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わたしたちは、それでもこのままでいるべきなのか

※経緯のみが必要な方は、目次の【事柄に関する認識】からお読みください。


この告発をすることで、以後わたし、しいたけ(@hakugyokurou01)が、どのような加害に遭うかはわかりません。
ただ、このことは、今日にいたるまで、多くの方々がめろ氏(@lin720_1122)の独善的な振る舞いによって卑劣で執拗な加害を受け、界隈を去ったり、アカウントを消してしまわれたり、筆を折ってしまわれたり、現状においても幾人もの方が発言を躊躇われていることを知りながら、声を上げずに黙っていたわたしの、最初で最後の告白になると思っております。
これは、誰かひとりだけのお話ではありません。
今現在の事態に関して、何らかのお気持ちを抱いている、わたしを含むみなさんについてのお話でもあります。
決して気持ちのいいお話ではありませんし、長くなりますが、強く思うところがあり、病身の身を削る思いで書きました。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。

わたしは昨年11月、初期のがんが見つかり、病気の治療の専念のために一旦自身のTwitter(現𝕏、以下Twitter)アカウントを閉じ、二次創作から離れることになりました。 当時のツイートは以下のようなものでした。

2022年11月12日 20:48のツイートです


ですが、アカウントを閉じると共に、実はわたしは黙って界隈から去る心づもりでもおりました。
と言いますのも、今後長患いとなることもさることながら、日常的に誰かが苦しんでいるのを見て見ぬふりをするのも、日常的に猜疑心や憤りに苛まれざるを得ない状況に自らを置くのにも、正直嫌気がさし、心身が激しく疲弊していたのです。
しかし、今年7月の時点において、めろ氏による加害が直接被害のみならず、またしても周辺にまで広がっている有り様を目の当たりに致しました。
一体何が彼女をそうさせるのかという不可解さも然ることながら、界隈に身を置くひとりのユーザーとして、もはや沈黙を貫き続けるのは誰に対しても誠実な態度ではないのではないか、という問題意識に対して心が傾いていきました。

以下は、そのことについて纏めたわたしの記録であり、めろ氏に対する第三者からの告発となります。 


▲ お急ぎの方、詳細のみが必要な方は、【加害の詳細と問題提起】からお読みください。

【発言にあたっての前提】

最初に、読んでくださる方との認識の食い違いを防ぐため、前もってわたしの立場と前提を共有致します。

まず、問題提起の前提として、
「道徳的判断とは必ずしも善悪を感情の好き嫌いで決定するものでは無い」
という定義を主張します。
その上で、わたしは『事実判断』と『価値判断』を混同して伝えることのないよう、細心の注意をはらうことを自戒致します。
推測に関しては、わたしの主張の意図と、読んでくださる第三者との間に誤解が生じないようできうる限りに適切な表現を選択致します。
道徳において、論理的な思考を経ることなく判断する『直観』に関しては中立であることを含め、
①「知り得る情報内における公平」
②「発言の一貫性」
③「事実と価値の区別」

以上の条件を判断の前提とします。
なお、道徳と倫理は、本文において同義語として扱います。


また、本文で扱う加害については、
①その内容が『公共性』『公益性』『真実性』『相当性』を欠くこと、その場合において言及致します。
加害によって被害者が『損害』を受けたこと。損害には、「精神的苦痛」「社会的信用力の低下」「経済的損失」などが含まれます。
③加害によって被害者が受けた損害と加害者の行為との間に「因果関係」があること。すなわち「加害が原因で損害が生じたこと」
公共の利害に関する疑い、事実に関してのみ公開致します。
以上においてのみを「めろ氏による加害」として発言致します。上記はすべて、表現の自由などを尊重するために設けられた制限要件であるため、本文で扱う『加害』に関するめろ氏の発言に関しては、『表現の自由』の範疇にないものと仮定します。
また、加害を扱う以上、被害者が必ず存在します。被害者を守るため、当方の持つ情報を守秘する場合があります。ご理解いただければと思います。


