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母に「隠れ虐待」されてたのを思い出した話 2019/2/22

「毒親」という言葉も流行っている。
毒なんて、人類みな持ってるものだ。大丈夫!

これから、今までの人生で一度も誰にも言ったことがないことばかり書いていく。
重症な記録癖を持つ私が唯一文字にできなかったことたちだ。

これは、母に「隠れ虐待」をされていた話だ。
虐待も、一般的に思う「食べ物を与えられない」「暴力をふるわれる」以外にもいろいろなケースがある。

自分もにたような思いをしてきた、自分が親になって似たようなことをしてしまいそう、そんな人もいるかもしれないと思い、ようやく筆をとった。

一例として読んでいただけたら幸いです。


私は今、母と仲がいい。今も昔も、私は母が大好きだし、本当に感謝をしている。それを前提に読んでいただけたらいい。

最近、母から虐待されていたことがぶり返している。克服したはずなのになぁ。

家で作業の間にボーッとしている時とか、寝る前とか、母からされたいろんなことを無意識に思い出して沈んでしまう。虐待される夢を見て泣きながら起きることも少なくなくなった。まずい。恐怖が沸き上がってきて震え、自分が大人になったことに気づき、その恐怖は憎しみに変わってしまう。めちゃまずい。

これから書く母との生活。
私は中学生になるまで、自分は母に殺されるのだと当たり前に思っていた。
人生のベースだ。かわらない運命。私は母に殺されるのを待ってるだけ。寿命は母がしびれを切らしたとき。
毎晩、布団の中で震える習慣がつく。私が殺されるとしたら寝ている間に違いない。包丁を持って私を刺しに来る。母の足音に全てびくついた。
天井のシミがお化けに見える、というちっちゃいころの恐怖あるある。
私もそうだった。ボロアパートの天井のシミがみんなおばけに見え、それを戦隊のように組んで、私がお母さんに殺されそうな時、そのおばけ戦隊が天井から出てきて助けてくれるのだ。おばけ戦隊がいるから私は大丈夫。そう自分を信じ込ませて眠った。
母との関係が平和になった今、あのおばけさんたちはシミにしか見えない。大人になったものだなぁ。

私はほとんど母に虐待を受けていたことを人に知られていない。
歴代の学校の先生も、友達も、同居同然だった祖父母すらそれを知らない。
それは当時、自分が虐待されていることに気がついていなかったことと、母の虐待が世間でいうものと少し違ったからだ。

母の虐待の原因は、子供が嫌いだからではない。私たちを愛してくれていた、すべてそれが前提の行動だ。
だが母は、元々感情のコントロールができない人だった。感情的で、思い込みが激しく、病的な心配性で、世間とずれてしまうほどの真面目さを持っている。ヒステリーを起こしている時は特に、他の人の声が全く聞こえていないように耳に入らなくなってしまう。
なので、世間との虐待とはこんな感じで逆なのだ。


「食事を与えない」ではなく「大量の食事をムリヤリ食べさせる」

母は本来おとなしい人だが、1日中ヒステリーを起こして、異様に甲高い声で常に私や父に叫んでいた。
その中で、母は家族に食事を与えなければという義務感を暴走させて、食事の時間を問わず大量の食事を私たちに食べさせた。おにぎり、菓子パン、団子・・・無心にそれを食べる。するとやはりご飯が食べられなくなる。ここからが問題だ。ご飯を残すと母は狂ったように騒ぎだす。なんとしても食べなければいけないので、その成人男性の食事量をはるかに越えたそれを、小学生の私は泣きながら食べる。私は元々胃が弱いので限界は早い。幼いながらに「一度吐いてから食べる」という手段を思い付く。母の奇声罵声から少しでも逃れるためも含めてトイレに駆け込む。またもや問題発生だ。
よく人から育ちがよさそうと言われるが、それは自分の育ちの悪さを繕うために身に付けた後付けのものだ。実家はオンボロアパート。水洗トイレすらない。いわゆるぼっとんトイレですらない。便器のなかをのぞけばそこはもう排泄物がたまっている、というものだった。(小学生まで風呂もついてなかった)なので、トイレで吐くと、バレるのだ。
よって吐けない。そうこうしていると「トイレに逃げただろ!」という甲高い罵声が聞こえてくる。

