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素人が源氏物語を読む~葵02~: あの夫婦にオメデタって、ほんとうなの?

読んでいて、葵上が懐妊したと告げられるところにくると、何度でも新鮮に驚きます。ウソでしょ、どの流れで彼女の腹に子が宿るというのですか? と。

■葵上は正妻ではあるけれど

まあ「男と女のことだから、何があっても不思議じゃない、ましてや夫婦なんだから当然だ」というのは、そりゃそうなんでございます。そうなんですけれど、それじゃあんまり納得がゆきません。

そりゃあ、光源氏が元服して成人男性として扱われはじめる最初の夜から、葵上は光源氏の正式な正妻ではあります。

( 正式な正妻という言い方は変な気もいたしますが、正式ではない正妻が存在する世界なのです。紫上は物語のなかの世間では「正妻格」と認識されていて、これは正妻とほぼ同様、非公式な正妻ということでしょうが、正妻の座を狙おうと思う女に身分があれば無視できる程度の不確かな立場だったのです。)

他所でどれほど非公式な恋を重ねても、正妻は葵上だけですから、光源氏との子をお腹に宿してしかるべき人物ではありました。けれども、このお二人はラブラブだったり、静かだけれど落ち着いた信頼関係で結ばれている、という雰囲気ではございませんでした。と、いうふうに読んでおりました。

とはいえ、まったく交渉が無かったわけでもないのでしょう。葵の懐妊を知った光源氏は、誰かに彼女を寝取られたかと疑ったりはしていません。寝取られたなら、女三宮と柏木の不義が発覚した際にネチネチと執拗なハラスメントを繰り返したように、病ませる勢いで責め立てたことでしょう。

■妊娠するような仲だったの?

いったいどこに、葵上が妊娠する要素があったのか。男女の仲は何でもアリ、とは申せ「紫式部先生、ここにある事情は御都合主義だけですか?」という気持ちで読むのは少々しんどいんです。できれば、御都合主義だけではなかったよね、という感じで読みたいんです。懐妊するまでの流れを納得したいんですから、それまでの関係をさらりと振り返ってみましょう。

■これまでの巻の2人

【桐壺】

先ずは結婚当初。葵上は四歳年上である自分自身と、初めての夜の直前、元服の儀式が執り行われる前までは少年であった美しすぎる光源氏とが釣り合わないと感じて戸惑って親しめません。また光源氏も義母である藤壺だけを最高の女と思い込んでいます。そして葵上の暮らす左大臣邸に光源氏は通うべきなのに、勤務先でもあり父帝もいる内裏にばっかり入り浸っています。

【帚木】

雨夜の品定めの頃も、2人の距離が縮まった感じはございません。光源氏は葵上を「ああいうのが男たちのいう"よき妻"かもしれない」と思いつつも、堅苦しいし物足りないと思っています。光源氏が左大臣邸にいるときにも、葵上とお二人でいる場面は描かれません。この段階でお二人の歩み寄りはほぼゼロな雰囲気です。

【夕顔】

この頃は光源氏が左大臣邸を訪ねることはめったになかった、と書いてあります。

【若紫】

光源氏は久しぶりに左大臣邸へ出掛けます。葵上は父の勧めでようやく顔を出します。光源氏は葵上に、つい先日山籠りした北山のことなんかを話してみます。なんとまあ、光源氏は北山への療養旅行がほんとうに嬉しく楽しく印象が強かったのですね。それでも葵上がよそよそしい態度なので、がっかりするし気詰まりなのでした。

こんなふうに年々 心が離れていくことを光源氏は心外だと思っている、と書いてあります。

ここ、いま読み返して、ちょっと意外な気がしました。先に読んだときは「なにを勝手なことを抜かしてやがンだ」と思ったんですけど、今日読み返すと違って見えました。彼、家族に甘えたかったんでしょうかねえ。恋の仕方は知っていても、家族である女への甘えかたを知らない、父帝に最も愛された息子。設定、凄いですね。

そんな屈折を、葵上は知る由もないでしょう。だって彼女は家の繁栄のための大事な手駒である娘だもの。生まれたときからお姫様で、黙っていても周囲が自分を大事にしてくれるのなんて呼吸するくらい当たり前のことだったでしょう。光源氏は、その当たり前をくれない初めての男だったかもしれない。

