ニッポニウム

幻の元素 ニッポニウム

今から111年前の1908年、新元素が発見され、ニッポニウムと命名されました。

発見したのは愛媛県出身で、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)教授の小川正孝氏。
ロンドン大学のラムゼー (希ガス元素の発見者) の研究室に留学中、新鉱物トリアナイトから発見しました。

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小川正孝(Wikipediaより)

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ウィリアム・ラムゼー(Wikipediaより)

帰国後にも他の鉱物から同じ元素を確認し、ラムゼーの強い勧めでニッポニウム(Np)と名付けました。
予測した原子番号は43。当時の周期表は、43番元素がNpと表記されていました。
ところが、予報論文を出した後の実験は思うように行かず、誰も追確認が出来ませんでした。
小川氏は東北大学の総長に就任した後も、総長室の隣に実験室を設けてニッポニウムの研究をつづけました。
当時は分析に多くの試料が必要だったため、鉱物を細かく砕いて潰し、僅かな元素を取り出す作業を何百回と繰り返す必要がありました。
小川氏は元素の単離に卓越した技術をもっており、数万回の作業を繰り返してトリアナイトから数グラムの元素を取り出したそうです。とても忍耐強い方でした。

トリアナイト

トリアナイト(大阪市立科学館:国際周期表年特別展示より)

しかし、1930年の7月、実験室で倒れて病院に搬送され、そのまま息を引き取りました...。
65歳でした。
小川氏の次男、栄二郎氏もニッポニウムを追い続けましたが、その正体を掴むことなく40歳の若さで亡くなりました。

1947年、小川氏の予測していた原子番号43の元素が発見されました。
小川氏の発見したものとは異なる元素で、テクネチウムと命名されました。
そう、ニッポニウムは43番目の元素ではなかったのです。
43番のテクネチウムは安定同位体を持たない放射性元素なので、鉱物の中から発見できるものではありませんでした。

ニッポニウムの正体を明らかにしたのは東北大学の吉原賢二氏。
当時の研究材料などから、ニッポニウムは原子番号75のレニウムであることが判明しました。
発見から90年後、ようやくニッポニウムの正体が判明したのでした。

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レニウム(Wikipediaより)

テクネチウムとレニウム

テクネチウム(説明文のみ)とレニウム(大阪市立科学館)

また、小川氏は亡くなった1930年に、ニッポニウムの試料を導入されて間もないX線分光装置にかけ、
レニウムであることを確認した形跡があることも分かりました。
分析結果を知った小川氏は何を思ったのでしょうか...
ニッポニウム発見当時、X線分光装置は登場したばかりで、手に入りませんでした。
小川氏は孫弟子など一部の人にはレニウムだったことを打ち明けていたことが分かっています。
今では過去の業績でもしっかりと評価されますが、当時はそうではありませんでした。分かっても言えなかったのでしょう。

もし当時、最新のX線分光装置がもっと普及していれば、予測した原子番号が43ではなく75だったら、レニウムはニッポニウムだったかもしれません。
また、元素記号のNpは、後に発見されたネプツニウムに採用されました。
今では、レニウムの発見される17年前に、小川氏が分離に成功していたと国際的に認められています。


2004年、日本の理化学研究所が苦労の末、原子番号113の新元素を発見しました。
そして2016年、原子番号113の新元素は、ニホニウム(Nh)と命名され、正式に新元素として認定されました(アジア初の新元素です)。
なぜ、ニッポニウムとつけなかったのか?
実は、国際純正・応用化学連合(IUPAC)の規定で、正式でなくとも一度使用された元素名は使えない(混乱を避けるため)ことになっていて、
ニッポニウムは過去に提唱されたことがあるため使用出来なかったんです。
また、社名・組織名は使用不可のため、理化学研究所の名前も使えません。

IUPACの113番元素の名称推薦文には
「発見者は1908年の小川正孝氏の提唱を尊重しています。ニホニウムという名も、彼の仕事に敬意を表してのことです。」とあります。
ニホニウムの発見で、ニッポニウムを追求した方々の苦労も報われたのではないかと思います。

小川氏の出身地愛媛県には関連資料が多く残っており、愛媛県総合科学博物館に展示されています。若い頃の資料なども見る事ができますので、興味のある方はぜひ行ってみて下さい。

周期表の成立について触れた記事もあるので、もし良ければそちらもご覧ください。


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