相対主義という立場から発言を控えたいという人は、どうか今一度、自分が果たして実際に相対主義という信念の元に生きているのかを再考していただきたいのてす。

「道徳観は人によって、時代や地域によってもそれぞれである。人は事実判断のみを行動基準とするべきで、自分の価値観、倫理観根拠に発言することは不適切である」

これを相対主義の大まかな主張とします。
そして、これを仮に『倫理的判断a』とします。
さて、「他人の倫理観にも積極的に介入すべきだ」という意見に対して、『倫理的判断a』の持ち主が、これに基づいて弾劾するのは正当性のある行動と言えるでしょうか?
確かに相対主義的観点から見れば「他人の倫理観を積極的に批判すべきだ」という価値判断は一見傲慢であるように見えるかもしれません。しかし、一貫性の面からこれを測るならば、「他人の価値観、倫理観を批判すること」それ自体がまさに『倫理的判断a』によって禁止されることになります。いわゆる二重基準です。
すなわち「他人の倫理観にも積極的に介入すべきだ」というのも他者の倫理観のひとつであり、もしこの人が『倫理的判断a』を誠実に実行すべきと考えるなら、それを批判しにいくのは倫理的過ちである、ということになるのです。
このことは「人の意見に意見してはいけない」という自己言及として、他者だけでなく自分の口も塞ぐことになり、結果的に二次加害となることが懸念されるものであり、論理学、倫理学、言語学など、言論を取り扱う世界ではとりわけ注意を促されるトートロジーのひとつです。

このような非現実的な論法を、一貫性を重視するという理由から固持している方は、実際にはお見掛けしません。
それはすなわち、我々は現実には信念などではなく、『妥当性』に則して生きているのではないでしょうか。そうであれば、自分の中の信念と妥当性を区別することなく、相対主義をつまみ食いするという態度は、それこそ果たして一貫性のある態度なのでしょうか?
どうか、力ある同胞の方は沈黙しないで共に声をあげ、行動していただけないでしょうか。
わたしはこの告発に即し、不特定多数の方々にめろ氏に対する加害を要求しているのではありません。 それに耐えるしかない人々を不当に傷付けてきた行いに対して、『No』が言えないという現状は、皆で協力して改善しなければならないと考えているのです。


暁薛界隈の方々には既にご存知のことであるかもしれませんが、めろ氏(@ lin720_1122)が界隈において特徴的な加害を繰り返すことによって、自由に発言したり、行動することを制限されている人々がいる現状に関し、Twitter内、主に暁薛界隈において、めろ氏による直接的な加害行為、及び二次加害が発生し、到底自由な場とは言えない歪な状況が形成されていることに対して、わたしは強く異議を唱えたい所存でございます。
行動の根拠は、数多の二次加害が発生している状況で知らないふりを決め込むのは、余りにもアンフェアであると感じたからです。そして、わたしが今の時点で中立を保つのは、加害に加担することと同義であると考えたからです。


【事柄に関する認識】

まず、わたしの略歴を簡単に記述致します。
わたし、しいたけが初めて陳情令、暁薛cpで二次創作小説を書き始めたのは、2020年10月のことでした。
当時はpixivのみでお話を投稿させていただいておりましたが、2022年の春に、現在使用しているアカウントにて、同好の方々とのささやかな交流を始めました。 幾人かの方がわたしがpixivに投稿した作品を覚えていてくださり、温かく迎え入れてくださったことを今でも覚えています。


めろ氏の加害については、いつからか耳には入って参りました。当時は加害の詳細までは知りませんでしたが、実際にめろ氏の嫌がらせに遭っているという方とお話させていただいた際には、「同時に匿名での嫌がらせもある」というお話も窺いましたが、既に了解事項であるというご様子であり、その時はメジャージャンルのマイナーcpの周辺というのはこういう感じなのかな、とぼんやりとした輪郭を得ただけでした。 その時は確とはわかりませんでしたが、
「誰でも偶発的にめろ氏の加害に遭う可能性がある」
ということを、その方はわたしに伝えてくださったのだと思います。 しかし、当時のわたしにできることといえば、できるだけ彼女に近づかないことだけでした。


既にそのことが原因で、界隈を去ってしまった方が幾人もおいでになり、その経緯についてうかがうこともありました。
しかし、わたし自身はその原因となったというめろ氏とは面識もなく、何も存じ上げないことから、当時は特に何かを発言することはありませんでした。当然、既に嫌気がさして界隈を去ってしまった方々をどうにかできるすべなどわたしにはなく、抑、当該人物の加害行動がどのような形で人々を拘束していたのかを、俯瞰で見る機会が無かったたことも、自己のものとして危機感をおぼえることの無かった一因でした。


