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伊東祐兵についての余談

歴史群像6月号(5月6日発売号)に、連載コラム「日本100名城と武将たち」第26回、「飫肥城×城主・伊東祐兵」載っています。よろしくお願いします。

・このnoteでは、コラム本編には入りきらなかった、いくつかの余談を紹介させて頂こうかと思います。

◆阿虎を奪おうとしたのは誰?

・コラムでも扱った、
「大友家で、伊東祐兵を殺害し、妻の阿虎を奪おうという企てがあった」
「企てを知った祐兵は阿虎を連れ出し、伊予へ出奔した」

というエピソードですが、そもそもこの企てを実行しようとしたのは誰なのか。

・書籍やネット記事などでは、大友宗麟や、息子の義統の所業だと説明されていることが多いです。しかし、逸話の出典元である『日向記』では、単に「大友家」とあるだけで、人物の確定はできませんし、宗麟でも義統でもなく大友家臣ということもあり得ます。

・『河崎私記(清武川﨑家譜)』は「大友一類(一族・一門)に好色の侍がいて、祐兵の殺害と阿虎奪取を企んだ」とあります(「大友一類ニ好色ノ侍有之、松壽院様ヲ取奉、祐兵公ヲハ切害之企有之由」)。
また、『日向記』の異本(校合本)では、「阿虎を、義統の嫡子・大友義乗の妻とするために、このような企てをした」との記述が。

・いずれにしても、誰が計画の主体だったのか、具体的な名前はわかりません。

・実際問題として、耳川の戦い(高城合戦)の大敗により、大友家中が動揺している中で、宗麟も義統も色欲にうつつを抜かしている暇はないんじゃないかとか、いくら宗麟が好色(というイメージが後世、流布している)としても、自分の姪の娘15歳は、当時としても流石にどうだろう? 祐兵から奪って側室にしようなどと思うだろうか?

・そんなあたりから、読者にとってリアリティを感じやすいラインであろう、「企てたのは大友家臣」「島津家への寝返りのため」という推測を提示しつつ、コラム中ではあくまで、祐兵の個人的な想像として断言はしない……というバランスにしてみましたが、いかがでしょうか。

・まあ、これを言ってしまっては元も子もないですけど、『日向記』の記述自体が創作という可能性もあるので……その辺りを踏まえてお楽しみ頂ければ幸いです。

◆三部快永と伊東掃部助①

・山伏・三部快永(三峰、三部坊)と、羽柴家臣・伊東掃部助の出会いも、コラムでは省略せざるを得ませんでしたが、この逸話について、『日向記』『河崎私記』の記述を元に、僕なりに以下にまとめてみました。

 山伏・三部快永は、伊東家重臣・川崎駿河守(祐長)の依頼により、熊野修験の聖地である大和大峰山で、伊東家のために護摩祈祷を行っていた。
 快永は、生国は越前(下野とも)だが、かつて日向で、伊東義祐の庇護を受けていた。このときの恩から、伊東氏が国を追われてからも、その流浪にも同行していたのだった。
 そんな快永が、あるとき、姫路に立ち寄ることがあった。
 当時の姫路は、織田家の宿老にして、中国方面軍司令官である、羽柴秀吉の居城だった。快永は普請の様子などを見物したのち、城下の武家屋敷で斎料(御布施・施し)を乞うことにした。
 門前の快永に、侍は尋ねる
「御坊は、いずかたの衆であろうか」
 快永は答える。
「九州は日向の者にござる」
 すると侍は、「日向の者ならば、尋ねたきことがござるゆえ、屋敷の内へ参られよ。拙者は、伊東掃部助という者だ」と言った。
 快永は戸惑ったが、言われるままに招かれた。
「伝え聞くとことによれば、日向のイトウ殿は没落し、牢人していると聞く。御坊が日向の者なら、子細を存じぬか」
「御意の通り、伊東三位入道義祐殿、御子息・六郎五郎祐兵殿は、島津に国を追われ、今は四国において、河野殿の領地に退いておられます」

 快永は、自分もその流浪に付き従ったこと、伊東家のために大峰山で祈祷を行ったこと、いまはその帰路であることなどを物語った。
 すると掃部助は、
「ときに、イトウ殿のトウの字は、藤という字だろうか」
「いえ、伊東の字は東でございます」
「それならば、拙者と同族であるはずだ。よろしければ、秀吉様に出仕されてはいかがか。伊東殿はまだお若いということでもあるし、もしその気があらば、十分に身が立つように、拙者が取り成しをいたそうぞ」

 この掃部助の申し出を受けて、快永は急ぎ伊予へ戻って祐兵に伝えた。

・伊東掃部助(祐時)は、尾張出身とも美濃出身とも言われる、秀吉の古参の家臣で、『武家事紀』によれば、加藤光泰、神子田正治と共に、側近である「腰母衣衆」に列せられたとされます。

・掃部助としては、日向伊東氏の関係者である快永に偶然にも出会ったことに、同族を自認していただけに、なにか運命めいたもを感じたのかもしれません。

・その後、祐兵はこの仕官話を知らされますが、伊予は人心の良い国であったため、離れがたき思いもあり、なかなか出国を決断できず、快永の強い勧めでようやく腰を上げた……ということが、『日向記』には書かれていますが、個人的には、彼の逡巡には、ほかにも理由はあったのではないかと思うのです。

・成り上がりの、氏素性も知れないような伊東掃部助が、紛れもない名門の末裔である祐兵に、「同族のよしみでござる」などと善意のつもりで言ってくることも、また、やはり成り上がり者であり、織田家の家臣に過ぎない秀吉に「召し抱えて下さい」などと縋らねばならないことも、祐兵にとって、強い屈辱であったのではないでしょうか。

