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黄土高原史話<33>「大夫、勃然として色を作し」 by 谷口義介


 B.C.87年、武帝71歳で崩御。あとを嗣いだのは63歳のときできた末子で、即位時わずか8歳の昭帝。この少年皇帝を支えるべく遺嘱を受けたのが、二十年余そば近くに侍していた霍光・金日暺(きんじってい) ・上官桀の3人です。光は身長168センチと中肉で色白、日ていは容貌厳として体躯雄偉、桀は無双の怪力、と。
 天子の側近を内朝といい、皇帝と皇室を守るのが役目なので、武帝はこの3人に後事を託したわけ。ところが、昭帝即位して一年余、万事ひかえめだった日ていが病死してから、残る二人のあいだの雲行きが怪しくなる。光の娘が桀の息子に嫁ぎ、生れた女の子つまり共通の孫娘(8歳)が昭帝(12歳)の皇后に立てられる、という関係なのですが。
 一方で武帝は、漢にとっての懸案は外征による財政破綻の建て直し、と認識。そのころ卑賤とされていた商人出身で、長く経済官僚として専売制を実施、物価調整策をとってきた桑弘羊を御史大夫(副首相格)に昇進さす。ときの丞相は人は善いがボンクラ老人の田千秋、毒にも薬にもならぬとて、そのまま続投。丞相府・御史大夫府などを外朝と呼び、国家の運営に当ります。
 内朝と外朝は、いわば車の両輪。武帝としてはうまい人選をしたつもりが、昭帝即位早々に両者の確執が激しくなる。権力争いも絡みますが、表立っては政策論争。B.C.81年2月、宮中で、世にいう塩鉄会議が開かれます。
 各地より有識者六十余人が推挙・参集、民間の疾苦するところを諮問され、現行の政策を廃止すべきか否か、当路の者と大激論。国家が民と利を争う塩・鉄の専売などもっての外、という民間業者の意向を受けての発言です。これに対し、有司を代表して出席したのは桑弘羊、みずから立案施行してきた財政政策の継続を主張するが、有識者の方も執拗に反論、いくたびか御史大夫を激怒さす。
 「大夫、勃然として色を作(な)し、黙して応(こた)へず。」(前漢・桓寛『塩鉄論』)
 しかして前者は一介の知識人、儒教的農本主義の信念ありとはいえ、実質首相たる権力者にかくも堂々と意見を述べれるものなのか。実はその背後に内朝の実力者霍光が控えている、とみたのは郭沫若『塩鉄論読本』序文。さすが郭氏は読みが深い、単なる書斎の学者ではありません。
 すなわちこの会議、内朝の霍光が外朝の桑弘羊に仕掛けた奪権闘争にほかならず、第二次攻撃はその翌年起った燕王旦の謀反事件。これに連座したかどで、桑弘羊・上官桀らは粛清される。霍光かくして全権を掌握、B.C.68年に死するまで、揺るがぬ地位を保ちます。しかしその2年あと、霍氏に帝位を奪う意図ありと、一族皆殺しの運命に。
 ところで、塩鉄会議そのものの結果はどうなったか。廃止されたのは酒の専売制だけ、他には全く手がつけられず。塩・鉄の官営化は手っ取り早く国家の財源を確保する方法、誰がトップにすわろうとも、簡単には手放せなかったのでありましょう。しかして、袁清林(久保卓哉訳)『中国の環境保護とその歴史』にいう。
 「国家が統一的に山海園池を管理する政策は、生物資源が破壊されることを防ぎ、乱伐、乱獲の抜け穴を塞ぐことになって、環境保護には有効な政策であった。」(318ページ)
(緑の地球113号2007年1月掲載)

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