ただ、今になって思うに、ただその界隈で二次創作活動をしているだけで、
「誰でも偶発的にめろ氏の加害に遭う可能性がある」
という事態は、もはやそれひとつのみを取っても異常きわまることではないでしょうか。
そして、まるでそれを天災の如くに感じざるを得ない現在の状況を作り出している加害者に対しては正直、遣る方無い憤りを隠さずにはおられません。
また、仮に抑圧の詳細を識りつつも冷笑的な見方によって仕方ないと片付けてしまう認識があるとすれば、
「黒人だから警官に射殺されても仕方ない」
「女性が外を歩いたら強姦されても仕方ない」
などと吹聴することと同様、すなわち加害と同義であると考えるものです。
しかし実際問題として、抑圧の詳細を識りつつ、被害を受けている人の中に、本当にこのことを「仕方ない」と考えている人は、果して存在するのでしょうか。


【加害の詳細と問題提起】

ここからは、めろ氏の具体的な加害の主な手口についてお話し致します。 例外的なものもありますが、それは概ね以下のような経過を辿ります。

「相互フォローになる」→「フォロワーの中の誰かが気に入らない発言、行動をすると、めろ氏が本人にわかるように空リプで暴言、汚言を吐く」→「暴言、汚言を吐かれた人は、空リプだから証拠もないと自分を宥める」→「誰かが気に入らない発言をすると、空リプで暴言、汚言を吐く」→「空リプだからと我慢する」→「空リプ」→「我慢」→以下ループ

というサイクルの繰り返しです。
標的になる基準はあくまで恣意的なものと考えられますが、これについては判断材料が乏しいことから言及を避けることとします。
やがて、彼女からの加害に我慢が出来なくなった被害者がブロック、またはブロ解をすると、めろ氏はその瞬間に人物を『敵』と看做し、嫌がらせはさらにエスカレートします。そして、オープンな場で、またしても空リプでご本人にのみ間違いなくそれとわかる罵倒をはじめます。
嫌がらせは主にこうしたものであるため、彼女とFF関係にあった(また、現在FFの関係にある)方の中には、彼女の顔色を絶えず窺わなければならないという方も少なからずいらっしゃったようです。


めろ氏がその人物を『味方』と認識している時は、基本的に、過剰なまでに好意的な振る舞いをします。 いわゆる『アルファ』と言われるような人気の絵描きさんやレイヤーさんなどには、自ら進んで胴上げにいくような勢いで過剰なまでに持ち上げてくれます。とはいえ、もしかするとこれはのちの顛末を想定した行動などではなく、めろ氏にとっては瞬間の真実なのかもしれませんが、その点に関しては干渉する必要がないのでここでは触れません。
しかし、自分にとって価値が無くなったと判断した人間、或いは自分に背いた(ブロック、ブロ解などをした)と認識した人間に対しては、先述のような嫌がらせを執拗に繰り返し、嫌がらせを受けた人物が完全に沈黙する、筆を折る、アカウントを消す、などをしてめろ氏の溜飲が下がれば、次に始まるのは「ご本人にのみ間違いなくそれとわかる罵倒」のツイ消しです。まるで、そのような嫌がらせが無かったかのように、ツイートを綺麗に整理するのです。
これが、彼女の行動の特徴である『証拠消し』です。彼女は現在までの加害について、ほぼ例外無くこれを行ってきました。ゆえに、ただ一見するだけでは彼女は『奇矯な人物』に過ぎず、『加害者の相』を見せません。
めろ氏は実際ご自身で、「3年前(何故3年前?)からそのようにしている」旨をはっきりとツイートで告白しています。


