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黄土高原史話<27>何が幸いするのやら by 谷口義介

 このシリーズ、「黄土高原史話」と題しながら、日本の国土の1.5 倍、51 万7000 平方キロの全体は到底カバーできず。GEN の主たる活動領域、大同とその周辺をウロウロ迷走するばかり。本誌の性格上、<環境>を切り口にしていますが、それとて不徹底。
 ご高承どおりの駄文ながら、自分で思うに唯一筆が走ったのは、本誌100号の記念とて少し長めの紙幅が許された、第22 回「天下分け目の白登山」。なにせ、かの司馬遼も望んで果せなかった現地踏査の強みあり。もとより、血湧き肉躍るていの話は大好き。思わず知らず筆も躍ったという次第。その余勢は、前回の「よもや墓碑などあるまいが」にまで。
 そこでしつこく今回も。ただし主役は秦末劉項期の群雄に非ず、前漢に入ってからの二人の女性。名を薄姫(はくき)と竇姫(とうき)という。
 漢王元年(B.C.206)、戦国魏の王族の出の魏豹なる者、立って魏王となりますが、漢は「国士無双」と謳(うた)われた韓信(韓王信とは別人、股くぐりと背水の陣で有名)を遣(や)って、これを撃滅。稀代のスキモノ劉邦は、魏の宮中にいた薄姫に目をつけて後宮に入れますが、他に美女は数多(あまた)あり、1 年ばかり手をつけず。ところでその昔、彼女は魏の後宮で管夫人・趙子児と友達同士。「誰かが貴い身分になっても、お互い忘れないようにしましょうね」、と誓い合っておりました。先に劉邦の寵愛を得ていたこの2 人、薄姫との約束を思い出し、笑い話にしたところ、それを聞いた劉邦、そぞろ憐れをもよおして、一夜薄姫を幸(こう)します。かくして生まれたのが、四男の劉恒。
 漢の12 年(B.C.195)、高祖劉邦は、恒を立てて代王とし、晋陽(山西省太原の南)に都させました。一説に中都(山西省平遥の西北)とありますが、いずれにしてもすぐ近く。前回述べたように、周勃(しゅうぼつ)が太原から入って代を平定した後を承(う)けてのこと。ただこの代国、雲中・雁門・代3 郡のうち代・雁門のみを領し、都も常山(恒山)より南に定めているのは、やや引いた感じ。「常山の北では遠すぎる」という高祖の意思から出たというのだが。同年、一代の英傑高祖劉邦崩御。後宮の姫妾たちは、皇后呂后のジェラシー(?)により、みな幽閉されますが、薄姫のみ高祖の寵愛うすきが幸いし、8 歳の劉恒とともに代国へ。
 竇姫はもともと呂后の侍女。人員整理の方針で、各地の王に5 人ずつ宮女を下賜することとなり、彼女もその対象に。「実家が近い趙国へ」と、係りの宦官(かんがん)に頼んだものの、この宦官ウッカリ忘れて、代国行きのメンバーに加えます。呂后の裁可も下ってしまい、否も応もありません。泣く泣く代へ行きました。ところが代王劉恒は、長安からやってきた払い下げの5 人のうち、彼女だけを寵愛し、男の子まで儲けます。
 B.C.180 年、権勢をふるった呂氏一族の誅滅後、大臣たちが協議して新皇帝に選んだのが、代王の劉恒。このとき24 歳です。仁孝寛厚の評判高く、母の生家薄氏の人々も性いたって勤良、というのが選出の理由。使者が代に向かい、劉恒は長安の未央宮(びおうきゅう)で位に即く。この人こそ、前漢中興の名君と称される文帝です。
 つまり、前半生の不幸から一転、薄姫は文帝の母となり、竇姫は文帝の皇后として次の景帝を産むなど、「貴い身分」を極めたわけ。竇姫の元同僚はともかくも、薄姫の方の老朋友(ラオポンヨウ)、さぞかし臍(ほぞ)を噛(か)んだことでしょう。
(緑の地球106号(2005年11月)掲載分)


 


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