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なんでそんなに

“なんでそんなに英語を使ってやんのが好きなの?
そりゃなんでも自分の言葉を使わなすぎだろ”


この2行は、最近新曲の発表やネット上の論壇などで世間を賑わしているキングギドラのメンバーの曲「なんでそんなに」に登場するラインだ。
2004年発表の曲だが今も変わらず適用される内容であるため、引用した。
(なお、本稿はキングギドラに対する論評ではない)

この曲がリリースされた当時は、「バイリンガルラップ」と呼ばれる日本語・英語が混交したラップが全盛期で、同曲は「ちゃんぽん英語」という形で曲中でも言及があるSOUL'd OUTや、同時代に活躍したm-floなどを対象として意識していたであろうことが伺える。

現在年末年始ということで、各雑誌などのランキングなどに登場する最近の曲を聴いてみると、今に始まったことではないのだが、それらのうち多くの日本語のラップは「小節」というフォーマットをあまり意識していないようなものが多い印象だ。そういった曲を、試しにストリーミングサイト上に記載されている公式のリリックページで開いてみると、どうやら多くのラップが英語を所々用いた、いわゆる「ちゃんぽん英語」で、なぜか英単語がアルファベット表記になっている。

ところで、冒頭に引用した「バイリンガルラップ」攻勢の時代は、まだまた日本ではラップが興隆期で参入人口も少なかったため、いわゆる英語圏帰りの帰国子女だったり、日本育ちでも情操教育段階からインターナショナルスクールを卒業したような層が主にバイリンガルラップをやっていた。だから「ちゃんぽん英語」なのは当時も変わりがないが、意外と英語自体は基礎がしっかりしていた曲が多かったわけだ。ところが最近は、ラップへの参入の敷居が下がっているので、こと全体の英語力に関しては相当低下している印象だ(あくまで昨今発表された曲で私が見聞きしたものとの対比だが)。

個人攻撃がしたいわけではないので、特に当該のアーティストなりを引用はしないが、そういう曲は筆者からすると「曲がいい、悪い」を判断する前に4つほど事前に振り落とし段階を経ていたりする。誰も興味ないと思うが、ここに記述しておく。

①発音の問題
本人はよかれと思って公式のリリック上で一部の単語をアルファベット表記しているのだろうけども、そもそも発音の問題で当該の単語に聞こえないことが多い。典型なのはsとsh、hとf、thとdなどの子音で、大体前者は発音できていないので、「city」だったら「shitty」、「hood」だったら「food」、「they」だったら「day」といった全然別の言葉に聞こえるようなことになってしまっている(なお、他にも用例は多岐にわたるが割愛)。つまり、用意された歌詞を読まないとそもそも「英単語」だとすらわからなかったりすることが多い。なので不幸中の幸いか、これらのラップはただ流し聴きしただけでは英語が登場しているかどうかよくわからないため、仮に日本文化に興味を持った英語話者が耳に入れていたとしても見過ごされているケースが多いと思われる。

②文法の問題
「ラップは創造的なアートで“詩”なんだから、文法なんて自由だ」と思うかもしれない。しかし残念ながら「最低限そこは守っていないとそもそも何を言いたいのかすらわからない」という段階は存在する。例えば以前アリアナ・グランデというアイドル歌手が自身の左手に「七輪」というタトゥーを入れた件が物議を醸したことがあった。

当該記事(https://globe.asahi.com/article/12134644)より転載


これは“7 Rings”という自身の新曲のタイトルにあやかってその直訳である「七輪」という単語を彫ることを選んだようなのだが、日本語で「七輪」という語は別の意味で常用されているため、残念な結果となってしまった一例である。非ネイティヴが文法を勝手に省略したり入れ替えたりすると、同じような悲劇が起こることは上述の例示から多少は伝わるかと思われる。

すでに自明かと思われるが、英語教育を受けていない者が発するいわゆる「ちゃんぽん英語」にはこのようなレベルの文法が頻出する。しかも途中まで漢字・かな・カナで記述されていた歌詞が突如として理解困難な英文のようなものに一部分だけ切り替わるのだ。この違和感はものすごいが、当人たちは気づいていないかもしれない。ちなみに、言うまでもないが、もちろん①と②が混交した歌詞も頻出する。

