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人間の大人が案外鼻くそを食べている件

電車やホームで佇んでいると、鼻に指を豪快に突っ込んでいる人は想像以上に存在する。
子供なら「ふぅん」で終わりだが、大人である。

私の価値観では、それは恥ずかしい行為である。
そんな1人でコソコソするような行為をうっかり公衆の面前でしてしまった人が、誰かに見られているのに気づいた時にどんな顔をするのか?

私は興味があり、ついじっと見てしまう。
目が合うまで見つめてみる。
ところがなかなか目が合わないのだ。
鼻ほじリストは周りを気にしないのである。

私の興味は次第に変化する。
その指と鼻くそは一体どう始末してくれるのか?
完全に偏見だが、彼らのような人がティッシュや除菌ペーパーを持参しているとは考えにくい。

彼らのステップ②は大方決まっている。
その指を口へ運ぶのだ。
そして何でもない顔をしてその場にいるのだ。

初めて見た時は血の気が引いた。
その手で
「吊り革を持ち」
「階段やエスカレーターの手すりをつかみ」
「ドアを開け」
目的地に向かっていくのだ。

電車のシートには座れないし、手すりも吊り革もつかめない。
階段もエスカレーターも壁さえも全て触りたくない。
手が触れる範囲に居て欲しくないとも思う。

そんな不快感を振り撒きながら自覚がない彼らは
例え私と目があってもひたすら普通だ。
慌てて鼻から手を離すわけでもなく
呼吸するように鼻ほじを続け
ただ私にも気づいただけの顔をした。
鼻をほじるのを人に見られるのは恥ずかしいという私にはある感情が彼らには無いのだ。

確かに、鼻くそは誰でも溜まるさ。
溜まった以上いつかはほじらなきゃならないさ。
でもそれは電車の中なのかい?
電車を待つホームなのかい?
私には分からないよ。

何故彼らは気づいたら場をわきまえず鼻をほじるのだろう?
私は冷たくなっていく顔の皮膚の軽く痺れるような感覚を味わいながら考えつつ、会社まで歩く間にいつの間にか忘れている。

ただ、年に3-4人ペースでは見かけるのですごい。
度々考える機会を得ることになる。

繰り返し考えて理解したのは
彼らは「ゴリラ」であるということだ。

ゴリラが鼻くそを食べる瞬間

ゴリラは人々からカメラを向けられようとお構いなしだ。
この様は私が見てきた鼻ほじリストと酷似する。

調べてみると、ゴリラや猿は免疫力を高めるために鼻くそを食べるらしい。
鼻くそにはホコリやウィルスなどが付着していて、それを取り込むことで免疫力が上がるというのだ。
動物の本能的な行為なのである。

しかし人間の大人で鼻くそを食べる人は少数派に感じている。

山陽新聞の記事に参考になるものがあった。
なぜ子どもは鼻くそを食べるのか 大学教授が分析、対応策も

田原特任教授は「成長とともにやめていくので、見守ってほしい」と話す。子どもは小学校中学年ぐらいになると、周りから自分がどう見られるかという「他者からの視点」が分かるようになる。人前で鼻をほじったり、鼻くそを食べたりする行為は「恥ずかしい」と思えるようになり、自然としなくなるそうだ。

なぜ子どもは鼻くそを食べるのか 大学教授が分析、対応策も

人間にも本能として備わっているが、理性が育つとともにこの特性は消失していくようである。

ということは、鼻ほじりストたちは理性が育たなかったとも言える。

しかし、選ばれた人々とも言えないだろうか。
見えない空気を感じたり同調圧力をもリフレクの如く跳ね返し、自ら信じる道を突き進むことが出来る人々でもあるということである。

私はつまらない大人だ。
人の目を気にし、人の顔色をうかがい
人と関わった後は自分が失敗していなかったかが気になって一日反省会になってしまう。
勝手に相手の心の中の声を何パターンも想像する。
とても疲れる。
そんなことをしている間に「自分が何が好きで何がしたいのか」全く分からなくなってしまった。
行動や思考が他人の目を基準にしてしまうのである。

子供の頃にあった根拠の無い自信も未来への期待も何もない。
そんな自分が電車で他人を見つめて「恥ずかしい人」などと相手を見下げている、自分こそ空っぽで自分の人生を生きていない透明人間なのに。

私は自由に本能のまま行動している鼻ほじりストの魂が羨ましいのかもしれない。

天才たちが実は発達障害だった
なんていう話が最近よく出てくるようになっているが
鼻くそをほじっては食べてた天才も案外いそうじゃない?

次に鼻ほじりストを見かけたら話しかけてみよう。

そう心に決めてから2年
鼻をほじる人をめっきり見かけなくなってしまった。

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