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自分だけは疑わない

いま考えてみると私、子どものころ家族内で、無茶で過剰な役割を負わされていて。
求められ、期待される一方で、愛情や受容をまったく与えられることなく育ったので。
人に対して、無意識に「受け入れられる」ことを、強く求めるようになってしまって。
その願望をずーっと、一貫して持ち続けてきてしまったんですよねぇ。
で、特に自分でもイタいなぁと思うのは。
「何とかして、ほんの少しでもいいから受け入れてもらおう」と考えてしまうことで、これがあるからつい「自分らしさ」を、自ら差し出してしまう。
これこそが私を「自分軸」から遠ざけてきた、一番の原因だと思います。
つい昨日の朝も私、これに影響され、またぞろ信念を揺らしてました。
それがいぃっつも、自分を疑うことにつながってしまっていたわけです。

ここ数年で私「疑いを持つこと」の重要さを、つくづく思い知ってきたのですが。
でも、自分だけは疑っちゃいけなかったんです。
どんなことがあっても、疑っちゃいけなかった。
だって、私がいま身を置いているこの世界の根源は、私の「視点」なんですから。
他者も、世界そのものすら私の状態によって、いかようにでも変わってくるんです。
私が気分よくいい状態でいられていれば、世界も同様に愛と思いやりに満ち、希望に満ちあふれて見えるし。
私の状態が悪ければ、世界も同様に、どんどん悪い方向に向ってしまう。
だから希望に満ちた世界を生きたいのなら、どんなことがあっても決して、自分を疑わないことが大事なんです。
ようやく、そのことに思い至ることができて。
以降、ずっと私、同じ言葉を自分自身に掛け続けています。
「これっぽっちの例外もなく、まるっと自分をすべて信じる」
「どんなときも、何があっても、自分だけは疑わない」
何回くらいくり返した頃でしょう、ふと、気が付きました。
疑いさえしなければ、もうすでに「信じられてる」状態なんじゃないの?
たぶん、そうなのだろうと思います。
だから逆に疑いを持てないと、唯々諾々と従うことにつながってしまうのでしょう。

…話が逸れてしまいましたが、私たちが生きること、その基本中の基本が自分を信じることなんだと私は思います。
自分を信じることができてはじめて、やりたいことが堂々とできるし。
人と関わる場面でも、自分らしさを保っていられる。
もしも真逆の価値観の人と出くわすことがあっても、まずは相手を認めたうえで、距離を置くという選択もできる。
まずは自分を居心地よくいさせることが、結果、人にもいい影響を与えることにつながるし。
たとえ突然話していた人が、火が付いたように真っ赤になって怒り始めたとしても「その人の中の種火が勢いよく萌え出しただけ」と自分に言い聞かせ、パニックにならずにいられる…。
うーん、ここまで行けるのはまだまだ先かもしれないけど、少なくとも自分を信じることができない限りは、近付けすらしないのだろうと思います。

「そうか、私これまで、生きることの基本ができてなかったんだな」
この納得を、もう決して忘れることのないよう、胸に深く刻み。
これからは希望に満ちた日々を、楽しく生きて行けたらと思います。
やっぱり、これから先、よくしかならないってことですよ!

ホームページをつくったので、ぜひ見てみてください。
お気軽にコメントなどいただけたら、嬉しいです!

では、よい週末を!

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