休日、仕事が休みで私も家にいると、ヒステリーはヒートアップした。
母は叫びながら、狭い家をドンドンと音を立てて走り、掃除という体をしながら家中に掃除機をぶつけている。文句や罵声を浴びせられながら私は部屋の隅で一日じっとしている。そんな日はご飯を出してもらえないことが多い。運が良ければ「ごっめんね~!ご飯出さないで最低な母親だよね~!(高笑いしながら身震い)」など言われながら机に投げつけられたパンを、お腹に押し込む。それからヒステリーが一段落すると「かわいそうだからアイスあげる」と言われいきなりアイスを渡される。それがヒステリーの山場を越えた合図なので、そのアイスは私は嬉しかった。だいたいチョコのアイスだった。

「育児放棄(ネグレクト)」ではなく「”育児部分”以外放棄」

子育て。食事を与える、学校に行かせる、病気になったら病院に連れていく。
これはなんとかしてくれていた。今生きているので本当に感謝したい。
だか育児は、多分、本当はこれだけでは行けないのかなと思う。
例えば、一緒にご飯を食べる。ご本を読んでくれる。家に帰って学校の話をする。クリスマスにはサンタさんがくる。
うちにこれがなかった。恨みがあったりはない。うちはにはそういう文化がなかったというだけ。
母は子供との距離が全くわからず、ほとんどのヒステリーで当たってくる時間以外はそもそも子供となるべく離れて暮らしていた。
読み聞かせで学校をまわるのが趣味だったが、私たち兄弟に読み聞かせをしてくれたことは一度もなかった。
恨みがないとさっき書いたが、やっぱり、さみしいなぁ。母と手を繋いで歩いた記憶くらいはほしかったかな。

そういえば最近気づいたことなのだが、私は家で母とご飯を食べた記憶が1度しかない。
友達がお母さんと一緒のテーブルでお菓子を食べている動画を見せてくれたときの違和感は相当なものだった。そっか、うちが変なのか、と。

母は家で自分は奴隷のように立っていないと悪いことが起こる、と思い込んでいる。
家族との距離がわからないのもあるのか、私が物心ついたときから、母は台所の狭い部屋に椅子とテレビを置き、寝るために寝室にいる時間以外は台所で一人でいる。

たった一度ある、家で一緒にご飯を食べた記憶は、中学生のはじめくらいのことだった。ずっと心の宝物で持っている記憶だ。
学校が休みの日の昼、弟も父もいなくて、私と母だけ。いつものように母の作った昼ごはんを一人で食べようとすると、母が自分のご飯をもって茶の間に来て、座った。
一緒にお昼のサッポロ一番を食べた。
めずらしくヒステリーを起こしていなかった。最大限までのびきった状態で出されるいつもの美味しくない即席麺が、最高に美味しく感じたのを忘れない。
嬉しくて、幸せでたまらなかった。本当に、宝物の記憶。


「病院に連れていかない」ではなく「病気でないのに何度も病院につれていく」

心配、は、常に相手のためにあるとは限らない。
心配→相手が一番いいようにしてあげる ではなく
心配→自分の心配してる感情をどうにかする になってしまう。
つまり母は、私が心配だから病院に連れていく、ではなく、自分の心配をどうにかするために病院に連れていきまくった。
私が足が痛いなぁとつぶやいたら、母が爆発した。
「病気だ!死んじゃうかも知れない!病院行くよ!」
母はパニックを起こしながら私を車に詰め込もうとする。私は弱々しくも
「ただの筋肉痛だよ、お医者さんに筋肉痛ですねって笑われちゃうよ!」
と抵抗してみるが、それも虚しく緊急外来へ直行。お医者さんには「筋肉痛ですねw」と笑われた。

小学校中学年の時、母に婦人科に連れていかれた。「生理が来ないから病気だ」というのだ。まだクラスにちょこちょこと初潮のきた子がいるくらいの程度だ。ふと母は気分で心配を爆発させてしまったのだろう。
私はまだあまり生理自体にぴんと来ていなかった。病院の先生はもちろん生理が来ていなくて普通だ、と言ってくれたのだが、母は先生に無理を言って、私に生理を強制的に起こす薬を飲ませた。母はすっかりひと安心していたようだったが、私はそこからが問題だった。
薬の副作用だ。異常な腹痛と吐き気に苦しみ、初めての生理は止まらないほどの大量出血だった。母は満足そうだった。


