曲芸飛行

 事務用椅子に座らせられ、背もたれに後ろ手に縛りつけられながら、その老人は眠っている。上半身は裸で、生白く突き出した腹部が時折膨らむ。さるぐつわの隙間からこぼれ落ちたよだれが乾き、LEDランタンの白い光の下で、そこだけとてつもなく清潔な、始まりのころから生きるものなどなかった地平のようにうっすらと輝いている。排泄物に汚れた下着はそれでも思ったほどの臭いもない。雑居ビルの一隅、悪臭のクレームが来ることもない。
 ただ一つの窓を開け放ち、そうすると少しだけ風が流れる。この部屋の中の時間もリスタートする。老人の眠りが浅くなり、目元の皺がひくひくと動く。持ってきたペットボトルのふたを開け、よく冷えた水を老人の頭にゆっくりと注ぎ始める。
 登頂の毛髪も薄く、だから水は勢いを減らすこともなく流れ、滴り落ちていく、鼻やら口やらに入ったそれにむせるように老人が目を覚ます。かなり弱っているので、大した動きはない。少し首をもたげた程度、そしてこちらに気づくと、細いのどを震わせてうなり声のようなものを出す。
 まだ半分くらい残っているボトルの口を持ち、そのままこん棒のようにして老人の顎のあたりを殴りつける。くわえさせてるタオルのせいでそれほどの痛みは与えまい。
(私は知らない。秘書が勝手にやったこと)
 さるぐつわをむしり取り、感覚もなくなっているのか、だらんと空いたままの口の中にボトルを突っ込み、中身をすべて流し込む。水分補給。
 空になったそれをビリヤードのキューよろしく、老人の右目あたりに一突きする。バランスを崩してひっくり返り、わらわらとうごめいている。虫みたいに動いている。
 窓の外に目をやる。
 暗い室内の向こうに青空が見える。何の音もしない風景、何も動くもののない景色、まっすぐ続くひび割れた道の両側にどこまでもどこまでも瓦礫の山が続いている。
色彩のない悪意の影のような近景に対してどこまでも空は青く、そしてそのかなた、一点が光ったかと思うと、たちまち複数の輝点に分かれ、後ろの鮮やかな色の煙を引きずりながら、曲芸飛行する飛行機の隊列が通り過ぎていく。赤青黄色緑色、風に震えて消えていく一瞬の轟音。
 窓を閉め、風の流れをせき止める。
 室内の時は止まる。
 倒れ老人の椅子を元に戻して、その口から洩れる音を聞く。
「痛い、痛い、痛い、痛い」
 初めて見る顔だ。テレビで見た、偉い人、偉いけど悪いことをしている、あの人の顔とは少し違う。
「どうして、どうして、どうして」
 こちらを向く老人の目は、しかしもう遠い明日のことしか見えてはいない。
 どうして?
 俺の方が聞きたいよ、おまえは誰だ?
 ガムテープで口をふさぎ、そのまま顔中をぐるぐると覆っていく。何のためだか、もう記憶にない。

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