③不適当な節回し
英語として発音や文法は最低限許容範囲だが、明らかに違和感のある唐突な英語が登場する場合もある。この違和感を日本語で記述するのはなかなか骨が折れるが、例えるなら、真面目なことを語ろうとしているのに、

“俺は東京生まれヒップホップ育ち
悪そうな奴らは大体、ダイナミック、ダイクマ〜”

と唐突に「ダイナミック、ダイクマ〜」が挟まれるような違和感に襲われることがある。何を言っているんだと思われるかもしれないが、感想としては本当にそのままだ。もしこれに対して「“大体(ダイタイ)”と“ダイ”、“ダイ”でテクニカルにいっぱい踏んでいるから格好いいだろう!」と言われたら返す言葉もない。評価基準が根本的に違うとしか表現できない。

④ライムの不在
英詩的な押韻というものは、2小節1組ないし4小節2組で言葉を紡いでゆくもの。ラップの場合、基本的には通例的に2小節1組というシンプルなフォーマットが典型になっている。詳細は長くなるし他のところで何度も説明しているので省くが、つまりラップにおける押韻は、いわば「小節を架橋するための接着剤」の役割を果たしている。本来独立した小節=ラインに接点を作ってゆく過程が押韻の主たる機能といっても過言ではない。その接点を2倍、3倍、4倍と増やしてゆくことで8小節なり12小節なり16小節のヴァースを構成するのが詩歌における基礎であったりする(日本語のラップでこれがちゃんとできている曲を探すのは実はとても骨が折れる)。

この「ライムの不在」問題が「バイリンガルラップ」に適用された場合の事例を一部挙げてみる。「バイリンガルラップ」の特徴は唐突に登場する英単語だが、その英単語は常に押韻されるために登場しているわけではない。昨年たまたま耳に通した曲で、公式のリリック上、
末尾を「Daddy」(dǽdi) →「baby」(béɪbi)で押韻を試みている2ラインを目にした時は失笑を禁じえなかった。言うまでもないが、英語は強勢(発音記号の上の“点”で表現される)が付く母音が各ラインで揃わないと押韻とはならないため、「ǽ」、「éɪ」という全く異なる母音の単語でライムを試みるラッパーは英語圏ではまず存在しないだろう。この手の用例を見聞きすると、発信者はどうしても英語を使って曲を作りたいのだろうけれども、申し訳ないが英詩への理解が根本から欠如しているとしか思えない。どうしても英単語を使いたいのだとしたら、表記上カタカナで「ダディー」「ベイビー」と書いた方がまだ誠実かもしれない(それでも末尾の長音1音節しか踏めていないのだが)

長々と書いたが、これら1-4の記述を受けて、最初の問いに戻る。
「なんでそんなに英語を使ってやんのが好きなの?」

こういうことを書くと大体言われるのが、「日本語ラップなんだから日本語ラップは日本人が楽しめればいい」「俺は聴いていて楽しいからいいんだ」というようなお叱りの声だったりする。実は私もそれらのファン層にそこまでの理解を求めてはいない。市場価値を作るのはアーティストや業界関係者、批評家たちであるわけで、彼らのリテラシーというか英語力が向上すれば、上述で示した振り落とし4段階も将来的には笑い話で済むことだろう。だからこの文章は最初からアーティストや業界人、ライターなどの発信者側に向けて書いている(届くかどうかはわからない)。

本来、第二言語で何かを表現するのはとても難しいはずだ。ましてや言葉の達人であるリリシストになりたいのなら、まずは第一言語でしっかりとライムを構成することを覚えてからでも遅くはないだろう。刹那的に曲を作っているのかもしれないが、自分の作品は一度リリースしてしまったら生涯残るわけで、後世の人々にどう評価されるか、今一度考えて然るべきではないかと個人的には思っている。

ちなみにこれらの前提を踏まえてなお「ラップは(日本人の耳に)心地よくて楽しければいい」という結論に至るのだとしても、筆者はどちらでもよいと思っている。現状のままでも私の生活においてはなんら影響はなく、さらに状況が悪化したとしても、空き時間に少しだけ失笑する機会が増えるだけだ。ただ一つ言えることは、仮に「日本語ラップ」を世界(英語圏)で認められるようにしたいと思っているのだとしたら、業界人やライターなどのステークホルダーが市場価値を守るためにこれらの悪貨を駆逐しなければ難しいだろう。

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