葵上は東宮に嫁ぐプランもあったのに、帝の息子とはいえ臣籍降下したら一世貴族で只のひと、そんな光源氏の正妻になったことが気に障っていた、という読みは「なるほど身分社会だなあ」と思います。

でもすみません、私はそれだと少し謎が残って。それならなんで葵上は光源氏の美しさを最初あんなに恥ずかしがってるの? 美しさなんて身分の前では霞むのが身分社会では? と。

より貴いものが、より美しい。そうあるべきなのに、その秩序を乱すようなヤバい美しさを持っているのが光源氏なんじゃないですかねえ。見るひとを惹き付けつつも混乱させてたんじゃないですか、光源氏ってぇ男は。

まァ、若さの輝かしさが際立つ世界なので、四歳年上ってのは絶対的な差に見えたかもしれないけれど。

葵上に初めて敗北を感じさせたのが光源氏だったり、しないかなあ。年下の男への、敗北のような恋。でも、お姫様は負けるのなんか初めてだからさ、どうしたらいいか分かんないの。そんな葵上を思い浮かべました。

で、そう思って続きを読むと、先には「あー……、貴族ってやつは雅でよく分からない思わせぶりな会話すんのな」と思ってた箇所も色付いて見えたんです。

光「たまにはツンツンしてないフツーの妻って感じのとこも見たいです。私は北山に病気療養に行ってたんですよ、私の病がどんなだったかとか訊いてよ、つれないのが通常運転でいらっしゃるけど、やっぱツラいもんです」

葵 「私が病気のことをお尋ねしないのがおツラいのですか?」(アナタもウチを訪ねないじゃないですか)

光 「思い直してくださればと、こっちは色々してるのに。でもまあ、長く生きてけば、ね」(おたがいこれから付き合い長いんだし、いつかマシになることでしょう)

そう言って光はベッドに行くんですが、葵はスルーします。

こういう会話を昔の和歌を引きながら交わすんです。和歌もセリフもそうだけど、表に出されたものに心が読まれるとして、思ったことを100%そのまま伝える術は無いから、どこか加減を間違えて過剰に伝わったり、あるいは伝わらなさに託つけてストレートに伝えてたり、ほんと、心はどこにあるんだろう、って思います。

これは若紫の巻の中の、父帝の妻=藤壺との密通とか幼女=若紫誘拐など衝撃のニュースの最中にサラッと描かれる日常の1コマなのでした。藤壺や若紫への、ちょっと異常なほどの執着と比べると、葵上に対しては情熱が無いみたいに思えたものです。政略結婚ってのは上手くいかないもんかねぇ、と。

でも今読み返すと、すれ違いながらも互いに何かを期待しているし、相手の言動に心揺らされてる。葵上は冷たいお人形さんのようにも描かれるけど短いセリフにちゃんと感情がある。押し隠したかったり、伝え方が分からなかったりする、色に出ない気持ちが彼女にはある。彼女は「光源氏の正妻の子」を産むためだけの存在ではなくて、女人として光源氏と関係していたというふうに今回は読みました。

けれども、紫式部先生というお方は、どの女にもハッピーエンドを用意しなかったんです。なんだか焦れったい、ほんのり甘酸っぱい2人を見せたあとに、藤壺に逢いに行かせちゃうし若紫を二条の自邸に連れてこさせちゃう。

次に葵上が出てくるのは、若紫誘拐の直前です。左大臣邸にいて若紫についての手紙をやりとりしてんです。葵上はいつものように殆ど顔を見せないし機嫌悪いし、光源氏はそれを残念がるような歌なんか歌います。

さあ、どうなんでしょうねえ、葵上は何にも知らなかったんでしょうかねえ。女の勘で不明なりに何かを察知してて、とてもとても晴れやかな気分にはなれなかった、というようなこともあるんじゃないですか。

あるいはですよ、色好みが正当化される世界だとしても、「雨夜の品定め」でふれられていたように、女に嫉妬心があることは認識されてるんですから、ただのシャイや無口が罪悪感ゆえに冷たい態度に見えた、ってセンも考えられます。

