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『文藝春秋』が創刊96年目でnoteに辿り着くまでに起きたこと。担当者の記録#2

 皆さん、こんにちは。

「文藝春秋digital」がオープンした11月7日、翌8日は忙しなく過ごしました。ようやく週末になって自分の時間を確保したので、前回の記事の続きを書き進めていこうと思います。

contact@にメールを送信した

 前回の記事では、広告代理店の友人C君に重大な示唆を受けて、サイトの方向性を相談するべく深津貴之さんにアポを取ると決断したところまでを書きました。

 ここで1つ事実誤認がありました。お詫びして訂正いたします。「お問い合わせフォーム」と書きましたが、厳密には違いましたね。contact@のメールアドレスにメールをお送りしたのでした。どちらも大差ありませんが(笑)。

 記録を確認すると、メールを送ったのは7月10日。6月30日から10日ほど経った後ですが、この間、私は社内(編集部内)で深津さんの布教活動をしたような気がします。「この人に頼むのが一番いい」「とにかくまず深津さんに監修を依頼する。それを最優先すべき」と説得してまわりました。

 そして、私の話を聞いた松井編集長は、「分かった。深津さんに会いに行ってこい」と言ってくれたのでした。

 そして7月10日。私は深津さんへのメールを書きました。

 思い返してみれば、こういう類の(ビジネスの依頼的な)メールを書くことは私のこれまでの経歴上、あまりないことでした。

 私が誰かに宛てて書く文章のほとんどは、取材依頼。「文藝春秋の雑誌に出てください。インタビューに応じてください」という趣旨のものばかりでした。

川上慶子さんに書いた手紙

 話が脱線してしまいますが、誰かへの取材依頼の文章といえば、思い出すことがあります。

 私が『文藝春秋』に異動してきた直後の2015年7月のこと。その前月まで、私は『週刊文春』編集部にいました。新入社員の時から4年間、週刊誌の現場にいたのですが、そこで一番お世話になった上司が、デスクの大松芳男さんでした。

 大松さんは、週刊文春が全聾の作曲家と称した佐村河内守氏のスキャンダルを報じた時の担当デスクで、私はその記事の現場キャップでした。佐村河内氏のゴーストライターだった新垣隆さんを取材チームで匿ったり(?)、あの記事は、今でも思い出に残っています。

 2015年7月に大松さんが『文藝春秋』編集長に就任することになり、私も一緒に異動してきたのでした。

 大松編集長体制になって1冊目の『文藝春秋』を作る際に、大松さんからこう言われました。

「川上慶子さんの手記をとってきてほしい」

 1985年8月12日に起こった日航123便機墜落事故。乗客乗員520名が亡くなる史上最悪の航空機事故ですが、当時小学生だった川上慶子さんは奇跡的に救出されました。私は当時まだ生まれていませんが、川上さんがヘリコプターで救出される映像は、その後何度も繰り返しテレビや雑誌などで見ていたため、もちろん知っていました。

 雑誌が発売される2015年8月は、あの事故からちょうど30年目を迎える夏でした。大松さんはその節目に、川上さんの手記を掲載したいと考えたのです。

 しかし川上さんは現在どこで何をされているのか分からない。そこで私は、当時の報道資料や取材に携わった人に話を聞き、1985年当時に川上さんが住んでいた、島根県のご実家を教えてもらいました。そこに長い長いお手紙を書きました。

 便箋で10枚ほどになったでしょうか。このようなお願いをすることが心苦しいということ。しかしそれでも手記を寄せていただきたいこと。そのような内容のことを書き、投函しました。名刺を入れて、最後に「電話をいただけませんか」と添えました。

 しかし、1週間待っても、2週間待っても、返信は来ませんでした。

 締め切りは迫っていました。私は返信を得ないまま島根県に飛びました。

 30年前と変わらぬ場所にご実家はありました。

 おそるおそる中に入っていくと、庭で男性が小さい子供達と遊んでいました。

 川上慶子さんのお兄さん、川上千春さんでした。

 私の書いた手紙は、ちゃんと届いていました。内容も確認してくださっていました。千春さんは、「やはり妹が手記を書くことは難しいと思います」と言いました。

「でも」と言って、千春さんは続けました。

「30年目というのは私たちにとっても特別なことです。妹は出れません。しかし、私でよければ手記を書かせていただくことはできます」

 大松編集長から依頼されたのは、川上慶子さんの手記でした。しかし私は「お願いします」と即答していました。大松さんがこれをダメだというはずがない。そう信じていたからです。そして、改めてお話を伺う日の約束をして、私は東京に戻りました。

