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統万城遺跡と緑化活動~過去と対話し、未来の緑を想像する by 村松弘一(GEN世話人)

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 黄土高原に白い城壁の残る「統万城」と呼ばれる1500年前の都市遺跡があります。匈奴の民がこの都市を築いた時、そこが沙漠だったのか、草原だったのか、森林だったのか議論はつきません。そして、ここにもGENと同じように緑化に取り組んだ人々がいました。
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 黄土高原の西北辺、陝西省北部に無定河が流れている(地図参照)。

「無定河」という名称は定まっていない河の意味で、河の流れが激しくて河道が定まらないとか、河の水量が多かったり少なかったりするので定まっていないなど、諸説あります。無定河の上流に白い城壁都市、統万城があります。5世紀、三国時代のあと、北方の草原地帯にいた遊牧民が一斉に南下し、華北に次々と国家を建設しました。五胡十六国時代です。大夏という国を建てた匈奴の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)という人物が築いた都市が統万城です。東西二つの城壁で囲まれていて、四周3.5kmあまり、面積はおよそ70万㎡なので、東京ドーム15個分の大きさにあたります。石灰と土と粘土を混ぜて城壁が作られているので、城壁全体が白い色をしています。まさに、黄色い大地のなかの白い城です。

 私はこれまで2回統万城を訪れたことがあります。最初は今から27年前の1996年8月、陝西歴史博物館主催の黄土高原西北路調査で訪れました。灼熱の太陽のなか、白い城壁に登ったことを思い出します(写真①左)。

周囲はまさに黄色い大地、すぐ北には毛烏蘇(ムウス)沙漠がせまっていて、周囲の黄土高原は沙漠化が進行していたそういう時期でした。GENが大同で活動を始めて数年経ったころですね。

 2回目は2007年の12月、その日は黄土高原に雪が積もっていました。白い城と言っても雪に比べると黄色い(写真①右)。その頃、統万城は遊牧と農耕の間に位置する重要な遺跡として、黄土高原の環境史研究で注目の的となっていました。城壁の遺構の下から砂の層が発見されたので、もとから沙漠だった場所に建設されたのではないかという意見や、周辺遺跡の花粉分析から灌木が広がる土地だったのではないか、文献資料からは赫連勃勃がやって来た時は草原だったとか、さらに森林だったなど、国際シンポジウムも開催されました。それと並行して、陝西師範大学の歴史地理研究所が中心となって統万城で植林活動がすすめられたのもこの時期でした。GENの世話人の松永光平さんもこの活動に参加していました。

 それから16年あまり。いま、統万城の周辺はどうなっているのか、気になったので、試みにGoogleEarthで2002年6月(写真②)と2021年9月(写真③)の衛星写真を見比べてみました。2002年は統万城の東北や西南には流動砂漠がせまり、西城内には砂が侵入しています。2021年は東北や南側、西城内にも緑が広がってきていて、緑化の効果は一目瞭然です。さらに、最近のネットニュースで統万城が取り上げられていました。

「砂漠の中の「千年の白城」統万城遺跡 陝西省楡林市」(2022年9月)
https://www.afpbb.com/articles/-/3422716?pno=8&pid=3422716009
写真の撮り方もあるのかもしれませんが、これらの写真を見ると遺跡の側に木々が育ち、緑が広がっているように見えます。私のイメージする統万城とはずいぶんちがう風景が広がっています。

 過去と対話し、未来の緑を想像する。GENのこれまでの緑化活動も大同・蔚県の歴史とかかわるようにすすめられてきました。悠久の歴史をもつ中国での緑化活動は、やはり「歴史」や「遺跡」という文化コンテンツを活用することがコツなのかもしれません。


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