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コロナウイルスが僕につけた、たった一つの傷跡

祖母の死を受け入れられないまま日々はすぎて、1ヶ月が経ちました。

これから書く話は、気持ちの整理がしたくて、吐き出したくて書いたので、かなり暗い話になると思います。
なんの生産性もないと思うし、死に関する描写もあるので、苦手な人や触れたくない人は読むのを御遠慮下さい。





これから書くのは、届くはずのない懺悔のようなものだと思う。





4月7日の深夜、祖母が亡くなった。
死因はコロナウイルスではなく、たしか誤嚥性肺炎だったと思う。
(コロナウイルスじゃないということしかしっかり聞いていなかった)



3月の頭くらいに、祖母が家で転んで骨折し、病院に運ばれた。
足腰が弱くなっていた祖母は、年に一度くらい転んで怪我をしていたので、僕は今回の怪我もあまり重く受け止めていなかった。
前回怪我をした時も、様子を見に行った時に、おばあちゃんも年をとったんだなぁ、と思うくらいだった。

手術も無事に終わり、病院に運ばれた週の末に、僕はお見舞いに行った。
病院の駐車場に車を停め、僕が向かった玄関は、コロナウイルス対策で閉鎖されていた。日本でもコロナウイルスの影響が大きくでてきた頃だったと思う。
正面玄関に回るよう指示が書かれていたが、馴染みのない病院だったので場所が分からず、先に着いていた父に連絡をとった。

「コロナウイルスの影響で、面会できないから来ても意味ないぞ」

祖母の実子である父ですら面会ができず、ナースステーションに荷物を預けて帰ったそうだ。
少し体調が優れないが、術後の経過としては安定していると父から聞かされた。

足を骨折してしまった祖母は、歳のせいもあって歩けるようにはならないとの事だった。
祖母が住んでいる母屋は、祖父が建てたもので、令和になった今では社会の教科書にのりそうな、良く言えば趣のある、悪くいえば古い日本家屋だ。
もちろん、バリアフリー化されているはずもない。
退院後は、老人ホームのような所で面倒を見てもらうことになるそうだ。
1ヶ月程で退院出来るようなので、その頃にはコロナウイルスも落ち着いて、いくらでも会いに行けると思っていた。

望む未来がいつも地続きではないと、僕は忘れてしまっていたようだ。
本当に救いようのない馬鹿だ。

3月下旬、荷物を病院に届けに行った父から、祖母の様態が悪くなり、ICUに移っていた事を聞いた。
病院に馴染みのない僕は、ICUという単語をテレビの向こう側にあるもののように受け取っていた。
だからか、全く焦らなかった。間もなく一般病棟に移った事を同時に聞かされたからかもしれない。
ICU=集中治療室だと知っていたはずなのに。

そして、4月になった。
緊急事態宣言、という言葉を耳に聞く機会が増えた。コロナウイルスが収束する日が遠い事を悟った。

僕は祖母に手紙を書こうと思った。
茨城の片田舎で農業を営む僕の祖父と祖母は、所謂古いタイプの人間だ。
ガラケーやパソコンに全く触れたことが無い。もちろんスマートフォンやタブレットだって使えない。
なので、連絡をとる手段がそれしか無かった。
週末に手紙を書いて届けに行こうと決心したのは、4月7日の昼だった。

思い立った瞬間から、僕は言い様のない不安を覚えていた。不安と言うほどしっかりした感情ではないか。
胸がザワつくと言った方が正解に近いだろうか。

僕は、虫の報せのようなものを受け取る事がある。
一人暮らしをしている頃、平日に突然思い立って実家に帰った事があった。今までにそんな事をした事はなかったと思う。
次の日の朝起きると、まだ父が家にいた。仕事で朝早くに家を出る父が、まだ家にいるなんて珍しいなと思った。
理由はすぐに分かった。

