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橋本治「ひらがな日本美術史」第1巻 餓鬼草紙 ポルノではないもの 貴族の世代?


 令和という時代になってウーバーイーツなるものを知った時、ふと、自分が徳川時代後期の江戸人になった気がした。 江戸人はその当時、もしかしたら世界で一番豊かな人たちだったのではないだろうか。
ロンドン、パリといった世界の大都市をも凌ぐ人口と、その人口を支える流通、娯楽、文化がすっかり完成していて、そこにいれば誰でも平気でその日暮らしができる町が江戸だった。
 長屋というワンルームに住み、口入屋でバイトを探し、床屋、碁会所、矢場、湯屋、芝居小屋、そして吉原といったアミューズメントも充実している。
時分時には煮売屋というウーバーイーツもやって来る。
洗濯屋も来ればゴミ回収も来る。
トイレの汲み取りなんて農家が来て、金置いて持って行ってくれる。
 江戸という町で窮屈な思いをしていたのは上流階級と武家で、江戸の町人は貧しくとも自由で豊かな生活を享受していた。(江戸人に限りだけど)
 現代の町人の私たちも江戸人同様、この暮らしを特に豊かとも思っておらず、さらにネットというコンテンツを浴びるように消費している。
まさに爛熟だ。

その後、江戸人たちは明治維新に巻き込まれ江戸人ではなくなり、江戸という町も消滅してしまったが、現代の私たちのその後はどんなふうに続くのだろう。

 「チェンソーマン」というアニメを見た。
漫画が原作らしいが、ネットフリックスを開く度におすすめされるその画面の異様さに、しばらくは手を出せずにいた。
頭部がチェンソーになっている青年はシュールで禍々しくて、「げー、なにこれ」としか言いようのないビジュアルだ。
怖いもの見たさとはこのことで、結局配信分全話観てしまった。
観ながら思った。
「これって地獄草紙なのかなあ。」

「ひらがな日本美術史」の第1巻に「餓鬼草紙」と「病草紙」という章がある。
河本家本と曹源寺本の、二種類の餓鬼草紙が紹介されている。
「チェンソーマン」の世界観の何に、今の若い人たちは惹かれているのだろうと考えていて、思い当たったのが「貴族」というワードだった。
この人たちは今や江戸の町人を通り越し、平安末期の貴族になりつつあるんじゃないだろうかと。
 民衆への救済をフィーチャーした「曹源寺本」に対して、地獄という「モラル」を複雑に私物化してしまった河本家本の中の貴族に、私はなんとなく今の若者の姿を見てを見てしまう。

第二次世界大戦とその戦後、境遇によってその差はあっただろうけれども、日本人の大半は飢えていた。
私の親の世代だ。
そして私自身の子供時代に高度経済成長があって衣食は足り飢餓とは無縁になったけれども、今思えば先に挙げた江戸人の暮らしの豊かさにはまだ追いついていなかった。(と、思う)
 現在、私の子供達の世代になって価値観も変わり
豊かなその日暮らしができる時代が来たが、どうも見ていると、若者がこの時代を謳歌しているとは思えないのだ。
そりゃまあ当たり前のことで、親に「私たちの子供時分は食べるものがなくて」と、さんざんボヤかれてうんざりしていたのだから人の事は言えない。
ただ、興味があるのだ。
なぜ私たちの子どもたちは貴族になったのか。

食糞餓鬼と平安貴族たち

 ネットフリックスのお陰でアニメはそれこそ浴びるほど観られるようになったので、絵が綺麗で面白ければ私だってアニメぐらい観るのだ。
「チェンソーマン」に限らず、アクション系のアニメには相変わらず殺戮シーンが登場する。
そして思うのだ。
アニメの殺戮シーンて、前からこんなにアッケラカンとしてたっけ。

主人公のチェンソーマンがアクマ(化け物)と戦うシーンはそれこそ「げー、なにこれ」だ。
戦闘で片腕切り落とされながら敵の臓物の上を飛び回るシーン。 顔面から変身しそこなったチェンソーが半分突き出して血まみれのエゲツない形相になっている主人公だが、そこにあって然るべき「痛み」を、観る側はほとんど感じない。
まあ、この人も半分アクマ(化け物)なんだからそれでいいんだけど。
「やる?ここまで」という突き抜けた世界観は、河本家本の地獄草紙第五段「食糞餓鬼」を連想させる。
「チェンソーマン」にスカトロは登場しないが(多分)、平安貴族たちが、美しい絵巻を画工に命じて描かせたのと同じ情熱で餓鬼達によるスカトロ天国も描かせて興奮していたであろうことと、
 異形の者たちがグロテスクな戦闘を繰り広げるを見て若者たちが興奮しているであろうこととは、なんだか似ているような気がしてならい。
 平安貴族にとって、飢えや不潔はあまりにも遠いもので自分とは関係ないものだった。

不潔にちかいものは不潔を嫌い、不潔からあまりにも遠いものは、その不潔を面白いものと思う。

平安時代という豊かな一つの仮構が終わろうとする時、その中で人間的なリアリティをなくしてしまっていた貴族たちの一部は、「人間であること」を、娯楽として求めた。

人間的なリアリティをなくしてしまっていた平安貴族たちの嗜好に現代の私たちが「げー、なにこれ」となるのはわかるのだが、
「チェンソーマン」を観て「げー、なにこれ」となる私と、ならない若者たち(なる若者だってそりゃいるけどもさ)に、どんな断絶があるのだろう。

言っておくが、私の言う「げー、なにこれ」は決して嫌悪ではない。
私が嫌悪感を持ってしまう対象はアニメに限らず辛気臭くて陰惨なものだ。
「チェンソーマン」は辛気臭くもないし、陰惨でもない。 グロはグロだけどアッケラカンとしている。
それは地獄草紙の「食糞餓鬼」にも言える事だ。
嬉々として糞尿を貪り食う餓鬼たちの生き生きとした目付きにも、なにかアッケラカンとしたものを感じてしまう。

現代の若者を平安貴族になぞらえるのも変な話しだが、自分にとって関係のないものだから、それが娯楽にもなるのだとしたら、彼らにとって一番遠いものとは、やっぱり戦争なんじゃないだろうか。  戦争を体験した親を持つ私たちの世代は、なんだかんだ言っても彼らよりは戦争に近い。
空襲で川が燃えているのを見たとか、防空壕から出たら腰が抜けて歩けなかったとか、話していたのは私たちの親の世代なのだ。
私自身、子供の頃公園でアコーディオンを弾いて募金活動をする傷痍軍人の姿は何度か見た。
彼らが失った腕や足は、戦前には確かに存在していたものなのだ。
でもそんな記憶も、陰惨で辛気臭い時代を過ぎて今となっては私でさえリアリティがない。
アッケラカンとは、リアリティのなさなのかも知れない。

餓鬼に取り憑かれている貴人達の姿も、あまりにも物憂くていびつなのだ。
まるで彼らはそんな刺激の強い娯楽がやって来るのを待望してでもいるかのように、欲望というものに対して鈍感になっている。

令和の若者が、いくら何でも戦争や殺戮を刺激の強い娯楽と思っている訳はないが、バブル期に青春時代を過ごした、昭和のガツガツした若者たちに比べて、彼らはあまりにも欲がなく優雅に見える。
その彼らが、血まみれのグロい戦闘シーンに人間本来のリアリティを求めているのだとしたら、それはそのまんま、平安末期の美しく「物憂い」目をした貴族達そのものだ。
 扇で顔を隠しながら、この爛熟の時代を見つめる令和の貴族たち。
それが私たちの子供たちの世代なのだろうか。


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