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遠い空の下の故郷~ハンセン病療養所に生きて 語り2 遠い空の下のふるさと

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語り台本 木村 快
音楽 岡田 京子
語り 木下 美智子
アコーディオン 松本 真理子

 わたしは大正十一年生まれですから、すっかり年をとってしまいました。
わたしは五十三のときに目が見えなくなってですね、もうずーっと暗闇の中を生きてきとるとですよ。
それでもね、自分の育った村のことやお父さんのこと、お母さんのこと、弟のことはよく覚えていますよ。
目が見えなくなってからは、忘れていたいろんな事を思い出すねえ。

 もう、今の人にはわからんと思うけど、戦争中は徴用と言ってね、兵隊さんのように、国から命令が来ると、遠くの工場や炭坑に働きにいかねばならんかったとですよ。
それで、わたしのお父さんも弟も徴用で炭坑に行かされました。
それで、わたしは母と二人で牛を使って田圃をやりました。
お父さんたちがしよったのを見とったからですね、見よう見まねで鋤を使って田圃を耕して、田植えして、稲刈りして、足でふむ機械で稲をこいでね、もう体の続く限り働いたとですよ。

無らい県運動

 戦争が終わる少し前でした。二十三くらいの頃、腕が赤く腫れたんですよ。
一年くらいたってからまた眉毛が抜けたり、髪の毛が抜けたりしてね。
それでも忙しいもんだから病院にも行かずにいました。
身体の具合が悪いといっても寝るほどじゃないから、毎日働きました。

 戦争が終わってから、最初は役場の予防課の人が訪ねてきて、遠回しに「からだの調子は悪くないですか?」と聞かれました。
そのときはまた来ますと言って帰りました。
半年後にまた別な人が来て、
「あんたのような病気を専門に治すところがある。そこへ行ったら三年ばかりしたら帰れるから」
と言われました。
だけど、この忙しい時期に母と二人で仕事をしなくてはならないから行けませんと断りました。

 そしたら次に、また別な男が来て
「あんたの病気は家にはおれない病気だ。恐ろしい病気でな、人にうつったら治らん病気だ」
と言うんです。
三年で治ると言ったり、人に移ったら治らん病気だと言ったり、家族と一緒にいたら移るからいかんとかねえ。
でも、そうならとっくに家族に移っているはずなのにと思いました。

 これはあとから判ったことだけど、そのころ、日本中の村や町に厚生省から「らい患者を見つけたら報告してすぐに療養所に入れるように」という命令が出されとったんですよ。

 そして、とうとう警察が来てですね、
「お前はこれだけみんなが病院へ行けというのに、行かなきゃ手錠かけてでも連れて行くぞ!」
と言ったんです。

その時はちょうどお父さんが徴用から帰って来とったですから、お父さんが怒ったですよ。
「そんな悪いこともせんのに、手錠かけてまで連れて行くとはどういうことか。あんたらが手錠かけて連れて行くんなら、その前にわしが娘を殺す!」って。

そしたら警察は「まあまあ、そんなにせんでもええ」と言って帰っていきました。

 人様に悪いことをしたわけではないのに、買い物に行けば売ってくれんし、バスに乗れば車掌が保健所や警察に連絡して降ろされるし。家族や親兄弟まで差別を受けるんですよ。

 家族と離れて

 それからまあ、何ヶ月も泣いたりわめいたりしました。
昼は仕事をせにゃならんし、もう夜になると大変だったですよ。
そんなことがつづくとねえ、わたしのことで家族の間でも気持ちが暗くなるんですよ。

 わたしはお父さんに泣いて頼みました。

 「父ちゃん、わたし一人で山で暮らすけえ」
 「なにを言う。お前、女一人で山で暮らすのは大変なことだぞ」
 「大変でもええ。もう、たまらん」

 お父さんもお母さんも黙っていました。わたしがわんわん泣くもんですけえ、とうとうお父さんは「仕方がない」と言いました。

 お父さんは近所の人に見つからないように、こっそり山小屋をつくってくれました。

 あのころは田舎の人なら山小屋をつくるのは簡単でした。笹と萱があれば壁も屋根もできるんですよ。

 それから、お父さんとお母さんが、夕方、人に気づかれないようにご飯を持ってきてくれました。
人目がなくなるところまで来たらローソクに火をつけてね。
そして一緒に泊まってから、また朝早く、明け方を見計らって帰って行きよったですよ。
まあ、親には言葉に尽くせない苦労をかけました。