「怒る」ではなく「パニックになって異常行動をする」


私のせいで母が帰ってこなくなったことがある。小学校4年生のことだ
私の実家の地域はたいそう田舎で、年に一度地域の村祭りがあった。
そこで母が私の写真をいっぱい撮る。あまりに撮るので、私は恥ずかしくなって言ってはいけなかった言葉を口にした。「私写真きらいだから・・・」
気づいたら母は祭りから消えていた。

なんでいなくなったのかはわからないが、自分はとんでもないことをしてしまったということには本能が気づいた。
父に送ってもらい一旦家に帰ると、家の中はぐちゃぐちゃになっていた。
そして、家中に、それまで母が撮った膨大な量の写真がビリビリの小さな紙切れになって家中にばらまかれていた。体の一切の血の気が引いた感覚を忘れない。私が写真が嫌だと言ったのが母が消えた原因だと、気づいた。
私は泣きながら写真を集め、セロハンテープで写真を繋ぎ合わせた。もちろん全部完全に戻ることはなかった。この写真みたいに、一生お母さんがもとのように戻ってきてくれることはないんだと、その時は思った。
次の日母は帰ってきた。はやく謝らなきゃ!そう思って繋ぎ合わせた写真を渡して、謝った。すると母は、私の目の前で繋ぎ合わせた写真を発狂しながら破き捨て、「自分のしたことがわかるか!」など怒鳴ってまた消えてしまった。

それからである。何日か母は帰ってこなかった。そして数日後。私が一人で登校してるとき、下校してるとき、母が車で私の元に一瞬乗り付けるようになった。
一瞬横に母の車が現れ、ウィーンと運転席の窓が開いたと思ったら、私に勢いよく怒鳴り付け、ものの10秒くらいで走り去る。これが何度も何度も続いた。
また数日後、やっと母が帰ってきた。ミス窓ウィーンのときとまったく様子は変わってない。

私は一日中、台所で土下座し、物心ついたときには覚えていた「もうしわけありませんでした」「もうしません」「ゆるしてください」をゲシュタルト崩壊しながら唱え続けた。「うるさい」「じゃま」としか言われなかった気がする。その間食べ物やお風呂や睡眠はどうしていたのか、それからどうやって母が落ち着いたのかは覚えていない。どしゃ降りの中外に放り出されたりしながら、なんとか生活を取り戻した。

今まで書いてきたのは、長い18年間の出来事のほんの一部。

他の家族はどうだったのかというと

まず父。
父は同じ親としてそうとうキーキー言われていたが、父がそれに反発したところを一度も見たことがない。
ただ、はい、はい、と返事をするだけ。ひたすら耐えていた。逆に、母に咎められたことをやめたりすることも絶対になかった。ただ、嵐のように、それを耐えるだけ。私をかばってくれることもなかった。
弟は、不思議と私のように当たられていることは少なかったと思う。
私が守らなきゃと思っていてどれくらい守れていたかわからないが、母は弟をとってもかわいいかわいいしていたのでそのせいが多いかと思う。あと、できが悪くて弱虫だった。子供らしくかわいい子供だった。

対して私は小さくても同じ女性だし、社交的で出来も悪くなく、母の影響でどんどん達観していって子供らしくない子供になっていたので、絶好の当たる的だったのだろう。

やってきた反抗期

克服したはず、というのは高校時代の話だ。世に言う反抗期だ。
私はこの母のトラウマと、それによってか形成された年齢離れした性格で学校でも先生たちに生徒扱いされず甘えられてしまっていたことや、やっと信用できた友人たちが全員死んだことなどが重なり、私も大爆発してしまった。
母へ植え付けられたトラウマをぶつけた。反抗できるということを覚えた。母に「自分がなにをしたかわかる?!」と、怒鳴ったことが、多分、ある。されて嫌だったことを、して、しまった。仕返しだった、たぶん。
1年くらいの不安定な時期を乗り越え、私は母とうまくやっていくことを覚えた。そして家を出た。もう家を出て5年が経とうとしている。