彼女の自分本位さ、加害の無自覚、被害妄想が度を過ぎたものであることは、さらに様々な方面から聞こえてきました上、時を経るにつれ、Twitter上で実際にそのような振る舞いを直に見ることもありました。
己の奇異行動、異常心理を嬉々として標榜し、他者を「敵か味方か」でのみ判別する。そうした振る舞いを見詰めてきました。
これをわたしの見方、言い方で言及するならば、「味方である」ということは「敵でない」こと以上の意味は持たず、誰かが「敵である」ことに何よりも執着する、というのが彼女の認知の基本であると推察することができます。また、基本的に自省が一切無く、偏った認知によってしばしば感情にまかせて攻撃的になる、という特徴的な行動様式からは、対話の困難さを感じざるを得ませんでした。
なにしろ彼女の言動には、圧倒的に『他者の視座』が抜け落ちているのです。
これがよくない状況であるのは分かっていても、どうしようもない厭な気持ちが少しずつわたしの中でも膨らんでいくばかりでした。


めろ氏は自らイベントを主催するなど、多くの場合何らかにおいて主導的な立場に立とうとします。しかし、関係者の証言や、イベント前後の振る舞いを鑑みるに、彼女に主催を務める能力があったのかどうかは甚だ疑問です。 とはいえ能力の有無はともかく、わたしは寧ろ、これは彼女の『肯定欲求』の反動ではないかと考えています。 そしてまた、ブラフであっても自分の囲いを作ったその上で、言語を強権的、能動的に使用する、という点においても、彼女は非常に悪質であるのです。
このことを述べる前提として、わたしは、Twitterで嫌悪感を表出してはならない、などと主張しているわけではありません。
ただ、その頻度や内容がどうであれ、一般の方の嫌悪の表出が、対人関係においては善意有過失(或いは重過失)であるのに対し、彼女のツイートにはあからさまな継続的な害意があるのです。その害意はしばしば一方向に注がれ、やがて明らかな加害となります。そして、多くの人が彼女から離れるために、自分の『好き』を諦めてまで、界隈を去っていくのです。


またそれは、実際にはフォロー、フォロワーの関係のみならず、気に入らない発言、人物に対してはことごとくそれと分かる空リプを繰り返すため、界隈ではめろ氏に目を付けられて直接の加害対象になってしまうことを少なからず気にしている方は多数いらっしゃいます。
この不特定多数の人々に及ぼす害意の延長を、本文においては『二次加害』とします。
何しろ、対象になった本人には明らかにそれとわかるものの、空リプでそのような嫌がらせに遭っても、物的証拠にはなりにくいのです。めろ氏も経験則的にそれと知っていて加害を繰り返してるために平然としているのであり、もし指摘されたとしても、恐らく彼女は「関係ありません」と言うでしょう。これは先述の『証拠消し』とも相関関係にあるもので、きわめて計画性の高い悪質な行為と捉えられます。
一見鷹揚に構えておられる方であっても、彼女の言行不一致、不誠実さ、害意の表出に対し、何かしら腹に据えかねる方々もいらっしゃることをわたしは知っています。そうした人たちも既に、めろ氏による二次加害に遭っていると言えるのではないでしょうか。
いわばこういったことが、彼女の『成功体験』として蓄積され、どんどん行為がエスカレートしていったのだと考えられるのです。


このようにして、一旦相互フォロー状態になってしまった人は、機嫌を損ねて敵視され、加害の対象になることを怖れ、ゆえに離れることもできず、自由に発言することもできない、といった、とてつもなく陰湿な状況に追い込まれるのです。
時として彼女の機嫌が悪いと偶発的に標的とされ、被害者は黙って耐えていなければどんな仕打ちを受けるかもわからない。これは被害者にとっては、ゴールもルールもわからないゲームに強制参加させられ続けているようなものではないでしょうか。
めろ氏にはその奇異性や横暴をたしなめてくれるまっとうで対等な友人のひとりもおらず(もしそういう人が近くにいたならば、めろ氏の幾度にも及ぶ加害行動についても黙って見ているはずがないのです。対等で、まっとうであるならば)、或いはその寂しさゆえの異常行動ではないかとさえ思われるほどに、加害行為に執着します。



