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宮部継潤の年齢の話(+その他)


歴史群像10月号(9月4日発売号)に、「鳥取城×宮部継潤」載ってます。大久保ヤマト先生(@mousou_roku)の挿絵がね、今回もかっこいいんですよ……。

「叩き上げのベテラン前線指揮官」のイメージでイラストをお願いさせて頂いたのですが、最高です! 渋い、力強い、頼もしい、でも、叡山出身のインテリらしい知性も感じさせる……これぞ日本無双の荒法師! ワイはこういう継潤が見たかったんや!

・法衣ではなく具足を着こんでいるのも、「山法師強訴図」みたいでカッコいいですよね。

・そんなわけで、イラストだけでも一見の価値があるので、ぜひご覧ください。

・以下、コラムでは書き漏らした、継潤についてのちょっとした情報なんかを。

名前の話

・継潤は、一般的に「善祥坊継潤」という法名で知られます(『信長公記』など)。ただ、本人の署名(『竹生島奉加帳』、『宮部継潤安堵状』)や、秀吉からの書状(石見亀井家文書)の宛名などでは「善浄坊」となっており、表記としては恐らくこちらが正しいと思われます。

・その他の表記としては、鳥取で戦った吉川経家の書状では「善乗坊」、軍記物『浅井三代記』では「世上坊」となっています。……「ぜんじょうぼう」と「せじょうぼう」では遠すぎる気もするけど、「ちょうそかべ」と「ちょうすがめ」のように、地方の発音によってはそう聞こえた可能性も……? いや、それは考え過ぎか。

・名前の話といえば、継潤の跡を継いだ、甥の宮部長についても、一般的には「煕」という表記ですが、『早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書〈下〉』所収の宮部文書では、

煕

と翻刻されていました(↑JISコード外の漢字だったので、自分で画像加工しました)。

・実際の署名についてですが、図録『因幡×豊臣 豊臣政権と因幡の大名』(鳥取市歴史博物館)には、少し大きめの写真で「宮部長熙自筆起請文前書」の原本が掲載されており、「宮部兵部少輔長熙」という署名部分も確認することができます(写真を貼ろうかとも思ったのですが、有料の図録なので自重。鳥取市歴史博物館の図録は、在庫があるものに関しては郵送販売や公式ネットショップで買えるので、気になる方は各自でご確認下さい)。


・僕は、古文書については素人なので、実際の書状の写真を見ても、ちょっと判別はつかないのですが、たしかに、「熙」と違って「冫(にすい)」っぽい部分があるように見えます。漢字規格の関係で、便宜的に「熙」という字が当てられているのかもしれませんね(似た字で「凞」ならあるんですが)。

・こんな話ばっかり続くんですけど、大丈夫? 需要ある?

享年の話①

・本題はこれ。これだけが言いたくてnote書いた。興味のない人にはどうでもいいような、細かい上に不確かな話です。

・宮部継潤が没したのは、慶長四年三月(『参考諸家系図』『大日本野史』)もしくは閏三月(『浅井家過去帳』)二十五日と伝わります。享年については、「72歳」「64歳」の二説があります。

・恐らく、一般的に知られているのは「72歳」説の方でしょう。しかしながら、こちらの説、流布している割にどうにも、出典がよくわからない。

・で、ここからは、僕が観測範囲で調べただけのことなので、<独自研究><要出典>ぐらいのノリで、話半分で聞いて頂きたいのですが、どうもこの説の初出、『大日本人名辞書』(経済雑誌社)、明治29年(1896年)刊行の第三版ではないかと。

・興味のある方は、国会図書館デジタルコレクション(旧・近代デジタルライブラリー)で公開されているので、確認して頂きたいのですが、この『大日本人名辞書』、明治24年(1891年)刊行の第二版では、宮部継潤の項に没年の記述はなかったのですが、第三版になってからいきなり「年七十二」と加筆されているんですよね。

