「縁」は生かすもの。

初秋の夕方。

お寺の境内が真っ赤に染めあがる頃。

空には悠々自適に飛んでいる赤蜻蛉。

それを嬉しそうに我が子たちが追いかける。

赤蜻蛉はそれでも悠々自適に飛んでいる。

焦ることもなく

逃げることもせず

ふと不思議に思う。

なぜトンボは飛べるのか?(なぜそんなに気持ち良さそうなのか?)

隣に居た妻に聞くと「何言ってるの!羽が有るからでしょ!!変な質問(笑)」

(ん?違和感)

羽があるから飛べる?

いやちがう!

そうか!

羽を動かしているから飛べるんだ!

それからジ~―――――ッと飛ぶトンボの姿を観察していると、空中でトンボは、羽を動かしている時と止めている時がある。

そう!

風を捉えて、時に風にお任せしてトンボは飛んでいる。

つまり羽を使って、風を生かして飛んでいるのだ。

悠々自適に飛んでいる。

それが赤蜻蛉。

私達も一緒だ。

心が有ると分かっていても、使わないと人として輝かない。

心を使って「縁」を生かす。そんな生き方がある。

そう赤蜻蛉に教えてもらったような気がした。

人は誰しも何事も自分中心で捉えようとする。

例えば「善いご縁」「悪いご縁」。

そんな分別する「ご縁」はもとより無い。

「縁」は「縁」でしかない

雨のように、立場によって雨は呼び方が変わる。

「恵みの雨」「生憎の前」など。でも雨は雨でしかない。

どこにも嫌がらせをしようと降る雨はない

喜ばせようとする雨はない。

雨は雨だ。

もし雨に名札を付けるのであれば、それはすべて人の都合の名札だ。

やっぱり、雨は雨だ。

同じように縁も縁でしかない。

その縁に「善し悪し」と勝手を言っているのは自分の立場でしかものを言えない人。

「縁」は、ただ生かすもの。

その為には、心を使わなければいけない。

わがままに使うんじゃない。

トンボのように、時に羽を動かし、時に羽を止める。

それは、時に風を生かし、時に風にお任せする。

縁も同じように、どんなご縁も私の原動力にしていくのは自分の心次第である。

だからこそ、死ぬ気で自分自身と向き合わなければいけない時期が誰にでもある。

現在の私が、その時期だ。


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