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#24 宗教画を見るみたいにライブを見るクセがついてしまった

 PK の再思三考大阪BIG CATのライブレポと見せかけて持論をつらつら書き付ける。いや、ライブレポでもあるかもしれない。いやほぼ違う。

 最初に述べておくと好きなアーティストをすぐ「〇〇は私の宗教」と表現する人は苦手である。ただ、今回はバンドのライブを見た時に感動しすぎて訳わからんくなるプロセスが宗教画を見たときのそれと酷似しているのではないかと思ったので、こういう文章を書いたまでだ。


『聖マタイの召命』

 PKはいつもカッコいいが、たまに段違いにカッコいい時があって、そういうライブの夜間通用口のイントロ、S区宗教音楽公論を浴びた時の感情は、キリスト教の信者が国境を越えイタリアのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会へ赴きカラヴァッジョの聖マタイ三部作を見た時の感情にもしかして似てるのではないか、なんてことを私は考えている。いや、聖母マリアの絵の方が正しいかもしれない。


『ロレートの聖母』

 本を読むまで知らなかったが、『聖マタイの召命』において、マタイがどの人物か定かではないらしい。私は左端の下を向いてる青年以外ありえへんやろ!と思っていたので、そこに議論の余地があることに驚いた。その隣の隣にいる髭を生やして👈ってやってるおじいちゃんがマタイ説と対立しているらしい。なんならそっちの説の方が有力らしい。まじかよ、左端のイケメンがマタイであって欲しすぎる。

 話を戻そう。いや、戻すも何もはじめていなかった。

 コロナ禍を経て、バンドのライブを宗教画のように見るクセがついてしまったな、と漠然と思う。具体的には説明できないので、その説明を今回試みてみる。

 ライブの鑑賞環境が1番美術館に近かった時期がコロナ禍だ。コロナ禍は声出し禁止で、周りの人とも一定間隔の距離があった。客の声出しが禁止なので、アーティスト側もあんまり客を煽るようなMCはしない。美術館で絵画を見るときも同じだ。美術館で大きな声を出せば周りの来場者に白い目で見られるし、ソールドアウトしたライブハウスほど人がギチギチの状態で絵を見ることは無いし、絵が「やれんのか武道館!!」みたいに煽ってくることは無い。
 このように考えると、美術館では作品と自分との間に一定の距離というか、余白があり、その余白の中で鑑賞者は作品について自由に思いを巡らすことができる、と言えるのではないだろうか。そして、余白の多い鑑賞環境は何の考えもなしにただただ作品を観ているだけでは面白く無い。楽しむためには鑑賞者自身に予備知識や展示品・展覧会に対する読解力、鋭い感性が必要になってくる。

 こうした美術館的鑑賞環境で行われるライブでは、今までモッシュやダイブに使われていた体力は音を聴くこと、またその解釈に全て使われる。アーティスト側が「やれんのか武道館!!」だの「セイッウォーオ!」「ジャンプ!ジャンプ!」だのをやる事も無いのでアーティストに乗っかっていれば勝手に楽しめる訳では無く、アーティストから与えられた聴覚・視覚情報をどう楽しむかは全て自分にかかっている、余白を何で埋めるかは客自身に委ねられているのだ。

 多くの人がこの状況下でのライブでもどかしい思いをして色々な制約を我慢して受け入れている中、私は偶然余白を楽しめる人間だった。余白ではアーティストを前に自分の世界を自由に広げることができる。しかし、これが危険なのだ。自分の世界を自由に広げられるとはつまり、自分の世界を如何様にも拗らせられるのだ。その結果、ライブが宗教画と化してしまった。

 モネの睡蓮の連作や、フェルメールの真珠の耳飾りの少女ではダメなのだ。あれは宗教画では無い。私はライブが宗教画たるに必要な条件は3つあると考える。1つ目は当然ながらそのアーティストを好きで複数回ライブに行っていること。2つ目はライブの美術館的鑑賞環境の確保。3つ目は現実とは別で完全なライブが自分の中に存在していることだ。

