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【鹿島茂のN'importe Quoi!シリーズまとめ】「正しく考えるための方法」を考える──『思考の技術論』入門

2022年1月からスタートしているシラスチャンネル「鹿島茂のN'importe Quoi!」。2024年4月からスタートした「吉本隆明入門講座」をふくめ、4つの講座をお届けしてきました。
本記事は、過去に放送した講座シリーズ「『正しく考えるための方法』を考える──『思考の技術論』入門」のまとめです。どうぞお楽しみください。

「正しく考えるための方法」を考える──『思考の技術論』入門


シリーズ概要

 自分の頭だけを使って、しかも、「正しく考える」ための方法というものは果たして存在しているのか、というのが私のそもそもの出発点でした。というのも、前任校の女子大に勤務しているとき、卒業論文指導の授業を受け持ったざるを得なかったからです。学生たちに論文の書き方を教えなければならなくなって、論文の書き方なるものを調べるうちに、デカルトの『方法序説』に辿りついて、『方法序説』とは、じつは『ただしく考えるための方法序説』であることを知って愕然としました。なぜなら、そのことは一ページ目にちゃんと書かれていたからです!
 すなわち、美貌や体力や骨格などは不平等に与えられていることが多いが、良識ないし理性は完全に平等に与えられている。その証拠に、良識=理性の分配が少ないからもっと欲しいと苦情を言う人はいない。ところが、それくらいに良識=理性が平等に与えられているにもかかわらず、片方に、「正しく判断し、真と偽を区別する」ことのできる人がいるかと思えば、もう片方には、それができない人がいるという現実がある。なぜかといえば、平等に与えられているはずの良識=理性を「良く用いる」ための方法があることを片方の人は知っているのに対し、もう片方の人は知らないからだ。つまり、「正しく判断し、真と偽を区別する」ための方法は確かに存在し、それを知っているか否かが運命の分かれ道になっているのである。よって、万人の平等を導くためにはその方法を万人に教えなければならない。
 これがデカルトが『方法序説』を書こうとした動機だったのです。

 では、徹底的に考えぬいたあげくにデカルトが考え出した「正しく考えるための方法」とはどのようなものだったのでしょうか。デカルトはそれを四つの規則として掲げています。
 デカルト四原則の第一は、一般に「方法的懐疑」、ないしは「明証性の原則」と呼ばれるもので、どんなことでもいったんは疑ってかかることが必要という主張です。すべてを疑ってから、「明証的に真」であると認めざるを得ないもの以外には真と認めないという思考態度です。私はこの原則を思いきり簡略化して
①すべてを疑おう
 と要約しています。
 デカルト四原則の第二は、問題を解決するには、それを分けて考えるのがよい、しかも、できるだけ多くの小さな部分に分けるべし、ということで、一般には「分析的方法」とか「分析的規則」と呼ばれていますが、これを私は
②分けて考えよう
 と要約することにしています。
 デカルト四原則の第三は、第二原則によって必要な最小部分に分けた結果、単純になり認識しやすくなったものから始めてより複雑なものへと階段を上がるようにして溯るということで、一般には「総合の規則」と呼ばれているみのですが、私はわかりやすく
③単純から複雑へ、
 と要約しています。
 最後の第四原則ですが、これは見落としがないか、問題点を枚挙・列挙して最終的なチェックを行おうということで、私は
④見落としをチェックしよう
 
と要約しています。
 まとめれば、「正しく考えるためのデカルト四原則」とは
①すべてを疑おう
②分けて考えよう
③単純から複雑へ
④見落としをチェックしよう
 となります。
 このリストを見た一般の読者は、おそらく、「えっ!これだけでいいの?」と思われるかもしれません。しかし、デカルトは、これで十分であるとしか答えません。規則というのは、たしかに少ない方が運用はしやすいので、少なければ少ないだけいいのですが、しかし、本当に「正しく考えるための規則」がこれだけでいいのでしょうか?