・しかしながら、このまま伊予にいたところで、将来の展望などありはしない。それに比べれば、勢いのある織田家の中国方面軍に加わり、槍先によって所領を稼ぎ出せるかもしれないこの好機は、若い祐兵にとって、屈辱に耐えてでも選ぶ価値があったのでしょう。

・その後の祐兵の立身は、コラムの通り。秀吉に拝謁した時点では、まさか、日向に再び返り咲けるなど考えていなかったと思いますが、人の世の巡り合わせとはわからないものです。

・ちなみに、山崎の合戦の武功により、祐兵が秀吉から賜った槍については、『日向記』には金坊(房)左衛門尉政則、『寛政譜』には金房兵衛尉政次とありますが、後者が正しいようです(昭和2年の宮崎県史蹟調査録『宮崎県史蹟調査: 南那珂郡之部 第6輯』による)。

◆三部快永と伊東掃部助②

・快永は、祐兵の大名復帰後、飫肥城下に愛宕山祐光寺を開基し、文禄元年(一五九二)まで生きました。現在も、同地に墓が残っているとのことです(ただし、祐光寺は明治4年に廃寺。廃仏毀釈の影響か)。
参考:「日本歴史地名大系46 宮崎県の地名」(平凡社)461p 楠原村の項

・一方、掃部助はどうなったか。

・山崎の戦い~清須会議以降、掃部助は羽柴家の吏僚として、大和国の行政などに関与していきます(参考:小竹文生『豊臣政権と筒井氏 ――「大和取次」伊藤掃部助を中心として――』)。

・大和の大名・筒井氏が伊賀へ転封となり、代わって秀吉の弟・秀長が大和に入国すると、掃部助も秀長の与力(あるいは家臣)となり、大和宇陀郡の支配を任され、宇陀松山城の城主となりました(こちらも続日本100名城の一つです)。大出世とまではいかないものの、実務能力と実績を評価され、堅実に立身したといえるでしょう。

・しかし、天正十四年、前年の紀州攻めの残党が、熊野で大規模な一揆を起こしたことを受け、掃部助は秀長に従い鎮圧のために出陣。この戦で、彼は討死してしまいました。

・ほんの少し、歯車が違えば、豊臣大名として諸侯に列していたのは伊東掃部助で、伊東祐兵こそ浪々の果てに没落していてもおかしくなかったはずです。両者の明暗には、縁や運命というものの奇妙さを感じずにはいられません。

・掃部助の家督は嫡子・信直が継ぎ、掃部助伊東家は引き続き豊臣家臣として続きますが、大和宇陀郡の支配は加藤光泰に任されます。

・当時、信直が何歳だったかはわかりませんが、おそらくは年齢や経験の不足により、亡父の代わりは務まらないと見なされ、出世コースから外れてしまったのではないでしょうか。

・江戸期以降は、信直は徳川家の旗本として2500石を食みます。しかし、次代・治時(金森氏からの養子)が、朋輩の別所孫次郎と酒席で喧嘩となり、別所家の家臣に斬り殺されてしまいます(『断家譜』)。

・事件については『東武実録』に詳しいですが、詳しく引用していると長くなりすぎるのでざっくり言うと、

伊東治時(掃部助)桑山一直が、別所孫次郎邸に招かれ、酒宴に。
・別所が酔った勢いで、「松倉豊後守は大坂の陣の軍功で加増されたらしいの。あやつの如き臆病者が四万石なら、我らのような勇士は十万石でもなお不足というもの」と馬鹿にする。
・松倉と友人だった伊東、この悪口を咎める。「孫次郎よ、わしと松倉殿が友と知りながら、左様なことを申すは無体というもの。今日のところは、一座の狂言として聞き捨ててやるが、重ねて同じ事を申さば堪忍せぬぞ」
・別所、煽る。「ほう、あの臆病第一の松倉が友とは、掃部助の志のほども知れたわ。類は友を呼ぶという言葉の通り、お主も松倉と同じ臆病者に相違ない」
・怒った伊東、扇子で別所の頭を打つ。別所もキレて、脇差を抜いて治時に突きかかる。
・桑山が両者の間に入って止めるも、酌をしていた別所の小姓が、短刀を抜いて治時に斬りつける。さらに、騒ぎを聞きつけた別所の息子(孫之丞)と家臣たちも乱入し、伊東を斬殺(桑山も右手の指を負傷)。
・幕府の裁定の結果、別所孫次郎は切腹。別所・伊東両家とも子息追放、改易。桑山は一時謹慎ののち許される。

・別所孫次郎の振る舞いがひどすぎて、伊東治時は被害者のようにも見えますが、彼も手を出してしまったのは事実ですし、江戸初期はまだ中世以来の「喧嘩両成敗」の慣習が強い時代ですから、両家改易はやむを得なかったでしょう。

・ただ、喧嘩のきっかけが、友を侮辱されたことというあたり、初代・掃部助祐時以来の、義侠心の強い家風を感じるというのは、考えすぎでしょうか。

・なんか後半は祐兵ではなく掃部助の話ばかりになってしまいましたが、ともあれ、切りがないので一旦終わります。

・他にも、「伊東義祐の最期」「伊東義賢・祐勝兄弟の死」「稲津掃部助の乱」とか、祐兵周辺で紹介出来なかった逸話もありますが、こちらは機会があれば、またいずれどこかで。

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