飼っていた猫がキッチンの椅子で冷たくなっていた。

数日前に病気が発覚し、闘病生活を頑張ろうと両親が意気込んでいた矢先だった。その猫はまだ9歳だった。
昨日だっていつもと変わらず、頑張ろうな、長生きしろよって声をかけたりしながら一緒に過ごした。
素振りや予兆は、一切なかった。

20代半ばの頃に、小学校からの友人が突然亡くなった時も報せがきた。
その友人が夢に出てきて、僕を置いてどこかへ行ってしまった。必死に待って、と声をかけたが止まらなかった。
目が覚めて、その夢を覚えていた僕は、夢に出てくるなんて珍しいなと思った。
急逝したと連絡が来たのは、そのすぐ後だった。

母方の祖父が亡くなった時にも、死去の連絡が来る前夜に夢に出てきた。

だからきっと、僕は今回の胸のザワつきの正体にも気付いていた。しかし、直視できなかった。

そして、4月7日 23時頃に車庫のシャッターが開く音が聞こえた。
僕は、流行りのウェブ飲み真っ最中。こんな時間にどうしたんだろうと思いつつも、嫌な予感を押し殺していただけのようにも思うが。
直ぐに部屋のドアが勢いよく開いた。

「病院から様態が急変したって連絡が来た。今から行くからすぐに準備して。最後かもしないから」

母は言った。

僕はまだ、この電話の意味を理解していなかった。
きっと、僕の全てが理解する事を拒んでいたのだと思う。

そして病院に到着し、念願だった祖母との面会を果たした。
呼吸器をつけた祖母は、眠っているように、安らかな顔で亡くなっていた。
僕は立っていることすらできず、祖母に縋り付くように泣いた。
もう何も考えられなかった。

父が呼んだ葬儀屋の人が祖母を迎えに来るまで、涙は止まらなかった。
家に着いて、仏壇の前に寝かされた祖母の体勢を葬儀屋の人が整える様を見て、また泣いた。
なんの反応を示さない様が、命のある人間で無い事を強く意識させた。まるでモノの位置を整えているようで、辛かった。
(もちろん葬儀屋の方はとても丁寧に整えて下さっていました)

全てが終わって時計を見ると、時刻は4時を回りそうだった。その日はほとんど眠れなかった。

長い夜が明け、明るくなって広がる世界は、今の僕には地獄だった。

家中どこにいても、庭に出ても、どこを見渡しても、どんなに些細なものにでも、祖母との思い出が溢れるほど詰まっていた。
ただひたすらに、辛かった。悲しかった。後悔した。
その反面、沢山の思い出がある事がとても嬉しかった。

昼食や来客向けのお菓子や飲み物の買い出し、その他の雑事を頼まれてスーパーマーケットに行った。
やっと心が休まると思った。
しかし、無意識に向かったそこは、祖父や祖母と幼い頃に何度も来た所だった。

翌日の買い出しの際には、別のスーパーに行った。しかし、なんの意味もなかった。
祖母のよく食べていたお菓子、よく出してくれた飲み物、カップラーメンやインスタント食品、どんなところにも祖母がいた。

家にいても、買い出しや雑事を済ませに外に出ても、道中にすら、元気な頃の祖母がいた。

祖母は面倒見がよく、穏やかで、とても優しく温かい人だった。

僕は、祖母に育てられたと言っても過言ではない。
共働きで昼間は家にいない両親に変わり、幼少期から中学を卒業して家を出るまで、ずっと面倒を見てくれていた。
ご飯を作ってくれたり、幼稚園のバスの送迎や、体調を崩した僕を小学校に迎えに来てくれたり、病院に連れて行ってくれたこともあった。車の免許を持っていない祖母は、自転車の後ろに乗せて連れて行ってくれた。
きっと大変だったと思うが、一度も文句や泣き言を言われた記憶が無い。

どんな時だって、言われた事がないのだ。

幼稚園や学校から帰ってくると、お腹が空いていないかと、いつもお菓子や軽食を用意してくれた。
祖母が作ってくれるペヤングが、とても美味しかった事がひどく印象に残っている。