「たかが空リプで」と思われるかもしれません。
ですが、相互フォロー時の好意的な相手に対するリプライは文章が埋もれるほどに絵文字で彩られていたのが、被害者自身も分からない何かをきっかけに彼女の気に触ったその途端、その理由を教えてくれることもなく、急激に嫌悪にまみれた態度で狂気のごとく拒絶され、周囲の人間に見えるように延々と罵倒するのです。
「ブロックすれば済むのではないか?」とも思われるかもしれません。しかし、度重なる害意と暴言に疲れ、また彼女に目を付けられている、という恐怖心は、もはやTwitter上で親しい方々と交流する自由すらも与えてはくれません。めろ氏の機嫌を損ねた人物は、その言動を逐一観察され、ともすればめろ氏の害意はターゲットの周辺の人間にまで及ぶためです。それを恐れて口を塞がれてしまった方を、わたしは実際に何人も知っています。
その経緯をリアルタイムでご覧になられた方々は、その内容がまた常軌を逸していることもご存知であると思います。


儒家の祖・孔子の言である「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」は、有史以来人間が考え出したおもな道徳体系のほぼすべてに、さまざまな形で顕現してきた平易にして豊かな経験則です。それはまさに、冒頭部分の『相対主義』に関して言及した『妥当性』であり、現代社会における社会通念上の道徳的価値基準の礎となっていると言えるものでもあるでしょう。
しかし、SNSは今なお治外法権です。加害者を守り、被害者を守ってはくれません。現実的に公的機関が介入する見込みは未だ不透明です。とはいえ、「それが嫌ならSNSをやるな」は現実的な言い分とは看做されません。勿論自衛は必要ですが、SNSが生活の中の一機能としてはたらくようになった現在、繰り返しになりますがそのような認識は、
「一方的に射殺されるのが嫌なら黒人は外をうろうろするな」
「女性が外を歩いたら強姦されても仕方ない、それが嫌なら外を歩くな」
などと言って加害に加担することと本質的に同じだからです。
道徳的視点とは、こうした認知的ショートカットに対するよりよい洞察を与えてくれるツールなのではないでしょうか。


【資料と分析】

こうしためろ氏の行動様式は、一般社会においては『モラルハラスメント』と呼ばれる行為に該当します。
実像は、マイナスな言葉や態度で相手を支配、コントロールすることで、第三者に実態が伝わらないように仕組まれた非常に悪質なものであり、個人の『消極的自由』を、『積極的自由』によって奪う最低の暴力行為であるとわたしは考えます。このことを理解するのに、リバタリアンである必要はまったくありません。
自由とは、どのような行動をも許す魔法の言葉ではありません。『消極的自由』すなわち「されない自由」は自由の絶対性に依拠しますが、『積極的自由』すなわち「する自由」は、決して無制限に認められるものではありません。
めろ氏はこの原則において、既にきわめて悪質なモラハラ加害者であることを、自らの行動によって示しているのです。


NGO団体日本精神衛生会によるモラルハラスメント被害者の特徴としては、「イライラや倦怠感、睡眠障害、頭痛、食欲不振などが生じるが、一般的なストレス反応と異なるのは、無力感や屈辱感、そしてこれは正常なことではないという違和感がつきまとうこと」 という例が挙げられています。
また、最後の『これは正常なことではないという違和感がつきまとう』というのは、主に生命が危機にさらされた時に起きる、動物行動学における『fight-or-flight response』として知られる非常事態反応が常態となってしまう、ということであり、さらにハラスメントが続く状況では、被害者は抑うつ状態、心的外傷ストレスに陥ることも知られています。
わたしたちの神経系は、危機に直面した際にはいわゆるストレス反応として非常に素早く切り替わるのに対し、通常の状態に戻るにはたいへんな時間がかかるのです。
現在、めろ氏からの直接的な加害、或いは二次加害を受けた方の中で、実際にこうした心身の異常について述べておられる方は、わたしの知る限りでは少なくとも現在2名いらっしゃいます。
正確な数については想像もできませんが、大好きだったはずのジャンル、大好きだったキャラクターを見るのも不快になり、その界隈から去ることでしか身を守れずにいなくなってしまった方々が、今はハラスメントから解放され、精神の健康を少しでも取り戻せていることを願ってやみません。