 このような経緯で8月10日発売の『文藝春秋』2015年9月号に掲載されたのが、「8・12日航ジャンボ機墜落 独占手記 奇跡の生存者 妹・川上慶子と私の30年 川上千春」という記事でした。

 現在この手記はネット上で読むことはできません。その代わりに、この記事の感想をお書きいただいている方のブログを貼り付けたいと思います。


深津さんに送った長文のメール

 かなり話が脱線してしまいました。

 ですが、私にとって誰かに宛てて文章を書くとは、このような行為だったわけです。

 そんなノリで仕事をしているものですから、深津さんへのメールも信じられないくらいの長文になってしまいました。仕事依頼というか、もはや単なるファンのメールです。

 1時間以上かけてじっくり書き、書き上げた時には、高揚感(?)さえありました。そのようにして書き上げたメールを17時40分頃に送信し、私は意気揚々と夜の街に飲みに出かけたのでした。まあ、今日、何かが動くことはないだろう、と思ったのですね。

 contact@にメールを送ってまさかすぐにご返信をいただけるとは思いもしなかったものですから、19時40分頃に返信が来た時にはとんでもなくびっくりしました。酔っ払っている場合ではありません。

 今、これを書きつつ、その時にいただいていたメールを読み返しているのですが、その深津さんの返信の中には、すでに極めて重要な、示唆的な、アドバイスが含まれていました。

 深津さんは快く「一度お話をお伺いできれば」と言っていただきました。

 そして8日後の7月18日、私は青山にあるGUILDのオフィスにお邪魔することになりました。

次なるミッションは「社内のデジタルのキーパーソンを押さえること」

 さて。

 深津さんには会えることになりました。

 しかし私には不安なことがありました。深津さんと私の間に、共通言語はあるのだろうかということです。

 紙媒体の編集しかやってこなかった私と、ウェブ最先端をいく深津さん。ひとりで会いに行き、はたして会話が成立するのだろうか、呆れられてしまうのではないか、という心配をしていました。結構、本気で(笑)。

 そこで私は、強力な仲間を引き連れていく必要があると思いました。このサイト構築にかける意気込みとか理念などを私が話し、その他のデジタル・テック系の難しい話を「通訳」してくれる仲間。

 思い浮かぶのは、1人しかいませんでした。文藝春秋のデジタル系の仕事を一気に請け負っている、デジタルデザイン部の山根ディレクターです。今回の「文藝春秋digital」プロジェクトでは、文藝春秋側でデジタルの専門的なことを全て解決してくれました。かなり頼れる人です。

 ここだけの話ですが、実を言うと、山根さんは当初、『文藝春秋』のサイト構築に相当、疑問を抱いていたようです(笑)。

 山根さんは、文藝春秋でNumberWebや文春オンラインの立ち上げに携わった百戦錬磨のウェブディレクターです。雑誌がウェブサイトを持つことの大変さを誰よりも知っています。

 だから、最初に私が会いに行った時は、相当、怖い顔をしていました(本人は否定するかもしれませんが)。

 眼光が鋭くて、和尚さんみたいなヘアスタイルの山根さんが怖い顔をすると、はっきり言って、めちゃ怖いです。しかし、私は正直に今のウェブ構想を話しました。兎にも角にも、一旦、深津さんに頼んでみたいんだ、と。なので、会いに行く時に、一緒に来ていただけませんか、と。

 深津さん、という名前を聞いた瞬間、山根さんの表情が変わったような気がしました。意外そうな、そして、何か興味を持っているような、そんな顔をしていました(あの時、山根さんが何を考えていたのかはわからないので、いずれご本人がどこかで明かしてくれるでしょう)。

 一通り私の話を聞いた山根さんは、「わかりました。じゃあ、一緒に深津さんのところへ行きましょう」と言ってくれたのでした。

 そして、7月18日。私と山根さんは紀尾井町の文藝春秋を出発し、青山のGUILDへと向かったのです。

 やばい。まだ話が終わりません。この続きは#3に書きます。


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