若紫誘拐のために家を出ていくのは、葵上が打ち解けてくれない夜更け。出ていく光源氏を見て、葵上はますます不機嫌そうにしています。光源氏は「二条の自邸に大事な用があったから、帰るね」と言い訳して。

若い妻ですよ、好きか嫌いかを別にしても、ただでさえイヤでしょうよ、そのうえタイミングが悪い。やだもう、最悪よ! って愚痴れる女友達がいればいいんですけど、いなかったんじゃないですか。

【末摘花】

謎の難攻不落の美女=末摘花を頭中将と争う巻なので左大臣邸はしばしば出てきます。みんなで音楽の遊びをします。カラオケで盛り上がるみたいなノリなんですかね、よくセッションしますよね。言語による会話よりも平穏なのかしら。

ここでは葵上はあまり出てこない。ただし、葵上の近侍の女房のひとり中務が光源氏と恋仲になって頭中将に口説かれてもお断りして、っていう場面は描かれます。女房レベルと色々あっても物の数にも入らないのでしょうか。でも、正妻の葵がすぐ側にいるのに。葵上の気を引きたくてやってるのかなあ。あるいは尿意と同じレベルのただの排泄なのか。この辺は、私にとっては平安の謎ですね。

【紅葉賀】

光源氏が二条の自邸に女を囲った、ということだけが葵上の耳にも入ります。葵上はそりゃあ不愉快です。でも素直に「あたし、そういうの無理なんだけど」とは言えない。こうやって見ていくと、葵上は「光源氏によって心が揺れる」けれど「要求を伝える術を知らない」ひとみたい。

それを光源氏は「素直に怒ってくれればちゃんと説明して慰めもするのに、」と内心思うのです。はぁ~……、歯がゆいですねェ。負い目があるせいなんですかね。

言やぁいいじゃん、二条のほうは今のところ後ろめたいこと無いんだから。彼女は葵上の姪でもあるみたいなことも書いてあったし。死後に発覚することだけど葵上は女の子を保護してたし。ウチに連れてくれば? ってことにもなったんじゃない? って考えると紫上って浮舟みたいな設定なんですね。藤壺のことは後ろめたいでしょうけど。彼は、後ろめたさを切り分けできてなかった。

それに続く心の声も凄いんです。「勝手に色々思いこむから、こっちだって浮気するんじゃん」って。いやいや、あなたがフラフラあちこちの女の尻を追いかけてるから冷たくなってるんですよ? 内心は恨めしくても家族みんなアナタを責めずに尊重してるんですよ? だいたいどんな言動で不満を伝えられたと思ってるの? それを葵上のせいで浮気するって言うのはスジが悪い。

ここ、どうなんですかねぇ。光源氏の性格の悪さがよく表現されているとも思うし、この時代には女の心は尊重に値しなかったということなのかとも思います。

で、このあとが奮ってる。「これといってダメなとこもないし、最初の女だし、大事に思ってはいるんだ。最後にはきっと分かってくれるさ」。このことは他の女への態度とは違っている、とあります。

う~む。正妻に夢を持ちすぎているのではないでしょうか。妥当なセンを知らない、ほどよい加減を知らないところが、家族に対しては不器用な男の描写なんでしょうか。甘えかたを知らない男は、しょうがないのかなあ。裏切りながら愛されて満たされたい。怖いのは、こういうことって、意外と身近なところにありそうってとこです。仕事とかね。

光源氏が葵上を大事に思ってる、というのが何なのか、ここまでの時点では読者に伝わってこない気がするんです。左大臣家を興味は無いながらも大事にしてるのかな、というのは通ってくるところから察することができるのですけど。葵上のことも大事なんですかねえ。

大事だ、って言ってるだけの口先だけの男なのでしょうか。そういう読みもあるでしょう。言い訳が、心の平和のために必要な場合もありますよ。相手に満足はしてもらえないけど、どうでもいいと思ってる訳ではない、そんなモヤモヤのなかにいるひとは、そう読めば癒されるかもしれません。アリだと思います。