 1つ目は言うまでもない事なのでこれ以上書かない。2つ目も先ほど粗方述べた。
 3つ目について何を言っているのかという話になる。「ライブの偶像崇拝」とでも言おうか。
 コロナ前の暴れ回るような聴き方では、ライブの偶像を作り出せるほど音を聴いていなければステージも見ていないので、崇拝はおろか偶像すら自分の中に見出せない。ただ「◯◯のライブは楽しい!」「〇〇のライブ最高!」という感覚が漠然と残るだけである。そうではなく、美術館的鑑賞環境で発生した「余白」でライブに対する自分の感情を巡り巡らせ、自分の世界を拗らせているうちに、知らぬ間にそれはそれは豪勢なライブの偶像を作り上げているのだ。自分だけの完璧な〇〇のライブだ。それは過去のライブのいい所だけを集めたようなライブになると思う。
 ただ単にライブの偶像を作り上げるだけなら"ライブの宗教画化"にはならない。"ライブの絵画化"でいいのだ。問題はここから信仰に繋がるところである。

 一旦ライブから宗教画に話を戻したい。冒頭に紹介したカラヴァッジョは16世紀の画家で、宗教画を写実的に、しかも登場する人物の服装をキリスト教が発生した時代の服装では無く16世紀の当時の服装で描いたり、聖母マリアの絵に農民を登場させたりと、聖書の内容という高尚なものを一般市民に身近なレベルまで落として描いた画家だ。それまでの宗教画はキリストが超能力を使って奇跡を起こす、みたいなものが多かった。そういった絵画は聖書の物語の高尚さを伝えるには十分だし、神及びキリストの凄さが分かりやすい。だが、カラヴァッジョはそういった超能力的奇跡は描かない。彼はあくまで信者に身近なものとして聖書の内容を描き、信者はその絵を見てまるで自分の身に聖書のドラマが起こってるみたいだという感覚になり、自分の心の中でキリストの導きに気づくような内面的な奇跡を体験し、感動してより信仰を深めるのだ。(一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》宮下規久朗著 参照)

 何が言いたいかというと、良いライブもカラヴァッジョの絵と似たようなものである。丁寧に作られた偶像より素晴らしいライブを浴びた時に、曲の核心に、救世主の導きに触れているような内面的奇跡を体験して、バンドに対する信仰をより深めるのだ。

 これが宗教画を見るみたいにライブを見る、という事の結論だ。宗教画の中でもカラヴァッジョに絞った方が的を得た回答かもしれない。

 


 そして私はこんなめんどくせぇライブの聴き方をするようになってしまった、というワケ。最悪。いや、最高かも。この前のPKビッキャの夜間イントロとS区は最初に述べた通り、キリスト教の信者がカラヴァッジョの絵を見たらこんな感情になるのかなってくらい感動した。最後には救われる、救世主は実在するみたいな感覚が急に降ってくるというか、曲の核心に触れているような全能感とこんな凄いバンドの事を理解出来る訳がないという無力感が同時にくるというか。

 でも最近は、美術館的鑑賞環境を確保するのがだんだん厳しくなっているため、宗教画みたいにライブを見ること自体難しくなっている。
 コロナ禍はもう明けたので、どのアーティストも「やれんのか武道館!」「セイッウォーオ!」「ジャンプ!ジャンプ!」みたいなのをやるようになってしまったし、ライブハウスはフルキャパで使われて隣の人とも満員電車くらいギチギチだ。絵画は鑑賞者に喋りかけてこないから、バンドから煽りがあると私は「しまった、これはバンドのライブであって宗教画鑑賞ではなかった…」となるのである。あまり神秘的な宗教性をバンドに見出しすぎるのは良くない。猛省します。

 今回参考にさせていただいた宮下規久朗先生の《聖マタイの召命》は、高卒で学のない自分でも非常に読みやすく、だからと言って内容が薄い訳でも無く、死ぬまでに絶対本物見たい〜!!!となったので気になる方は是非ご一読ください。

以上!

 どんなにグチャグチャでキショくて読みづらくて誤字脱字ばっかでも、定期的に文章を書かないとものすごいスピードでアホになるなと思ったので、定期的にライブレポなりなんなりを書くようにします。もし良ければ読んでください…。

PK様、名古屋東京楽しみにしていますよぉ。

 ご拝読アザシタアアアアアアアアア

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