のような冗談のような青空が広がっていて、大音量で嵐の「love so sweet」が流れていた。にしてもこの曲が小学生のときの曲だと思うと時間の流れにゾッとする思いだ。

そんなことを考えていると、少し緊張していた体がほぐれた。
そして車はなつかしい小学校付近に到着する。
すると驚いた。坂の上にある学校から見渡す限り車が敷き詰められていた。
「ほら見たことか!」父の文句をブツブツいいながらもうヒステリー気味の母にひやひやしつつ、辺りに車を走らす。
どこもいっぱい。
「勝った…!」
母はむしろ恍惚として言った。停める場所がないパニックより、父との賭けに勝った得意さが勝ったらしい。

少し探すと駐車できる空きを見つけて無事に車を止められた。
「負けた…」と、もうむしろ不服そうな母と、学校に踏み入る。

校庭にも、びっしりと車が埋まっていた。
町内の住民がほとんど全て集まっているというところだろう。いや、きっと地元を離れた卒業生も来ないとこの町にこんなに人口いるはずないだろうと思った。想像の10倍以上の人だった。

それもそう。
この閉校式は、ただ小学校がなくなるという式ではない。
いうなれば、町の、葬式だ。
この町はこの数年で中学校などの他の学校はすでに廃校していて、私が卒業した、幼稚園、小学校、中学校、その全てがなくなることになる。学校だけでなく、公民館などもなくなった。
唯一の望みだった小学校がなくなることで、この町に、人が集まる公的な場所は一切なくなる。歩いて登下校をする子供の声も、なくなるのだ。

学校の葬式。
町の葬式。
故郷の葬式。
ここで、私と母との関係も、終わりを迎えるのだろうか。

校庭に入って校舎を見上げた瞬間、感慨で声が出なかった。今も幾度と夢に見続けているこの場所が、ここに、確かにあったのだと。

すでに式が始まっている体育館に向かう。外まで人が溢れ返っていた。
そこまでくると、人混みの中に知り合いを何人も見つける。
「あらえりちゃん久しぶり」と地域のおばちゃんおじちゃんたちに囲われつつ体育館に入ると、壇上では子供たちがヒップホップを披露している。どうしても観客は年配が多いので、みんなノり方がわからないのかイマイチ盛り上がっていない。実際の音楽より大分遅い手拍子がバラバラと鳴っている。
「ブンチャッ、ブンチャッ」というビートが流れる閉校式に少し驚いたが、会場はみんな楽しそうだった。ノりきれてはいないものの、みんなニコニコとしながら、ステージを見たりおしゃべりをしていたりする。

ガーナの葬式を思い出す。
ガーナの葬式は日本では全く考えられないスタイルで、喪服なんか着ずに、Tシャツにジーンズとかで、みんなで歌い騒ぐのだ。祝っているのか弔っているのかわからない、お祭りのような儀式である。

現校長先生がスクリーンを使って学校の歴史を振り替えるのが終わると、生徒たちによる学年ごとの出し物の発表に移る。
手話をしながらの合唱をする2年生や、英語劇を披露する1年生。歌詞や台詞があんまり覚えられていないような子も、にこにこ生き生きと嬉しそうにステージにいたのが印象的だった。

それが終わると昼休憩になる。学校の校舎が全解放され、各教室でPTAによるクレープや焼きそばなどが振る舞われた。

卒業以来10年ぶりに入った校舎は、びっくりするほど変わっていなかった。
今の小学生のためにはもうちょっとアップグレードしてあげてほしいと思う掲示されているポスターや展示物もほとんど変わっていなかった。
昨日まで通っていましたというような感覚に違和感を覚える。私は小学校5年生の時には身長が止まったので、見ていた目線が変わっていないということもありそうだ。

母と、家庭科室で焼きそばとクレープを食べた。なつかしい先生方も、思い出話をしながらクレープを食べている違和感がおかしくて、母ともぽつりぽつりと思い出話をできた。

第二部の幕開けは、私の出番だった。
体育館のスペースを囲うように、5つの組が太鼓を配置している。
私も組の祭の装束をまとわされ、「松海中組」の吹き手として篠笛を構えた。
そして各組交代交代で囃子の打ち合いをする。ギャラリーは体育館を一周する形で入れ替わる組の囃しに群がって騒ぐ。
そして全組で一斉に打ち合い。囃子の振動はすごいもので、体育館が船になったかのような揺らぎを吹きながら感じた。他の組の迫力に負けじと吹き回す。