 夜は小屋の中にじっとしているのがこわいんですよ。
昼は昼で、人の気づかないような場所を探しては、じっと隠れていました。

 茶碗を洗ったり洗濯したりするのも、川で洗ったりしてるところを見つかってはいけないと思って、人に見つからないように谷から水を引いて、水がたまるようにしてね。そこで洗いました。
その洗濯物を見つからないように干す場所をみつけるのが大変でした。

そうやって三年間山小屋で暮らしました。

 山狩りしてでも

 わたしが一番怖かったのはオオカミなんかじゃなくて、人間ですよ。
山を歩き回る猟師に気づかれないように気づかれないようにね。
結局猟師には会わなかったけど、三年たったときですね、とうとう男の人が三人で来たですよ。
一人は白い服を来たお医者さんでした。
村の人に聞いて、途中まで連れて来てもらったんでしょうね。

 夜、ご飯を持ってきてくれたお父さんと相談しました。
そしたらお父さんはもっと山奥に小屋を建ててくれました。
それからまた一年、山の中で暮らしました。

 だけどやっぱりなあ、村の人に道を教えてもらったりして来るんですよ。
最後は七人か八人で連れに来ました。
今度はお医者さんだけでなくて、看護婦さんも来ました。

「もうお前は逃げることはできんぞ。逃げても山狩りしてつかまえるようにしてあるから、すぐつかまる。明日、下の神社まで降りててこい」と言うわけです。
あとでこの療養所に来てみて、そのときの来たのはみなここの職員だっちゅうことがわかりました。

 ああ、もうこれ以上家族に迷惑かけるわけにもいかんなあと思って、山を下りることにしました。
進駐軍のジープのような車に乗せられてですね、窓には黒いカーテンが張ってありました。
途中でもう一人女の人が乗せられて、その人と二人でこの星塚敬愛園へ連れてこられました。
それが昭和二十八年の三月のことです。
ちょうどこの年に「らい予防法」と言って、ハンセン病にかかった者は死ぬまで外に出さないという法律が国会を通ってしまいました。
わたしは三十一でした。

 敬愛園での生活

 あのころというのは、ほんとにひどい時代でした。
今みたいに洗濯機はないしねえ。ガスもない、電話もない。病院の医局しかなかったですよ。
お風呂も遠くにしかなくてね。

 わたしは身体が不自由な人たちの付き添いで重労働させられたですよ。
じいちゃんばあちゃんをおんぶして風呂まで連れていって、またおんぶして連れて帰ってくるんです。
それで一日働いて十円でした。
日曜も何もなしにまるまる三十日働いて三百円です。
そのお金も療養所の内でしか使えないお金です。
石鹸だの何だの少しは配られたけど足りないんですよ。
三百円というとね、卵十個も買えない時代ですよ。

 故郷から手紙や小包が来ても、全部職員があけてから本人に渡していました。子どもができたことがわかると否応なしに中絶されてしまうし、家族が面会に来ても予防衣を着せられて、部屋にはあげてくれませんでした。
まだまだいろいろんなことがありました。

 結婚

 わたしはここへ来て二年目に結婚しました。
夫は延岡の人でね、満州で発病して、強制収容でここに連れてこられた人です。

 しかし、主人はまあほんとに運の悪い人でねえ。
白内障を患って電気針で目を焼くというのをやったら、それで目が見えなくなったんですよ。
それから結核になって結核病棟に入ったんですが、今度は結核の薬の副作用で、耳が聞こえなくなったんです。
結核の薬でストレプトマイシンとかカナマイシンという薬は副作用で耳が聞こえなくなるんですよ。
それで、まったく会話ができなくなってしまいました。

 もうそれからは六年間、ちょっとでも熱が出ないように、咳が出ないようにと、おちおち寝ていられませんでした。
何というても、主人は目も見えないし、耳も聞こえないし、そばにおって見ておらなきゃあぶないと思ってね。

