編集者になる その4

去年の春ごろ、
近所のブックオフで中高の同級生とバッタリ再会した。
車で奥さんと来ていた彼は、
いま商社に勤めていて、豊洲にマンションを買ったという。

盛り上がるような思い出話は持ってなかったけれど、
お互い、買取の順番待ちで時間を持て余していたので、
少し話すことになった。

自然と話は、同級生の近況になった。
僕はほとんど同級生と会っていないので、
彼からいろいろと教えてもらった。

A君は起業し、B君はアメリカに赴任、C君もアメリカに赴任、
D君は総合商社で、、それで
「金沢は、いま何をやっているの?」

僕は言い淀んだ。
いや、自分の仕事が恥ずかしいと思ったことはない。
給料は高くなくても、それが不満に思ったこともない。
それでも、僕は言い淀んでしまった。
それはやっぱり、劣等感以外の何者でもなかった。

中学高校は、正直、ぜんぜん楽しくなかった。
周りは要領よくテストでいい点数を取り、
部活や青春を謳歌しているように見えた。

いま振り返ってみても、同級生はみんな本当に学力が高く、
生きることに賢く、
あまり挫折をしらない(ように見える)、強者の集まりだった。
小学生まで、僕は勉強も運動もできたはずなのに、
ここでは、あきらかに僕は冴えない地味なやつだった。

村上春樹をはじめとした小説を読み漁ったのも、
内省的な歌詞のバンドの曲を好んで聴いていたのも、
それは、冴えない自分からの逃避だった。
たくさん小説を読んで、そこで想像の世界を広げても、
そんなことは成績にも評価にも、何の影響もなかった。

人生が変わり始めたのは、
早稲田大学第一文学部の演劇映像専修に進んでからだと思う。
村上春樹が「最も意味のない場所」と言った、
演劇映像専修だ。
そこでは、たくさん小説を読んで、音楽を聴いて、映画を観て、
想像の世界を広げることに、意味と価値があった。
世間では、政治経済や法律や教育よりは意味がなくても、
でも、演劇映像専修にいる限りは、
作品を吸収して、レポートや発表という形でアウトプットすることに、
躊躇する必要は一切なかった。

演劇映像にいた5年間は(一留してます)
自分自身の文章力や、作品を捉える力を育んでくれたと同時に、
劣等感にまみれた僕をサッパリと解放してくれた。
あの時間がなければ、
まちがいなく僕は、編集の世界には進めなかったと思う。

話は最初に戻るのだけれど、
もし、これから街でバッタリ同級生に会って、
「金沢は何をしているの?」と聞かれたら、
さらっと、でも堂々と
「編集とか、あと、たまに文章書いたりしてるよ」
って言えそうな気がしている。

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