あるいは、大事だと思ってはいても、尊重のしかたを知らない。大事だと思う気持ちが伝えられない。ほかには、彼が大事だと思ってすることは、葵上には受け取れない。生活苦があって、光源氏と付き合えばそれを回避できる、という程の格差があれば、その辺はうやむやにできそうなんですけど。

まさか「この私が心に思い浮かべ1つしかない身体を携えて会いに行く、これ即ち好意である」ということなんでしょうか。光源氏の恋愛観というものが、なかなか了解しにくいんですが、今回は「なんか違うけど、そういうものだ」ということで先に進みます。

さて。正月が来ました。新年の挨拶の一環で、光源氏は左大臣邸にも来ました。葵上は、二条の女のことを「ただ通えばいいのに、わざわざ二条の家で暮らさせるなんて、そっちの女こそが大事なんでしょ」と思って冷たい態度です。光源氏は、あっちはまだ恋じゃないし性愛もないのですが、さらってきたから事情も説明できず、誤解を解くことはしません。その代わり、愛嬌たっぷりに、じゃれつきます。

「ねぇ、新年になったし、心機一転、仲良し夫婦みたいになってよぉ」と甘えます。そういう態度を見ると、葵上もなんだか笑ってしまうのです。いただきました、笑顔!

ここで、紫式部先生からの解説が入ります。彼らは身分の高さを自認するがゆえに互いに歩み寄るのが困難であった、と。

■出家。わかりみ、無くもない。

外出自粛の今日この頃、行動範囲は狭めで半年近くになります。いつも同じ環境で特定のひととばっかり過ごしていると、無自覚なフラストレーションや疲労感が溜まってきます。

この感じ、いつもよりは平安の都と近いんじゃないかなあ、なんてことを思います。そんな環境で、知りたくもない夫の噂話なんかも耳に入るだろうし、周囲が変な評論家みたいに言うことも聞こえてくるだろうし、女によっちゃぁ家のプレッシャーもあるだろうし、ほんと病みそうです。

たまさかの鮮やかな喜びがどす黒い苦悩に浮かび上がる世界をうっちゃって、死んでもいいくらいの快感とは無縁でも苦しまなくていい世界に、出家して行けるんなら行きたくなりそうですよ。まあ、出家したことないのに出家したら人生変わるって思いこんでるのが、謎ではあるんですが。でも、現世のどこかにラクに生きていける設定がある、って確信できたら癒されるし嘘かもしれなくても自棄にならないで生きていける。

まあ葵上は現大臣の娘で一生実家暮らしのひとだから、もし長生きしても当面は出家までは夢見ないかもしれませんけど。

【花宴】

朧月夜と出会ったあとに、光源氏は左大臣邸を訪ねます。葵上はなかなか顔を見せてくれません。このときは結局逢えたのかどうか分かりません。

■妊娠したって、ほんとうでしょうか?

そして、このあと書かれないうちに御代替わりがあり、葵の巻に続きます。葵の巻になったら、妊娠しています。

疎遠に偏りながらも正式な夫婦の関係は続いていた。ん~、そういうケースもあるんでしょうけど、

「正妻ったって、親同士が勝手にハナシ決めちゃって互いに惚れたとかじゃないから。ロクジョウ先生、俺に大人の濃密な恋を教えてよ」とか口説かれて拒みきれなくて愛人になったレディのように、

「えっ……、光様の奥様がご懐妊……? ソレ、光様のお胤で間違いないの? だって、夫婦なんてたかが契約で、恋心なんかそこには無いって言ってたじゃない、だからあたし……。男を見る目が無かったのかな、でも、あんないい男、ほかにいないじゃない」とか思って全然腑に落ちないんですけど。あ、

ここは本文に書かれてなくて、わたしの妄想です。どちらかといえば、ロクジョウ寄りの気分で、葵上の妊娠を知ります。そう思って読むから、葵上が死んだときに心が余計に動きます。紫式部先生、おそるべし。

■次回予告

この地味な夫婦はよく解らない。わからなさのポイントは彼らの結婚のスタイルにある、という見立てで次回は書きます。◯◯◯◯◯◯な2人。

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