Twitter(現𝕏)のヘルプセンターにおいては、Twitter上における第三者から第三者への加害について、以下のような対策を提案しています。

https://help.twitter.com/ja/safety-and-security/helping-with-online-abuse

「傍観しない」
「嫌がらせを受けている人を見かけたら、見て見ぬ ふりをしないでください」

 これについては、道義的に賛同できるものです。
 しかし、

「嫌がらせを受けている友達や家族に前向きな言葉をかけることで、攻撃者への関心をそらすように仕向けてください」

こちらは前述の呼び掛けを受けたものでありながら、事象の固有性を無視しており、単一の状況を考慮したものでしかありません。まして、此度のきわめて悪質かつ固有性の際立つ嫌がらせに対して有効であるとは到底考えられません。
もちろん、Twitter社においても、この問題に対する最適解を示すことが苦慮したのは想像に難くなく、この文面はあくまで苦肉の策であったことは理解できます。しかし、もしもそうであるならばなおのこと、「傍観しない」、「嫌がらせを受けている人を見かけたら、見て見ぬ ふりをしないでください」などと、軽々しく書くべきでは無いのです。
もし、このような胡乱な行動ひとつで攻撃者への関心をそらすことが出来るならば、めろ氏の加害で泣き寝入りしている人などただの1人もいないはずです。
何故、あの人もこの人も、心を遺したまま界隈を去らなければならなかったのでしょうか。
彼女らは、一方的な加害を前にして、一体どう振る舞えばよかったというのでしょうか。


わたしがこの抑圧の構造についてはっきりと認識したのは、奇しくも2022年11月7日発行の暁薛アンソロジー『甜城若夢』の主催様と執筆者様方に対する不審者からの嫌がらせ行為が横行していた時期でした。
アンソロジー『甜城若夢』には、わたし自身も小説を寄稿させていただきましたため、不審人物による嫌がらせをはっきりと目の当たりにし、また、わたし自身も嫌がらせの直接的な標的となりました。
この頃の不審人物による度重なる嫌がらせは、特定の個人情報を悪用したと思しき、非常に卑劣かつ下劣な、薄気味悪いものでした。 その嫌がらせの内容からは、「高みから他者の意思をコントロールしたい」という欲望が強く伝わってまいりました。 


この嫌がらせの後期には、複数の、いわゆる捨て垢が多数現れて、不特定多数のユーザーに対し、アンソロジー執筆者のお一人の方への加害を教唆するという異様きわまるものでした。ただ、それは建前であり、実際の目的は主催様に対する嫌がらせ、それに伴うアンソロジーへのネガティブキャンペーンでした。
不快感を、多くの方が黙って耐えていました。
そういう界隈なのだと、言葉を濁してわたしを窘めてくださる方もいらっしゃいました。
しかし、この一方的な状況に耐え兼ねて、ひとこと声を上げてくださった方が、おひと方いらっしゃいました。
わたしはその方の勇気に触発されて、この捨て垢の発言に対して、その正当性を検見すべく、一つずつリプライを行うことにしたのです。正直に申し上げますと、単純な興味もありました。
ご覧になっていた方もおられるかと思います。
その節は、海のものとも山のものとも知れぬわたしに対して、励ましのメッセージやDMをくださった方々には、心より感謝を申し上げます。


嫌がらせアカウントは、一見話を聞く素振りはまるで見せず、単純に質問をしても、或いは、鑑みる様子を見せても、リプライの内容には触れずに状況と被害を軽視する発言を続けました。
しかし、挑発を続けると、相手は軽視を装い、明らかに苛立ったような反応を見せました。
ここで紐付けられたこととは、害意が明らかで匿名で加害行動をする人間の心理には並べて、いちじるしい『肯定欲求』と『他者の軽視』、そして『加害欲求』のみっつがあるということでした。
自己肯定感を得るために他者を軽視し、加害する。逆に言えば加害し、軽視、挑発することによって自己肯定感を得る、そうした類の人間に共通する行動原理を垣間見たように感じられたのです。またそれはすなわち、加害者の「自己肯定感の低さ」を裏付けるものでもありました。
自己肯定感が十分にある人間は、普段そのことを意識することはありません。『肯定欲求』は、それが十分でない場合にのみ暴走するのです。
軽視、加害、そして挑発。
この事件は、奇しくもめろ氏の加害の構造を、俯瞰で見る大きな手懸かりになったものでした。


価値観の違い、とひとは言います。
そして、世の中にはいろんな人がいる、と認識を一般化させることで、ひとは自分を納得させて問いかけることを諦めてしまいます。
しかし、価値観の違い=「量的な差異」は、それが大きくなるにつれて、やがて「質的な差異」に変化します。
たとえるならば、まだ若い桃からよく熟れた桃にいたるまで。これがいわば「量的な差」です。
まだ若い桃と、虫がわいてもはや触ることもはばかられる腐った桃。これが「質的な差」です。
ここまで価値観の乖離が進んでしまった上で、この事態を「量的な差異」に落とし込んでしまうのは、わたしには正直、無理があるように思えるのです。
そして、この質的な差が不特定多数の人々への加害に掛かっている以上、我々もまた否が応にも、その『質』について検見しなければならないと考えます。
みなさんはどのように考えますか?