自分で作っても同じようにならないのが不思議だ。

高等専門学校を中退し、定職につかず音楽をやっている僕をいつも心配してくれていた。
普通に就職して、結婚して、子供を育てて、それで十分に幸せなのだと言っていた。
当時の僕は、それだけが幸せではないと、これだから田舎は嫌なんだ、なんて思っていた。
祖母のその言葉の、祖母だから言えるその言葉の深さを尊さを、今更に気付けた気がする。

以前やっていたバントで初めての全国流通が決まり、聞かないと分かっていたがCDを渡したことがあった。
それがリビングに飾られている事を知ったのは、亡くなってからだった。

4月11日、葬儀の日がやってきた。
特筆すべきことは何もない。
僕はひたすらに、ずっとずっと、子供のように泣いていただけだ。
祖母の遺影は、今にも微笑んでくれそうな、素敵な写真だった。

火葬を待つ間の会食の時に、父が挨拶をした。

「祖母は、贅沢を全くしない人で、どこか連れていこうか?と声をかけても「大丈夫だよ」と断るような人だったので、長男として何もしてあげられなかったが、孫と曾孫を抱かせられた事が、唯一の親孝行でした」

僕はまた泣いた。本当に泣いてばかりだ。
きっと父や、父の姉の次に迷惑をかけ(正直、迷惑は他の追随を許さないほどかけていると思う)、面倒を見てもらったのは僕だと思う。
僕は、祖母に何も返せなかった。子供もいなければ、結婚相手のけの字も報せられていない。

お見舞いに行く事も、最後の時を共に過ごせす事すらコロナウイルスに奪われ、駆けつけたが間に合わず、病室で一人ぼっちで逝かせてしまった。

生前には何もしてあげられなかった僕が、毎日欠かさずに、祖母の遺影の前で手を合わせ、線香をあげている。
偽善のようで、悲しんでいるポーズのようで、悔やんでいるアピールのようで、自分の事が嫌いになりそうだ。
でも、祖母のために僕が今出来ることは、日々を健やかに過ごす事とこれくらいのものだ。

誰かを亡くすのは三度目なのに、気付かされたはずだったのに、理解したはずだったのに、いつの間にか褪せてしまって、思い出すのはいつも零れ落ちた後だ。

緊急事態宣言による外出自粛で、友人にあったり、飲みに行く事ができない。
そして、吐き出す所を見つけられないまま、夜がくる。
眠ろうとすれば祖母の事を考えてしまって、寝付けない日が多い。
ずっと悪い夢を見ていて、朝起きれば夢から覚めて、元気な祖母に会えるような気でさえいる。

大好きな祖母の優しい笑顔が、声が、もうどこにもない。

そんな祖母が大切に育てていた草木や花達が庭に咲き乱れている事に、最近になってやっと気づいた。
もちろん、本当はずっとずっと、すぐ傍にあったのだ。

今までの僕の行いが、振舞いが、何も積み上げてこなかった怠惰が、コロナウイルスを使って罰を与えたのだろうか。
烏滸がましいとは理解しつつも、そんな風に考えてしまう。

僕はまだ、祖母の死を飲み込めずにいる。

話が少し遡るが、祖母と交流のあるお坊さんだったようで、葬儀の最後に、読んだお経に関する説明や、祖母との思い出を語ってくれた。

「いつもお孫さんの話を楽しそうにしていた」と。

おばあちゃん、沢山の愛をありがとう。何も孝行出来なくてごめんね。

こんな事は、どこにでもある、只管にありふれた事だとはわかっている。
それでも僕は、気持ちを、想いを飲み込めずにいて、吐き出したかった。

少しずつ折り合いをつけていけるように、そもそもつける必要があるのかも分からないままだが、一日一日を大切に生きていきたい。
また、後悔してしまわぬように。

僕の独白に、駄文に付き合ってくれて、ありがとうございました。

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