・項目の参考文献には『野史』(大日本野史)が挙げられていますが、こちらには享年の記述はなし。編纂当時、なにか根拠となる情報元があったのかもしれませんが、真相は藪の中……。


・この明治29年の『大日本人名辞書』の記述が、昭和10年の『類聚伝記大日本史』(雄山閣)、昭和12年の『新撰大人名辞典』(平凡社)あたりに引き継がれ、さらに、戦国史研究の泰斗である故・桑田忠親氏の著作(『太閤の家臣団』など)でも採用されたことで、享年72という説が定着したのではないかと、個人的には疑っております。

・とにかく、「一般に流布しているわりに、典拠がはっきりしない」のが「72歳」説の問題です。

享年の話②

・さて、もう一方の、「64歳」説ですが、こちらは典拠がはっきりしています。延宝1 (1673) 年頃成立したとされる、山鹿素行の『武家事紀』です。

・しかし、『武家事紀』は『武家事紀』で、比較的、継潤の時代に近い書物とはいえ、信憑性が高いとされる史料ではないので、「典拠がわかっているから、こっちが妥当」とするのは、いささか、ためらわれます。

・そもそも、『武家事紀』は継潤が死んだ年を、「慶長二年」と誤記している時点で、なんかもう全然信用できない感じが……。


・ただ、こちらの説であれば、九州攻めが50歳、養子(甥)の長熙に家督を譲るのが55歳となります。

・九州攻め58歳、家督譲渡63歳の「72歳説」よりは、多少、世代的に不自然さが少ない気もしなくはないです(とはいえ、蜂須賀小六も60歳で四国征伐、同年に隠居なので、72歳説のような変遷も、有り得ないとまでは言えないのでしょうが)。

・以上のように、現状では、どちらが有力とも言い難い状況です。戦国武将の年齢が分からないというのは、割とよくある話ではあるのですが、特に宮部氏の場合は、継潤の死後に改易されたり、子孫の屋敷が火事に遭って多くの文書が焼失したりといった事情もあるので……。

・一応、コラム内では両説併記、大久保先生のイラストは72歳説(鳥取攻め時、52歳)でお願いしています。

家紋の話

・『中務卿法印宮部善浄坊継潤公』(宮部史談会)の裏表紙には、「丸に菱橘」「五七桐」の二つの家紋が掲載されており、前者は「宮部氏系に傳わる」後者は「御霊神社の神紋」と、それぞれキャプションが添えられています。

・「丸に菱橘」の具体的な出典は、僕の方では未確認ですが、宮部氏の子孫・縁者の間で現在も用いられているのかもしれませんね。宮部長熙の葬られた盛岡の光台寺にも残っていたりするのでしょうか。

・兵庫県豊岡市の御霊神社は、旧領主であった継潤の遺徳を偲び、祭神として祀っています。そして「五七桐」といえば豊臣家。継潤が秀吉から桐紋を下賜されていたかは不明ですが、五万余石の小大名とはいえ、秀吉幕下における戦歴の古さや、奉行衆としての功績を考えれば、あり得ない話ではないのかも。

・ただし、『参考諸家系図』の、盛岡藩士・多賀氏(継潤・長熙の家系)の項には、菱橘でも五七桐でもなく「紋丸内橘 後菱内一蔦」とあります。盛岡藩南部家の公的な史料ですので、少なくとも江戸後期においては、「丸に橘」と「菱に蔦」が多賀(宮部)氏の紋であったようです。継潤の時代においても同様であったかはわかりませんが。

・ちなみに、『参考~』によれば、継潤の弟・宮部(薬師寺)伝右衛門長政の家系は「側(傍)折敷」の紋を用いたとのことです。



以下、さらなる無駄話(有料)

『浅井三代記』『真書太閤記』内の継潤について、考察ですらない、個人的な妄想を書きました。文字数は多いですが、実のある話はまったくないので、100円を払って他人の妄想を見たいという酔狂な方だけご購入下さい。

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