ヒップホップの発表の時とは比べ物にならないいっぱいの拍手で体育館が満たされた。

会場のボルテージがガーナになったここで、閉校式はフィナーレに突入する。
そのラストを飾る演目は、「校歌斉唱」だった。

せっかく盛り上がった会場で校歌斉唱?
と会場のテンションが下がり始めた瞬間、流れたのは、会場全ての人が知る校歌の、全く聞いたことがないファンファーレアレンジだった。

どよめく会場。
なんだなんだ、聞いたことないぞと顔を見合わせる大人たち。
もはやロックに化した盛大な前奏に、小学生の「うおーっ!」という叫び声が響いた。
その興奮した雄叫びは他の生徒たちに広がり、すると小学生たちが、自然と肩を組み始めた。
そして若い卒業生たちも小学生の固まりに突撃して肩を組み始めたと思うと、たちまち連結していって、会場にいくつもの輪ができた。
そして、体育館を揺らすような大合唱が始まった。
みんなで肩を組んで右に左に揺れながら、跳ねながら、もう踊り出したりしながら、もはや歌っているというか叫んでいる。

感動した。校歌なんて、始業式などの式典でしょうがなく歌わされるもので、みんな下を向いて口だけ申し訳程度に動かしていただけだった。いつもピアノ伴奏の子のリサイタル状態になっていて、申し訳ないと思いつつも私だって歌っていなかった。

それがどうだろう、割れんばかりの、200人を越える大合唱。
この小学校に1年もいなかった1年生の子から、時代をいくつか越えて町を見守ってきたおじいちゃんまでが、みんなが肩を組んで顔をくちゃくちゃにしながら歌っている。

私もカメラを構えながら歌ったし、母の方をうかがうと、母も手拍子をしながら口ずさんでいた。
嬉しそうな母の顔を見て、とてもほっとしたし、嬉しかった。

そして校歌斉唱が終わると、現校長の「○○小学校、バンザーイ~!」という掛け声で、みんなで大きなクラッカーを一斉に鳴らした。
体育館いっぱいに、金や銀のキラキラのテープが舞った。

そこはもう完全にガーナだった。それよりもメキシコかもしれない。それとも夏のブラジルか。

いや、違う。
そこは、関東ながら日本で一番自然の美しい春を持つ、私の生まれ育った、美しい、瀕死の里。

閉校式が終わり、地元の知り合いたちにあいさつをして、再び私は母と二人になった。

母はとても柔らかい表情になっていた。
私はそれを見ながら、母に切り出した。

「最後に、ウラヤマ行ってみない?」

小学校は裏に小さな山を持っていて、私たちはそこをウラヤマと呼び、休み時間はそこを駆けずり回ったり、秘密基地を作ったり、枝などを使って武器を作ったり、そこで採れる柿やスモモや桑の実を食べたりした。
私が好きだったのはグミの実。赤くプリプリした実から種を出すと、その種の周りについた果実部分があって、それが甘くておいしいのだ。桑の実はいやだ。とれれば美味しいけれど、採るのに桑の木を上る時点で大量の毛虫が降ってくる。

そんなウラヤマは、大人になった今でも頻繁に夢に出てきた。
正直、校舎内よりも行きたかった場所だ。

「ウラヤマ行ってみない」と言ってみる私はきっと、
お母さんに「遊ぼ?」「一緒に行こうよ」と言い断られてきた小さい頃の私だった。

母は、じゃあ行ってみようかと言ってくれた。

母と二人で、ウラヤマへの登り口の前に立つ。
それだけで、わくわくするような、ドキドキするような’気持ちで、少し踏み入るのをひるんでしまった。よしと思って運動靴でよいしょよいしょとウラヤマへ上がる。自然と少し駆けた。(ヘッダー画像はそのときのウラヤマの入り口の写真)
少し樹は少なくなっているものの、夢に出てき続けたあの景色と変わらなかった。果物の樹はあまりなかった。今のご時世では休み時間に野のものを食べるなんてよくないとされてしまったのかもしれない。

母とウラヤマを歩く。
枝、葉、土、石、色んなものを踏みしめながら歩くザクッザクッという音を聞きながら、結局、家族とどう向き合ったらいいのかとぼんやりと考えていた。

特になにか会話するわけでもなく、余韻にだけ浸りながら私たちは小学校を後にした。

そして家に帰ってつかの間、私は家でさして開けもしなかった荷物をまとめて、東京へ帰るために再び母の車に乗り込んだ。
帰りがけ、父に次はいつ帰ってくるんだと聞かれたが、わからないとだけ答えた。本当に、次いつ帰るかは、わからない。

