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黄土高原史話<14>殷の都は洪水(?)で転々 by 谷口義介

 近い将来、水不足の深刻化で首都を北京から移転せざるをえない」とは、
さる中国政府首脳の談。北京の水源のひとつ山西省の桑干河は、いつ行って
も水無し川。
 華北大平原を潤してきた黄河も1972年、下流の山東省で史上初めて断流が観察されて以来、97年には13回にわたって水が途絶え、総日数226日、区間は河口より700km遡って河南省の開封にまで達しました。
 れより遥か数千年の昔、殷は河北・山東あたりから興りますが、始祖契(せつ)より拠点を八たび遷しつつ南行・西進し、王朝の創始者湯王が「亳」( はく) に都を構えてから(B.C.1600年頃)、また五遷して盤庚
(ばんこう)が「商」に都を定め、その地で紂王(ちゅうおう)が滅亡を迎
えます(B.C.1055年頃)。「亳」は河南省洛陽のすぐ東、「商」は河南・河北の省境に近い安陽。
 農耕民族だとその定着性からいって、よほどのことがない限り首都を移転することはありえませんが、殷が十数回も拠点を遷したのは、狩猟・牧畜生活の名残りか。しかし殷は甲骨文による占いの内容からみても、農耕に経済の基盤を置いています。頻繁な遷徙は、たびたび襲った大洪水と無関係ではないでしょう。
 ちなみに、長江流域でB.C.2900年頃より営まれた石家河遺跡は1000×1100mの規模を誇る巨大城郭都市ですが、B.C.2200年頃、突然滅亡。大洪水が原因とみられています。
 黄河の河曲部より東南といえば、名だたる洪水地帯。いく系統かの洪水神話も、ここに集中・重層しています。華北大平原に点在する古邑の名にやたら「○丘」「×邱」が多いのは、微高地・丘陵地を選んでその上に集落を営んだから。殷が黄河を北渡して安陽についの都を定めたのも、その地が氾濫
原から離れた太行山脈の東麓にあったからでは?
 実際、雨も多かったようです。甲骨文字が刻まれた安陽では、1年のうち雨の降らない月はなく、18日間続いた長雨の記録も。今日の安陽の年間降雨500mmが信じられないほどです。しかも2月・3月に「多雨」「大雨」の記事が多い。華北の畑作地帯にとっては、「油より貴重」な春の雨。今よりよほど降雨状況は良好だったらしい。
 もっとも、卜辞には求雨の文がみえ、女魃の説話や殷の湯王の祈雨儀礼の話もありますから、もちろん日照り・旱魃の年がなかったとはいえませんね。
(緑の地球92号(2003年7月発行)掲載分)

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