現在

私たち家族は、ずっと、母の話をするというのは暗黙の了解でタブーだった。母のヒステリーは、存在が認められていなかった。なので、私が当たられていても父がかばったり干渉してくることはないのだ。隣に父がいても、母が父に方向を変えるまでは見えていない聞こえていないなのだ。

よって、上京するまで、私はこの母との毎日が、本当はすべて私の妄想なのではないかと疑いすらしていた。なので当然人に言うことなんてない。私の母は普通、普通、普通、と言い聞かせてきた。

最近、家を出た弟とやっと母の話をした。まず、やっぱりあの日々は私の妄想じゃなかった、よかった、と思った。
弟も当然弟なりに苦しんでいて、母に感じていたことをお互いに話し合った。
やっと「文句」が言えた。なんだかからだが軽くなった。これからは弟と、協力しながらほどよく母に向き合っていこうと思う。

私はお母さんが大好きだった。なにをされても大好きだった。お母さんが少しでも辛くないように、少しでも幸せなように、頑張りたかった。

罵声から逃げることもできた。でも、私が受け止めてあげなきゃ、聞いてあげなきゃと思ってた。

もっとご飯食べれるようになるから、もっと怒ってもいいから、一緒にご飯が食べたかった。

ほんとはご飯吐いてばれてもよかったのだ。でもあげたごはんを吐いてるの知ったら悲しむだろうと思ってできなかった。

お母さんにひどいことをされるのは嫌だった。でもそれ以上にお母さんが辛そうなのが嫌だった。

誰かに助けを求めればよかった。でも、それで頑張ってるお母さんがイヤな人だと思われるのが嫌だった。

今でもそうだ。誰にも言えなかったのは、誰にもお母さんを悪く思ってほしくないからだ。

ほんとは二人の子供を育てる器があったわけじゃないのに、がんばってがんばって子育てをして、性格上思ったようにうまくいかなくて、子供に当たってしまっていた。

ちょっと調子がでないときがあるだけで、ほんとは優しくて、かわいい人なのだ。とっても、優しくて、とっても、かわいい。
わたしだけはそう信じている。

今だったら
「お母さんがいいって言うまで家出とくね」「お母さん、辛そうだから一回病院行ってみない?」と言えるけど、あのころはとんでもなかった。
今は少し強くなった自分を、誇らしく思ってあげようと思う。今は会うたび、母がかわいく小さく思える。未だに1週間以上一緒にいると疲れてしまうけど。自分が母親になったら、母がまた大きく大きく見えるのかもしれない。

今は以前よりはヒステリーの頻度もだいぶ減っていると思う。
日常、子供がいなくなったストレスと更年期でヒステリーを起こしていなければいいなぁと願うばかりだ。

最後に

今、自分の体験をまず人に隠す、一番の理由は
小さい頃の環境や親を嘆いて言い訳にして生きていくのはダッッッッッッッッッセェと思っているからだ。

女の不幸自慢ほどおもんないものはない。

これも不幸自慢なんじゃ?と思った方。かまわない。なのに読んでくれてありがとうございます。後生もうしません。

私は今、少なくとも、水洗トイレも風呂もないボロアパートで育った人には見られていないはずだ。

過去を乗り越えるとか、経験を活かすだとか、それすらもいらないはずだ。

過去は過去。あったものとしてそれはそれ。
今は自分で稼いで自分の好きなように自分の好きな人になって生きていく。それだけ。

どんな形でも、たまに実家に帰ろうと思って、お土産を買う心の余裕すらできていたら万々歳。

最近帰省したときも、母と仲良くお話ができた。
母は、バイト先の100均の在庫発注で、数が半端な売れ残りの在庫は、自分でみんな買い取ってくるのだと教えてくれた。
相変わらずちょいズレな真面目さは健在だ。

「なんでそんなことしちゃうの?やめなよ!」とはもちろん言わない。

彼女がそれで納得で、笑顔でいられて、幸せなら、それでいいのだ。

「そうなんだ、いいねぇ、すごいねぇ」と、私は母が買い取ってきた、ダザいシュシュをもらった。

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