 喋るのは喋れるんです。
それで何かが欲しいと言うんだけど、それがここでは手に入らないものだったりするとほんとに大変でした。

 夏の暑いときに甘酒がほしいと言い出したんですよ。それで何とかしてやりたいと思って、看護婦さんにも頼んだりして鹿屋の街でも探してもらったけど、手に入らないんです。

 そしたら、「俺がこれだけ欲しがっているのに、くれんのか」と言うてねえ。
手を尽くして探したんだと言ってやりたくても、伝えようがないんですよ。

 夜通し主人のそばに座って。
つくづく、二人ともなんと哀れな星のもとに生まれたことか、いっそ死んだ方がましだなと、そんなこと考えたりしてね。

 会話ができるようになった

 わたし自身取るに足りない人間だけど、主人のことを思うと、目が悪くて読み書きができないのはつらいだろうと思ってね。
なんとかして会話ができないかと、いろいろ考えました。

 ある晩、ふっと思いついたことがあるんです。
主人はよく文章を書く人だったことに気がついたんですよ。
最初は指で主人の背中に文字を書いてみたけど、ハンセン病は感覚が弱くなってるから、わからないんです。
それで、お腹に書いてみたら、マッサージでもして貰ってるつもりらしく、喜んでるんですよ。

 いろいろ考えて、額に書いてみたけどやっぱりわからん。
こりゃあ、向かい合うと字が反対になるんでわかりにくいんだろうと、それで今度は頭の後ろに書いてみたけど、やっぱりマッサージだと思っているらしい。

 そうだ、自分で字を書くようにしてやればいいと思って、今度は本人の手を握って、筆で字を書くように空間に字を書いたんですよ。
「トキ、ココニイル」ってね。

 そしたら「トキ、ココニイル……、なに! トキ、ここにいる?」

主人はやっとわたしが字を書いているんだということがわかったんですよ。
もう喜んで、涙を流してですね。

「俺はこの世とあの世の境を夢うつつしとった。目も見えない。耳も聞こえない。死の世界にいるのと一緒だった」ってね。

「コレカラハ、モジデハナシヲスル」

 それからは、頭の後ろに書いてやると、少しずつわかりだしてね。
ひらがなよりカタカナの方がわかりやすいと思って、カタカナで書くようにしたんですが、目で見るようにはいかないからね、
たまには「ス」とか「ヌ」とか漢字の「又」が似て、よく間違えて大笑いしたとですよ。(笑い)

 夫は法律の知識もあって、世の中のことをいろいろ知りたがるんですよ。
それで、わたしは毎日新聞を読んでは、頭の横に書いてやるんです。
すると、「あれはどうなった?」とか、「今日の相撲は誰が勝ったか」とかね。

 こころのふるさと

 ところがですねえ、昭和五〇年の大晦日に、今度はわたしがやけどをして目が見えなくなっちゃったんですよ。
主人がお茶を飲めるようにと、火鉢にやかんをかけたところ、目の見えない主人がひょいと手を出して、やかんをひっくり返したんです。
火鉢の灰の柱がバーッと立ったのが見えました。それがわたしの両目に入って………、一晩で目が見えなくなったとですよ。

 正月が明けるまで、お医者さんたちは国へ帰って誰もいませんでした。
痛いの何の、痛み止めだけもらって、一週間我慢しました。
そしたら瞼の裏に灰がびっしりこびりついてですね。

 こっちの眼はもっと早く手術してたら直ったんだけど、ここの眼科医は女のお医者さんだったが、
「私は気が向かないと手術しないわよ。私はあんたたちの子守じゃないからね」
って、やってくれなかったんですよ。

まあ、らい予防法は撲滅政策だから、本人に生きる力がなければそれまでという時代でした。もう人間あつかいじゃなかった。

 主人は昭和五十四年に、風邪を引いて、肺炎を起こして亡くなりました。

 それからしばらくして、今度は弟が死んだという知らせが来ました。
弟はわたしが入所してからあと、兵庫で働いていたんですが、わたしがハンセン病だということがわかったばかりに、嫁の親が、嫁と子どもを連れて帰りました。
弟はだんだん深酒するようになって、とうとう肝硬変になって死にました。

 親には本当に不幸をかけました。
母は、道を歩いても「おまえのことを考えると、どうしてこんな病気になったかねえ」と泣いて歩いたと言ってました。
父は八十四歳になるまでここに面会に来てくれました。

