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左義長

全国各地でこの時期行われる「左義長」または「とんど」「どんど焼き」と呼び方は地域の因って異なり様々あるが、基本的には村の守り神である道祖神を祀り子孫繁栄、家内安全、災難消除を願う行事である。

お正月の飾り物や、一年間身に着けていたお守り、また書初めなどを一緒にお炊き上げすることで一年の無事を祈っていく。

私の地元でも昔より綿々と受け継がれている「左義長」が来週13日(日)に行われる。今日はその準備日、早朝より村の当番役の方々が慣れた手つきで昔からの習わしに則り組み立てていく様子は頼もしく心躍らされる。

左義長が行われる日は、その後お寺にて「大般若会」の法要を執り行う。これもまた、一年の所願祈祷である。

こういった行事を通して思うことは、どれだけ時代が変わっても「祈願」という行為はいつの時代も変わらない。お寺離れ、墓じまいなど、ご先祖様への敬意が損なわれる中でも、やはり根底に「人」である以上、「祈らずにはおられない」心持ちは誰にでもあると言える。

その心を紐解けば、誰しもが実際は様々なご縁の真っ只中に生かされている自分を感じているといえるのではないだろうか?そして、そこには必ず「感謝」の二文字が重要となる。

よく初詣で「祈願」というと「お願いします。」ばかりが目立つが、そこに「感謝」の心を一緒に供えることを忘れてほしくない。

「感」とは「咸」+「心」で出来ている。

「咸」は心を一つにするという意味がある。つまり「感」は「心と心を一つにしていく」ことであり、自分だけの思いを押し付ける願いは烏滸がましいと言える。また、似ている漢字に「惑う」があるが、これは「区切る」を意味する「或」と「心」が組み合わさっていることから、人は一人よがりでは「惑い」という苦しみにしかならない。人生を「惑う」生き方ではなくいつでも自分を生かしめてくれているご縁を「感」じ生きていくことが、実は一番大事なのである。

様々なご縁に生かされていることに先ずは気付き、その目に見えぬ自分自身を支えてくれているモノと心を一つにして感謝してこそ初めて「祈願」というものが生きてくる。

皆様も左義長に参加される際は

「今日この日を迎えられたことに先ずは感謝します。今日からも一所懸命生き抜いていきます。」

そう願ってみてはいかがでしょうか?そう口にすることで、一日の味わい方も変わるものだ。

一日一日を丁寧に、心から始める一日を。



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