 当然、よくないという反論がデカルトが『方法序説』を発表するや否やすぐに現れました。とくに、明証性の担保として「直観的に正しい」という根拠を使うのは、じつは「経験的に正しい」にすぎないとする反論がただちにあらわれました。この立場を経験論といいます。
 経験論はイギリスではジョン・ロックによってまず展開され、スコットランド啓蒙というグループに属するデイヴィッド・ヒュームに引き継がれ、完成されたということができますが、フランスでこのヒュームの思想を受けて経験論に立つ感覚論を唱導した一人にエティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤックという哲学者がいます。
 このコンディヤックの『論理学 考える技術の初歩』(山口裕之訳、講談社学術文庫)は、その表題からも察せられるように、反デカルト主義に立つコンディヤックが『方法序説』に対抗するために書きあげたもう一つの「正しい考えるための方法」と見ることができます。

 では、直観論に拠らないコンディヤックの経験論の立場からする「正しく考えるための方法」とは、いったいどのようなものなのでしょうか?
コンディヤックは「この本の目的」と題された序文の中で、正しく考えるための方法はたしかに存在する。ただし、それは人が思っているような複雑なものでも尋常ならざるものでもなく、じつに単純なものだと断言し、発見するのが難しいと思われるのは、探しどころが悪かったからだとしています。しからば、正しく考えるための方法はどこを探せば見つかるのでしょうか?
それは「自然」の中にしかない、というのがコンディヤックの考えです。ただし、この「自然」というのは、人間存在も含めての自然という意味です。すなわち、人間がものを動かしたり運んだりするとき、まず腕を使い、腕の弱さを補うために棒をテコとして使うのと同じように、考える技術も、人間が自然と対峙するときの経験の中にあるというのです。

「我々が進歩できるのは、自然が与えてくれた最初のレッスンのおかげである。そこで我々は、この『論理学』を定義や公理や原理から始めることはしない。自然が我々に与えてくれたレッスンを観察することから始めよう」

 ちなみに、コンディヤックは観念学派(イデオローグ)と呼ばれる学派の元祖で、ロック、ヒュームの経験論に影響を受けて、認識や知識はすべて感覚から来るという感覚論の学説を強力に推し進めた思想家の一人です。そのため、正しく考える方法の探し場所も、感覚論の観点から次のように説明されています。

「我々が最初に気づく心の機能は、[視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という]感官である。感官を通じてのみ、対象の印象が心に伝えられる。
(中略)
我々はみな同じように感官を持っているにもかかわらず、みなが同じ知識を同じだけ持っているとは限らないからである。こうした不平等が生じるのは、感官が与えられている目的から見て我々がみな同じように十全に感官を活用できるわけではないからである。もしも私が感官をきちんと制御することを学ばないなら、他の人より少ない知識しか持つことができないだろう」

 このテクスト、どこかで読んだことのあるような論理展開だなあと感じた読者がおられるのではないでしょうか?
 そう、デカルトの『方法序説』の冒頭とほぼ同じレトリックの構成になっているのです。
 デカルトの「良識(ボン・サンス)=理性」の代わりにコンディヤックは「感官(感覚器官およびその働き)」を置き、ほんらい感官が存在する目的は平等なのに、現実には不平等が生じているのは、理性の使い方ではなく 、感官の活用の仕方を知らない人がいるからだと結論しているのです。つまり、「正しく考える方法」の探し場所は、デカルトとその後継者たちがいうように理性の使い方の中ではなく、感覚の使い方の中にあると言っているのです。

 これら二つの例からも明らかなように、十七世紀から十八世紀にかけての哲学者たちの多くは、それぞれ「正しく考える」ための方法に関する著作を書き上げていますが、知識は教えても考える方法を教えることに無頓着だった日本では、この方面の文献はあまり多くはありません。
よって、正しく考えるための方法を模索するタイプの講義というものがあってもおかしくはないと思います。
 ただし、その方針は、思考そのものではなく、あくまで正しく考えるための方法、すくなくとも「思考の技術論」に限定しなければなりません。なぜなら、技術論なら、基本的には自動車の運転免許教習と同じで、システマティックに伝達可能だからです。
 思考という名の自動車の運転免許教習所へどうぞ!

放送URL

鹿島茂のN'importe Quoi!は、放送プラットフォーム「シラス」にて、毎月第2・第4火曜日の19時から放送中です!みなさまのご視聴をお待ちしています!

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