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竿姉妹だって縁のうち『源氏姉妹げんじしすたあず』:素人が読む源氏物語~花散里~

源氏物語は「光源氏が都の美女たちと次々と関係していく」というイメージがあります。そうです、麗しい恋です。目の前にいる女性にはそれぞれ甘い優しい言葉をかけます。

その舌の根もかわかぬうちに次の女のところでメロメロなトーク、という場面があったり、時おり異様な情熱に突き動かされたりするのを読むと、彼のことはちょっと理解しがたくなります。

そのためでしょうか、言われがちなのが「紫式部が書きたかったのは女たち。光源氏はその狂言回しにすぎない」という説。確かにそんなふうにも読めます。女たちのほうがリアリティある、というか。

それを一歩進めると、酒井順子先生の『源氏姉妹(げんじしすたあず)』になります。酒井先生は源氏物語を竿姉妹たちの物語と見立てました。

姫たちは邸宅の奥にいる。基礎的な古文常識系参考書からの知識によれば、垣間見は男も女もしたことだったらしい。だとしたら、夕顔と光源氏のファーストコンタクトの場面――五条の通りでひとを待っている光源氏へ、夕顔がサラリと歌を渡した――だって、その前に夕顔が垣間見してたのかもしれない。一方、身分高めな女同士の接点は少なかったでしょう。出歩く機会も少なさそうだし。すれ違うこともない女たち。それが色好みの男によって、身分もタイプも様々な女が同じ流れのなかで語られることになる。

『源氏姉妹』では花散里も取り扱ってくれてます。1人で1章までは割り当てられませんで、別のシスターと一緒です。なんと、葵上とです。贅沢育ちのお嬢と地味な女を、なぜ? いちおう大臣の娘で「愛し愛されてルンルンな暮らし」とは無縁なところが共通しているのでしょうか……。

読んでみると、花散里と葵上は、光源氏の夜離れ=性的な無関係に悩む女性、という訳でした。なるほど! そう、アッサリとした文ではありますが、確かに苦しんでるって書いてあるんです。

いちおう、古文を確認しておきます。

葵上


(光源氏元服の夜に添臥の妻として。光源氏が自分よりも4歳も年下だし)似げなく恥づかし、とおぼいたり。

葵上はあまり光源氏の前に姿をあらわしません。葵上も暮らす左大臣邸に光源氏が出掛けても、その場に顔を出さなかったり、出しでも渋々だったりします。だいたいツンツンしてます。光源氏が嫌われてる感はビシビシ伝わってくるのですが。ま、男がよその女のところに通うのは、古文常識参考書でも苦しいことになっているようです。

花散里

(かつて内裏あたりでほのかな関係があったけど妻の1人にはカウントされなかったし)
人の御心をのみつくしはて給ふべかめるをも……
(夜遅くに久しぶりに光源氏が訪れたので)
つらさも忘れぬべし。

まあ、語り手のいう「べし」なんで、今のミステリならミスリード誘うテクニックになりうる、と素人読者は思ってしまうんですけど。平安的には語り手の「べし」は常に妥当なのでしょうか。当人の心情は語り手を裏切らないものなのか? 文学史的に考えたらどう読むのが妥当なのか分かりそうですが、それはまた別記事で書きます。

いちおう、ふたりとも光源氏の夜離れ(よがれ)に苦しんだふうに読み解かれています。

どうなんですかね、ぶっちゃけ、求愛をほぼ拒めないし、家族でも夫でもいいけど男性のもたらす金や権力の力を頼るのが女性の生きる道という世界観のなかで、愛されなくても生きていける女性のありようが、この2人で描かれたんじゃないの? そんなことを思います。そういうファンタジーが、当時の女性たちのしんどさをやり過ごす糧になってたり、したのかなあ。どこにも行けなくても、どこかがある、って思うだけでも、呼吸の深さを取り戻せたりするんじゃないだろうか。

葵上は結婚しなくても左大臣や頭中将の財力で生きていけたかもしれない。

花散里は

結婚=性愛+生活


と仮定したとき、


生活=結婚-性愛


を得たのは、望むところだったんじゃないのかなあ。


袖すり合うも他生の縁、ってコトワザがある。平安ガールズは外歩きしないから、ストリートで袖がすり合うなんて無理だ。で、どこで他生の縁を感じるかというと、男たちに渡り歩かれることによって感じることもあったのかも。ただでさえ狭い平安貴族の世間は、この程度の縁をいれたらほんとうにスモール・ワールド。

そういう意味では、狭い世間の多彩なひとたちの群像劇でもあるのだなあ。万華鏡みたいだ。

花散里の巻を読み比べる1人遊び、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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次回はウェイリー版の新訳でも行きましょうか。

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