 ああ、家を出てからもう五十年以上になるもんねえ。
もう目が見えんから、帰ってもどんな風になっとるかわからんけど。わたしの家は鹿児島と熊本の境にある山奧の村でね。
今でもはっきり覚えてる。学校で習った歌があったねえ。
なんでも、むかし隣町の人吉の音楽の先生がつくった歌だって、

更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
恋しやふるさと なつかし父母
夢路にたどるは 里の家路

 まあ人間の一生なんて、ほんとにね、幸せな一生を送る人もあれば、わたしらみたいに一生差別される人間もいる。
ハンセン病は指先の神経がやられるんで、(指を曲げて)指がこうまっすぐ伸びないんですよ。
それでも、人間の心を失ってはならんと思って、手は曲がっても心は絶対まげないぞって自分に言い聞かせてきたですよ。

 ひとこと言ってやりたかった

 わたしらを強制的に隔離してきた「らい予防法」が廃止になったのは平成八年でしたね。
国が間違っていたと言うて、大臣が謝ったそうですよ。
テレビでやったそうですが、わたしは目が見えないので人から聞きました。

 そのとき思ったですよ。
大臣が頭下げたって、わたしたちはもういっぺんやり直すわけにはいかんでしょうが。
夫も死んだし。
わたしのために警察官とけんかして山奧に小屋をつくってくれたり、ご飯を運んでくれたりしたお父さんもお母さんも、もう死んでしまったですよ。
廃止になったんなら、ちゃんとして欲しいことがいっぱいありました。

 らい予防法が廃止になって、しばらくたってからでした。
弁護士さんの無料相談ということで誰かがお願いしたんでしょう。西日本の弁護団の方々がいらして、いろんなことを話したりするうちに、
「国が謝れば済むというもんではない。なんでこんなことをしたのか、誰がやらせたのか、それをはっきりさせんと、またおんなじことになる」(音楽入る)
ということで裁判を起こすことになりました。

 わたしは盲人だし、何もわからなかったんだけど、一緒にやろうと誘われて、みなさんに支えられて原告団の一人になりました。
わたしはどうしても言わにゃならんことがあると思ったからです。
長い間苦しんできたこと、悲しんできたこと、まともに言う度胸はなかったけど、ひとこと言ってやりたくてね。

 わたしは車に酔うたちで、すぐそこの鹿屋まで行ってもげーげーやるんですが、あの時は熊本の裁判所まで六時間かけて証言に行きました。

女のくせにと言われました。
だけどあんた、女だから言わにゃならんと思いました。わたしのように目が見えなくなった人間でもね。

 だから証言のとき、生き恥さらしてお話しするうちに泣いてしまいました。
だけど、わたしは最後に言いましたよ。
予防法を廃止した以上、国の責任で日本国中、津津浦々、一軒家にいたるまで、草の根を分けてでも偏見をなくしてくださいって。
そうでないと、とてもじゃないけど、家族もなんも浮かばれないですよ。国はハンセン病は恐ろしい病気だって、ずっと国民に言いふらしてきたんだからね。

 わたしの夢は、何とかして夫の骨を故郷の墓に入れてやることです。
ハンセン病はほんとは何でもない病気だったんだということになったけど、やっぱり故郷の墓には入れてもらえんのです。
夫はきっと自分の生まれ育ったところで眠りたいでしょう。

 わたしももうすっかり年をとってしまいましたが、なんとかして、夫を故郷の墓に入れてやりたい。いろいろな方に力を貸して下るようにお願いしています。

 皆さん、どうかよろしくお願いします。

音楽の中で一礼して終わり。

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もう1つの語りはこちらです。

このうたと語りは、ハンセン病の歴史の解説とともに、地域の公民館や学校、お寺、教会で上演をしています。

NPO現代座--語り「遠い空の下の故郷」これまでの公演

わたしたちNPO現代座は、助成金や企業のスポンサーをうけておらず、全国のNPO会員の皆さんの会費と寄付、上演時の参加費で活動をしています。

2016年は2月28日(日)に東京都小金井市の現代座会館にて公演します。

その後、小金井市の中学校公演、長野県松本市での一般公演に続きます。

(上記公演は終了しましたが、ご依頼に応じて上演をしております)

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