"日本独自のやり方"を誇るときは…

世間を賑わせているコロナ禍。おかげで我が家の生活も一変した。まず、以前より圧倒的にニュース(TV)を観るようになった。私はもともと映像よりも自分のペースで読み進められる活字が好きなので、ニュースは大体電子版の新聞で追うことが多いのだが、こと新型コロナ関連においては、テレビを見ていた方が手っ取り早い。最近はHuluのリアルタイム動画で、BBCとCNN(Huluの日本アカウントのCNNはなぜか同時通訳が入るのだが、あれ需要あるのか?)、YoutubeでABCなどが観れるようになったため、もっぱらそれらを利用しているし、あまり褒められたことではないのだが、VPN接続を使って、リージョン制限のある番組(MSNBCなど)もチェックすることができている。NBCの扇動くさい画面デザインや論調はあまり好きではないものの、朝の討論番組Morning JoeやJoy Reid司会のコーナーは、毎回変わる髪型も含め、それなりに楽しみにしている。

これらニュース専門番組の良いところは、最新の情報が入ったらすぐにテロップが更新されるため、電源を入れて画面を眺めているだけでも、感染者数や亡くなられた方の数が把握できることで、特にコロナ関連の現状把握という意味では重宝している。参考までに、3月22日(現地時間)にキャプチャした画面を添付する。アメリカではこの時点から、地域別の正確な検査情報を公開していた。

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この図を眺めつつ、今年の2月後半を思い返すと、NBCはもっぱら民主党の予備選のことしか放送していなかったのを思い出す。3月中旬から検査数が増えるに従い、報道内容もコロナ一色に染まっていった。現在の新型コロナに関するアメリカの論調は、「初期の検査が不十分だったため、感染拡大を招いた」というもの。現在は主にNIAID(国立アレルギー・感染症研究所)のDr. Fauciが中心となってこの国家的危機に対峙しており、米国内で最も多くの犠牲者を出しているニューヨーク州知事のCuomoは、いかにもイタリア系ニューヨーカー訛りの強いゆっくりとした言葉使いで、日々住民を鼓舞する発言を記者会見の場で繰り返している。ちなみに、現地時間4月10日の状況は以下のようになっている。感染件数は50万件に迫る勢いだ。

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ニューヨークにおいてここまで新型コロナの拡大を招いたのは、ほぼ間違いなく「電車通勤」をしていたからだろうと私は思っている。広大な国土を誇るアメリカは、一部の都市を除いて完全な自動車社会であり、そもそも家族以外での接触機会はそこまで多くならない。その一部の例外の都市、すなわち、鉄道網の発達しているニューヨーク、DC、シカゴ、一部のLAあたりぐらいがせいぜい「電車通勤都市圏」で、その中でも、郊外からニューヨークシティ(都市部)への通勤を常とするニューヨーカーの生活様式は、新型コロナウイルス(どうでもいいけどなんでカナは"ウイルス"になるんだろう)との相性がもっぱら悪く、今回のパンデミックを引き起こしたのだろう。

私の家族(義理の姉)も、現在Long IslandのRooseveltというところに家を買って、コロナ禍が巻き起こる前までは、毎日Brookylnの職場まで1時間半近くかけて通っていた。ニューヨークシティで持ち家なんて一般庶民にはとてもじゃないが縁遠い。彼女は半公務員のような立場で、学生ローンの一部が免除されたからなんとか郊外に一軒家が買えたそうだが、シティで暮らす限りは、大半は地下鉄やバス(悪名高いMTA)を利用して生活しているはずだ。一度経験すればわかると思うが、ニューヨークの地下鉄の混雑具合、衛生状況の悪さを鑑みれば、COVID-19が蔓延するのも全く不思議ではない。実際、今サブウェイはいわゆるessential worker(必要不可欠な労働者)以外は利用できないことになっており、事実上の封鎖状況にある。

こういったニューヨークの状況を日々ニュースで目にしていると、日本の対応との違いに驚くばかりだ。特に東京は都市の構造(電車通勤の有無)をとってもニューヨークに近いだろうし、いまだに品川駅の通勤ラッシュが解消されていないというような話題を耳にすると、どうしてこうも感染拡大に関して温度差が異なるのだろうと不思議でならない。日本人は衛生意識が高くて、マスクをするから感染を防げている? 満員電車は会話をしないから、いわゆる「3密」には該当しない? なんて話もきこえてくるが、どこまで本気でそう言っているのか、私には理解できない。

