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一人では何もできないが、一人が始めなければ何も始まらない。一人が始めたことに誰かの承認がなければ、何も変わらない。

 小学校卒業文集で、私は「城の設計士」になりたいと書いた。姫路城に連れて行ってもらってから、敵からどう守るかを一人で妄想することにはまって、毎日お城の設計図を書いていたことがある。中学生になって、「今はお城の設計をできる機会はないのでは」と指摘されて、ついえた将来の夢である。

 もうすでに他界した父は、私を「禅宗の坊主」にしたがった。ことあるごとに「修行に行くか」と私につぶやいた。口数の少ない父は、その理由を最後まで明かさなかった。父は、大学で梵語を履修していた。梵語は、サンスクリット語の異称で、古代インドの言葉である。どうやら、お経を原典で読んでいたらしい。

 仏教の修行が、「一人では何もできないが、一人が始めなければ何もできない」という時の、「最初の一人になること」を意味することを知ったのは、最近のことである。

 教育実践は、「一人では何もできないが、一人が始めなければ何もできない」ことの連続である。妻が学級崩壊クラスを受け持った時、彼女は「掃除」から始めた。教師どころかおとなへの信頼を失っていた子どもたちは、もちろん、掃除の時間であろうが、誰も手伝いもしなかった。彼女は、子どもたちが学校に来る前に、お昼休みに、掃除の時間に、そして放課後に、毎日一人でさまざまなものが散乱している教室を片づけ、落書きが残ったままの黒板を拭き、ぐちゃぐちゃになった机といすをもとに戻し、始業式のきれいな状態を保った。教室をきれいにしたのは、子どもたちの教室だからである。子どもたちのものや言葉を大切に扱うことから始めたのである。

 そのうち、一人また一人と掃除を手伝う子どもが現れる。彼女が、このクラスをどうしたいのかを承認した子どもが増えていく。一人が始めたことに誰かの承認がなければ、何も変わらない。教育実践は、子どもに助けられて正しさを貫くことができる。

 ひなた教育実践工房は、ふなやんが始めた「一人では何もできないが、一人が始めなければ何もできない」活動である。私たちの活動は、何かを変えようとする実践を承認する他者に常に支えられている。

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