駅に着き、バスの時間を母の車の中で待った。
もう母との沈黙に慣れたこのころだが、前の日車に乗り込んだときより、ずっといやすかった。
お互いに相手への警戒心が薄くなった感じだった。

「私ね」

母がおもむろに口を開いた。

「あれから、色んなことを思い出してるの。忘れてた色んなことをいっぱい思い出してる。それでね、色々不思議なの。においがするの」

「におい?」

「寝てて、色んな夢を見てね、朝、炊きたてのご飯のにおいで起こされたの。ご飯が炊けたんだな、ご飯の準備しなくちゃって思って。でも、ご飯炊いてないし、寝てる部屋までご飯のにおいするわけないのに。そういうふにね、突然ないはずのにおいがいっぱいするようになったよ」

ぽつりぽつりと、落ち着いた声でそう母は言った。
やはり今回のことで、いかに母の心と頭に強い衝撃を与えたのか思い知った。
記憶と嗅覚は共鳴しているので、今まで忘れていたことや思い出したくなかったことを、急に大量に思い出したことで、その思い出と一緒ににおいも蘇っているのだと思う。

母は続けた。
「あれから色々、たくさん、考えたんだけどね、えりちゃん、書けばいいと思うよ。私もう、絶対に見ないから」

すぐに返事ができなかった。うーんとだけ言って私は黙る。
現に母に認められずとも書いてしまっているわけだが、どちらにせよ母が私が自分のことを書いているのだと思って爆発してしまうのが心配だった。

「ううん。お母さんを傷つけてまで書きたくないから、しばらくたったら消すことにするね」

と、私は答えておいた。

そしてまもなくバスが来た。
母に「またすぐ帰ってくるね」と言った。
母は「気を付けるんだよ」と運転席から少し身を乗り出した。

実家から帰ってきて始めてちゃんと目を合わせた母の顔は、母が泣き腫らしたそれと、よく似て見えた。

バスの一番前の席に乗り込んで、母の車が走り去るのを見届けながら、バスは出発した。
このまま目をつむれば、大都会新宿に着いてしまう。

普段はバスに乗ると真っ先にイヤホンをするところだが、なんだかそういう気持ちにならなかった。
ゴウンゴウンという走行音が心地いい。

私は、高速バスに乗ると運転席の逆の一番前の席を取ると決めている。
高速バスは普通の乗り物より目線が高くなる。
バスの速度に合わせて自分が風を切って道を進んでいるようになるからだ。

なぜか私は、わくわくしていた。
上京する時のバスの何倍もワクワクしていたかもしれない。
恐れるものはなにもない気がした。
これから楽しいことがたくさん待っているような気がした。
自分にはもっと色んなことができる気がした。
自分は強い気がした。
頑張ろうと思った。
胸が高鳴るのを感じた。

もっと好きな人が現れて、尊敬できる人が現れて、私はきっと、幸せになるんだと。

そして今日、平成がまもなく終わろうとしている。

あれから、私は母の夢を見なくなった。泣いて起きることもなくなった。
結局、私は誰にも話さず自分でも辛かった過去を自分の妄想と思いながら、それを呪いのようにしてきてしまったのだと思う。

私はあのウラヤマで、家族との関係を「なにもしない」ことにすると決めた。
絶縁を申し出ることも、頑張って家族の機嫌を取って関係を繋ぎ止めることもしない。

自分は自分で、これまで通り家族を大事に思いながらも、自分が幸せになれるように一生懸命東京で生きていく。表現を続けて創作活動をする。

それで何か大事なものがなくなってしまっても、きっとそれは自然なことだと受け入れられる。
自分が本当にしたいことや大事なことを見失って生きていく方が恐ろしい。

学校のなくなった大事な大事な美しい里が、これからどうなっていくのか楽しみですらあるように、
少し大事な何かが、変化したりなくなっていくことが怖くなくなることが、私にとって大人になるということなのかもしれない。

平成の始まりに両親は出会い、平成7年に私は生まれ、平成の終わる今日まで、母や家族やたくさんのもので今の私という人間が生まれた。

平成が、今の私と言う人間が「生まれた時代」だとしたら、令和は私が「生きる時代」だ。

あと63分で、時代が、変わる。

 
 
 「隠れ虐待と母との記録」のエッセイシリーズはこれにて完結です。
たくさんの方に読んでいただき、ご反響をいただきありがとうございました。
まだまだエッセイを書き続けるので、お読みいただけたら幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?