そもそも米国人がマスクをしない理由は、衛生意識が低いからではなく、マスクなんてして辺りをうろついていたら、間違いなく警察に呼び止められ、最悪の場合逮捕されるからだ。「マスクで顔を隠す」ということは、残念ながら"犯罪を犯そうとしていると捉えられても仕方がないという含意"がすでに存在しているわけで、衛生意識が低いからマスクをしないのではなく、マスクをすることで被る不利益を避けるため、マスクをしない者が多いというだけである。この手の文化的相違を踏まえず、一義的な見方しかできないのは、視野が狭いとしか言いようがない。そもそも、衛生観念云々でいうなら、日本でよく目にする「両手を顔に被せてくしゃみ」「水洗いちゃっちゃっの手洗い」も非常に不衛生であると言えるが、それを以って「日本人の衛生意識が低い〜」なんて指弾できないのと同じだろう。

もっともそんなアメリカ人もCOVID-19の件では事情が変わってきているようで、先に挙げた私の義理の姉は、昨日お手製のマスクを身に着けた自撮り画像をFacebookに公開していた。彼女はいわゆるアフリカン・アメリカンであり、平時にマスクなんてしようものなら、間違いなく警察に呼び止められることだろうし、まず有色人種とされる人々はそんな危険を冒すわけがない。それぐらいアメリカも、今回のコロナ禍で社会構造が変化したのだろう。

翻って、日本はどうだろう。COVID-19で著しい社会構造の変化は起こっただろうか。少なくとも一部の企業でテレワークの促進が進み、働き方が変わった向きは多いのではないだろうか。かくいう私もその一人で、現在はほぼ在宅で仕事をするようになっている。私は2月から在宅勤務をしていたのだが、当時は同僚で在宅勤務に移行していた者はほとんどいなかった。いわゆる上司や同僚が出社しているため出社しないといけないんじゃないかというような「同調圧力」という奴で、テレワークがしづらかったのだと思う。私は最初からそんなの御構いなしにほぼ一人だけリモートに移行していたが、流石に今月から、社内一斉に原則在宅勤務へとなったようだ。結局、ほとんどの者が本心では出社したくないと思っていても、大本営(本社)の指示を待たないと動けない、また、出る杭にはなりたくないという意識が、日本にはいまだに根強いと感じている。これはいわゆる「互いを思いやる精神」からきているのだろうか? つまり、自分がオフィスに来ないことで、他の誰かが嫌な思いをする、それは「思慮に欠ける」という思考展開である。本当にこういった「空気を読む」という行動は、他者への思慮の問題なのだろうか? 私にはよくわからない。

その一方で、「他者」ですらない「部外者=鵺のような者」と規定した者へはこの「互いを思いやる精神」が牙を剥くときがある。例えば、「コロナで日本人が困っているんだから、外国人に給付金は与えない」というような論調だ。つまり、外国人への給付は「日本人への思慮に欠ける」ということである。まったくもって冷酷な言葉を浴びせられるものだ。そもそもこの国で外国人が在留資格を得るのにどれほど苦労し、毎回品川の入管でどれほど嫌な思いをして外国人登録証を手に入れ、それを肌身離さず持っていなければ逮捕される恐怖に怯え、10年以上定職に就いて税金を払い続け、ようやく永住権の申請ができるという仕組みを理解して、そう言った言葉を投げかけられるのだろうか。もしそうだとしたら、ひょっとして「鵺のような者」はあなたかもしれないね。

先にコロナ禍で我が家の生活も一変したと述べた。実は他にも個人的に大きな変化があって、今もこうして書いているのだが、日本語を使う時間、日本の記事を読む時間が大幅に増加した。「アメリカかぶれ」の誹りは甘んじて受けようと思うが、何を隠そう我が家ではほぼ日本語の会話はない。大体夫婦の会話は英語で済ませ、たまに妻が日本のバラエティを観て笑っているのを横目に見るぐらいで、メールやLINEなどのやりとりも、ほぼ英語で完結していた。例えば、ツイッターやインスタグラムなどのアプリもほとんど英語にしていたし、こうして日本語の雑筆を書いているのも本当に久々である。ところが、今回のCOVID-19に関しては、やはり日本のニュースも観ないと自分の置かれた状況がどうなっているのかまったくわからないため、最近は情報をこまめにチェック、収集するようになったし、あまりにひどいと判断した内容は、極力日本語で配信するようにしてきた。

