編集者になる その1

今年の3月、僕は転職して、編集者になる。
ずっと憧れていた職業。
「夢が叶った」と言ってもいいかもしれない。

せっかくなので複数回に分けて、
ここに至るまでの出来事や気持ちの変化なんかを
書いていきたいと思う。
まとめて書き残すことは、自分にとっての財産になると思うし、
読んでくれた人には、
軽い気分で他人の仕事観を覗く暇つぶしにしてもらったり、
もしかしたら転職したい人の参考になったらいいな、なんて
ちょっと図々しいことを考えながら、つらつらと書いてみたい。

さて、
最初なので、まずは「編集者」からもっと遡って、
「文章」とか「国語」とか、「小説」なんてものを意識しはじめた頃のことを書いてみたいと思う。

任天堂の故・岩田聡さんがこのような言葉を残している。
「自分の得意なこととは、
労力の割に周りの人がありがたがってくれること」
そういえば、僕は労力をかけることなく、
いつのまにか、「国語」は自分の得意分野だと思っていた。

僕は小学4年生から、中学受験をするために塾に通っていた。
おかげで学校の授業ではどの科目も楽勝だったけれど、
塾での成績は、あまり芳しくなかった。
学力によってクラス分けがされていたんだけれど、
僕は5クラス中、上から2つ目か3つ目を行ったり来たりしていて、
志望校の合格率は、ずっと低かった。

まず、僕は暗記が苦手だった。
いまは変わってきたなんて話も聞くけど、
20年ぐらい前の中学受験における理科と社会なんて、
ほとんど暗記力を試しているようなものだったと思う。
毎週、塾で習う新しい人名や年号、地形や生物を前に、
僕の成績は、ずっと伸び悩んでいた。
そもそも、当時の僕は歴史にも、山にも川にも、
昆虫の分類にも、単細胞生物の名前にも興味がなかった。
理科と社会は、いつも平均点か、
平均ちょい下ぐらいを取っていた気がする。

暗記以上に、なんといっても苦手だったのは、
計算だった。
公式が覚えられない、数式の仕組みがわからないのはもちろん、
複雑な何桁にも及ぶ数字に僕の頭はこんがらがり、
単純な四則演算でもケアレスミスを連発。
そもそも、公式なんて単細胞生物の名前よりも興味がなかった。
おかげで、算数の成績はひどいものだった。
4科目のなかで圧倒的に算数が足を引っ張り、
算数の点数が重視される学校にはまず受からないと言われていた。

そんな中で、圧倒的なストロングポイントであり、
唯一にして絶対のポイントゲッターが「国語」だった。
これはほんとうに、最初から最後まで苦労しなかった。
説明文も物語文も随筆も、読むのはまったく苦じゃなかったし、
よくある「登場人物の気持ちを選びなさい」とか
もう楽勝だった。
全国模試で、国語だけ全国何位かになって、
塾の冊子に名前が乗ったこともある。

小学6年生になったとき、
塾では通常のクラスに加えて、国語と算数だけ、
成績上位者のみが行ける選抜クラスが開講されることになり
僕は国語の選抜クラスに通えることになった。

その第1回目の授業。
行ってみると、教室には、
普段、最上位のクラスに通っている人で埋め尽くされていた。
2〜3番目のクラスをうろうろしているのは、僕ぐらいだった。
申し訳ないような、間違った場所に来てしまったような
居心地の悪さはいまでもよく覚えている。

授業が始まって、まずは一斉に出された問題に取り組む。
僕は、「50字以内で説明しなさい」というような問題を解いていた。
そうすると、国語の先生が覗き込んできて
(選抜クラスの国語の先生は、いつもとは違う人だった)
「金沢の記述は、非常によろしい」
と言ったのだ。
その瞬間、教室中の人が僕を振り返って見てきた。
「誰だこいつ」という目線にも見えたけど、
でも、僕は嬉しかったし、誇らしかった。

僕の記述は、非常によろしいんだ。
総合点では勝てない相手でも、
国語では勝負できるんだ。
12歳の頭に、その言葉と想いは、
ざっくりと深く突き刺さった。

あの時、僕はなんとなく、
国語でいきていきたいと思っていたのだと思う。

「金沢の記述は、非常によろしい」
それが、すべての始まりだったのだと思う。




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