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佐高信 安倍総理はアメリカに日本語を奪われた

米議会で英語で演説するという屈辱

―― 佐高さんは『佐高信の昭和史』(角川学芸出版)などで、歴史に学ぶことの重要性を強調しています。安倍政権の安保法制をめぐる高圧的な対応は、戦前の日本を彷彿とさせます。日本国民は今こそ歴史に学ぶ必要があります。

佐高 歴史に学ぶためにはその前提として、あの戦争が誤ったものであったという認識がなければなりません。これをアメリカなど戦勝国の歴史観だと批判する人もいますが、あの戦争によって多くの日本人やアジアの人たちの命が奪われたわけですから、アメリカに言われるまでもなく日本に責任があることははっきりしています。

 しかし、安倍首相には戦前の日本が悪かったという意識がありません。彼は祖父・岸信介の汚名を雪ぐという、その一点だけで動いています。彼にはそもそも歴史に学ぼうという気がないのです。

 それは安倍首相がアメリカ議会で「英語」で演説したことからも明らかです。私はこれが大きな問題にならないことが腹立たしいのですが、仮にもアメリカは戦争した相手国です。広島や長崎への原爆投下などを考えれば、アメリカの言葉を使って平気でいられるとは一体どういうことか、日本にナショナリストはいないのかと思わざるを得ません。

 例えば、韓国の朴大統領が日本の国会で日本語で演説することなど考えられません。かつての植民地支配を想起させるからです。また、ドイツのメルケル首相がアメリカ議会で英語で演説することもないでしょう。安倍首相のように頼まれもしないのに英語で演説するというのは、ゴマスリというよりも屈従です。これでは実質的にアメリカの植民地になったのと同じです。

 言語とはまさしく文化の根本であり、思想の根本です。なぜ日本会議の面々がこれを批判しないのかがわかりません。私はこれまで日本会議を「日本だけ会議」と批判してきましたが、彼らはこれからは「非日本会議」と名乗るべきです。

―― 安倍首相は英語で演説したことを屈従と感じているようには見えません。

佐高 それは日本に言語を奪われた経験がないからです。言語を奪われ、英語を押し付けられることがどれほどの苦しみであるか、安倍首相にはわからないのでしょう。

 だから、彼はあれほど強権的なやり方で沖縄の基地政策を進めているのです。かつて日本政府は沖縄の人たちに方言札をぶら下げ、沖縄の言葉を潰しました。方言札とは、学校で方言を話した生徒に罰として首から下げさせた札のことです。潰す側に立っていた日本人は、潰される側の思想や文化、言葉に対してあまりにも鈍感です。

安倍批判する人はメディアに登場できない

―― 先の戦争はつい70年前の出来事です。安倍総理はまるで戦争などなかったかのように安保政策を進めていますが、何故わずか70年で戦争の記憶を忘れてしまうのでしょうか。

佐高 歴史に学ぶとは、単に歴史を勉強するということではなく、自らの人生が懸かった行為です。安倍首相の年代であれば、父親を戦争で亡くして母親が苦労したというような同級生がいてもおかしくありません。そのような人を友達としていれば、政治家の役目は二度と戦争をしないことだということが出発点になったはずです。

 しかし、安倍首相にはそのような友達がいなかったのでしょう。彼のように付属小学校から大学まで上がってきたボンボンで、薄っぺらで浮ついた人生を送っていては、歴史に学ぶことができないということです。もちろん一市井のボンボンであればそれでもいいのですが、総理大臣の場合は国民の生活にまで影響を与えてしまいます。

 付け加えるなら、安倍首相にはそもそも友達と呼べる人がいないのだと思います。第一次安倍政権が崩壊した直後、私は赤坂でバッタリ安倍首相に会ったことがあります。彼はその時、新党改革の荒井広幸議員と二人で食事をしていました。彼は私を見て顔を強張らせていましたが、一応初対面ということで挨拶し、名刺交換をしました。

 私はその時つくづく、安倍首相は物凄く寂しく人望のない人なのだなと思いました。仮にも自民党総裁まで務めた人が、もう総裁の芽はないと言われていた時とはいえ、他の政党の政治家と二人だけで食事をしますか。第一次安倍内閣は「お友達内閣」と言われていましたが、それはポストに群がるだけの友達で、首相を辞めれば離れていってしまうような人たちだったということでしょう。

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