その上でわかったことがある。どうやら日本はCOVID-19に関しては、一貫して感染の可能性の高い「3密」とやらを潰す、独自の「クラスター対策」を取ってきたそうだ。これは限りある医療資源を守るため、遺伝子(PCR)検査は極力少なくし、重症患者を中心とした入院治療、そして患者の発生源である「クラスター」をトラッキングをするという政策であるらしい。つまり明示的ではないものの、これは集団免疫戦略(感染を自然の成り行きに任せ、免疫を持つ者が増えるために感染が収束するという戦略)であり、目に見えて表出した重症患者の人命救助を優先としており、感染拡大を予防する戦略ではなく、"二重の意味での対症療法"である。ここに至る経緯については、業務の関係上いろいろと話せることは多いのだが、長くなりそうなので簡単にまとめると、

⑴日本は皆保険、つまり約7割は税金で医療をまかなっている。高齢化による労働人口減少(税収減)、医療費の上昇(高齢者の方が医療費が高い)により、財政は逼迫している。

⑵日本はこれまで高齢化に伴う医療費の高騰に対し、入院治療における診療報酬上の点数削減(による床数削減)、地域包括ケア(入院を極力減らし、地域に患者を返す医療)などの戦略を取ってきた。

⑶そもそも2020年の診療報酬改定の一番の話題は「医師の働き方改革」。医療従事者の労働過多は深刻であり公的病院はほとんどが赤字経営。財政上の余裕がない

⑷厚生労働省は新型コロナウイルス感染症を入院治療が必要な二類感染症に指定した。つまり軽症だろうが重症だろうが、感染が判明した時点で、入院が必要になる。そもそも床数を減らしていた、医師の過重労働が問題になっている最中、限りあるリソースを新型コロナのみに使えない→医療現場が疲弊してしまう恐れ→(意図せずとした)検査抑制の誘引=3密のクラスター対策を選択

という過程を経ていると思われる。つまり、今回のCOVID-19における初動の遅れ、検査不足は、そもそも構造上の問題であったということ、また、現在の検査不足による医療現場の混乱・医療崩壊の流れは、起こるべくして起こったといえるだろう。対症療法で封じ込めるほど、今回の新型コロナは甘くなかったし、逐一更新される海外ニュースを目に入れていれば、日本だけは安心といった「神風信仰」を持つことは困難だった。もっとも、こんなことは多くの医療従事者が当初から懸念していたはずであるが、一度決めたことを変えるのが得意ではない日本行政の対応の遅さ、アジャイル型発想の欠如が、今回のコロナ禍ではっきりと示されたと思う。幸い検査ができていないわけだから、現在どの程度感染が蔓延しているかもわからないし、肺炎患者の死後のPCR検査による確定診断なんてとてもできていないだろうし、今回の惨状が判明するのは来年以降の人口動態統計などが出るまでわからないのではないだろうか。こういった数字の不在は、政治行政への不信を募らせる。

この国が"日本独自のやり方"を誇るときは、一歩引いて眺めてみている。本来「集団」という意味でしかない"cluster"が、なぜか本邦では「集団感染」の意味になり、新たな学術用語かのように扱われる。「飛び越える」という意味の動詞である"overshoot"が、なぜか「感染爆発」という意味の名詞としてカタカナ語へと変貌する。この拭い去れない違和感はなんだろう。これらの用語選択において何の意図があるのかはわからないが、少なくともアカデミックな分野であるならば、言葉の本来の意味は曲げないでいただきたいものだ。例えば、ポピュラー音楽に通暁しているとされる者が「音楽に韻は不要」と唱えるような"日本独自のやり方"は、果たして誇らしいのだろうか。最近私にはよくわからなくなってきた。

先日大本営より、1日2万件のPCR検査を行うと発表があった。現在の体制で、どのように拡充してゆくのだろうか。ロシュの検査器が薬事承認されたから、それを勘定に入れているのだろうか。正確な情報が開示されない限り、私のような市井の凡夫は不安が募るばかりだ。

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