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黄土高原史話<28>「墳を築かず、山川を損なわず」 by 谷口義介

 私事ながら40 まで考古学の現場工作者をしていたので、よく「穴掘り」と言われたことが。10 年ほど前、上海である人から専門を問われ、面倒くさいので「考古学カオグウシユエ」と答えたら、「ああ、墓掘り」と納得した様子。もちろん祖先を大切にする中国のこととて、墓掘りに好いイメージはありません。
 その中国、学術的な考古調査の成果は世界を瞠目させていますが、一方で「カネが欲しけりゃ、墓を掘れ」とばかり、いまや空前の盗掘ブーム。最近数年間で10 万件を超え、被害に遭った古墓は王墓クラスを含め20 万箇所とか。盗掘品の大半が海外に流れるため、「文物輸出大国」という汚名すら。
 黄土高原の南東部に位置する河南省三門峡市に、西周~春秋期の諸侯の墓地32 万平方メートル、大・小800 基とも。盗掘に成功したのは、山西・河南連合チーム。目指す墓の近くに農薬生産名義で倉庫を建て、床下から10 メートルの竪穴と290 メートルの横穴を掘り、貴族墓3 基から青銅器や玉器など200 点を盗み出した。ただし分け前をめぐるトラブルから一網打尽、主犯2 人は死刑、と(「朝日」05 年1 月12 日夕刊)。
 王子今氏の『中国盗墓史ー一一種社会現象的文化考察―』はマジメな本ですが、発掘報告書より格段に面白い。
 秦の始皇帝の墓、いわゆる驪山陵(りざんりょう)。墳丘は、底部で東西345 ×南北350 メートル、現高76 メートル。その下に巨大な地下宮殿あり。『史記』秦始皇本紀によれば、あらかじめ機械仕掛けの弓矢をセット、盗掘者が財宝を狙って近づくと、発射するようにしておいた、と。さらに、父を埋葬した二世皇帝は、墓内の様子を知っている工匠は盗掘の可能性ありとして、中に閉じ込めて殺してしまった、と。
 しかし、北魏の書『水経注』に次なる記述あり。始皇帝の死後4 年目、
 「項羽、関に入りてこれ〔驪山陵〕を発あばき、三十万もて三十日物を運ぶも窮むる能わず」
 財宝は項羽の軍隊30 万人が30 日がかりで略奪しても、まだ運び切れなかった、というのです。
 ところで、前回述べた前漢屈指の名君文帝。B.C.157 年、未央宮で薨じますが、「厚葬は民の生活を苦しめるだけ」と、生前から自分の陵墓覇陵(はりょう)には墳丘を築かず、周囲の山川を損なってはならない、と下命。自然の丘陵の斜面を利用して、崖墓という横穴式の墓を造りました。
 ちなみに、前漢最大の皇帝陵は武帝の茂陵(もりょう)で、230 × 230 メートルの正方形、高さ46.5 メートル。前漢末の赤眉の乱のとき、賊によって略奪されますが、数十日かけて財宝の半分も持ち出せなかった、と。
 文帝の覇陵は、過去に盗掘されたという記録はありません。
(「緑の地球」107号 2006年1月掲載分)

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