【新たな展開に関して】

ご存知の方も多いと思われますが、先日、めろ氏から一切の証拠のない嫌疑をかけられて、めろ氏の主催していた薛洋オンリーイベント『甜飴無法2』から追放された方がいらっしゃいました。
その方は、先に述べたような「被害者自身も分からない何かをきっかけに彼女の気に触ったその途端、その理由を教えてくれることもなく、嫌悪にまみれた態度で狂気のごとく拒絶され、罵倒する」という文字通りの被害を受けた人間のひとりです。
彼女はめろ氏による唐突な嫌がらせが始まるまでは、彼女に関するよくない噂などを耳にしても、「証拠もなく決めつけるのは良くない」という立場をはっきりと明確にする、朗らかで快い方でした。
しかし、寄り添ってくれる得難い方との縁を、めろ氏は一方的で不条理な憎悪によって断ち切ったのです。「恩知らずとは卑劣さの本質である」というイマヌエル・カントの箴言は、まさにこの状態を表している言葉であると言えるのではないでしょうか。
わたしは今、Twitterヘルプセンターにおける「加害を傍観しない」という態度の表明、また、発言による公益性が認められるものとして、めろ氏の加害についてを著述しています。これは当然、めろ氏にとって気分のいい話ではないでしょう。ですが、彼女の機嫌と都合によって、濡れ衣と共に公然と晒し者にされたその方はどうだったでしょうか。どれほど屈辱で、お辛かったことでしょうか。
意図的な濡れ衣がことさら卑劣であるのは、濡れ衣それ自体に対して相手がそれを晴らすための反属性となる証拠と理論を持ち得なければ、自動的に濡れ衣をかぶせられた相手が黒になってしまうという点にあります。
先日、この方の書かれた告発文を拝見いたしました。大変な勇気の要るご決断は、決して易いことではなかった筈です。それでも彼女はご自身の健康や安定した生活を犠牲にしてまで意思と知恵、洞察力をもって、お独りでめろ氏の横暴に対し、はっきりと『No』を突きつけ、苦しみながらも今現在も戦っているのです。
何故、無辜の彼女がこのような仕打ちを受け、病まねばならなかったのでしょうか。
現時点で、めろ氏がこの方の告発文を見ていることについては、『甜飴無法2』の共同主催者からの言質が取れております。にも関わらず、めろ氏は知らぬふりを決め込み、不自然な日常ツイートのみを繰り返し、騒動が終わり無かったことになるのを待つ(と取られても仕方のない)態度に出ている状態です。
IPSC競技の創始者であるジェフ・クーパーは、かつてこう言いました。
「反撃する被害者はそのために苦しむかもしれないが、反撃しない被害者はほぼ間違いなくそのために苦しむことになる」
彼女はまさに、そのために戦っているのではないでしょうか。


また先日、続くようにして、暁薛ドロライの主催様が、めろ氏とのトラブルに関する経緯をTwitter上に提出されました。
その中には正直目を疑うような奇異行為についても言及されておりましたが、めろ氏の直接的な横暴に遭った方は、多かれ少なかれこうした経験をされているのだな、と改めて感じた次第です。
また、これほどの異常行動の標的にされていながら、あくまで冷静に対応されておられたドロライ主催者様には、この場を借りて表敬を致します。
現時点で、めろ氏はドロライ主催様の件に対して、「個人との問題であると判断し対応する」と公言していますが、『対応』という語彙選択が適切であるのかは不明です。しかし、ドロライ主催者様に対しては『対応』する予定であるのに対して、告発文を書かれた方に対してはノーコメントであるのは一貫性が無く、きわめて不誠実であるようにも思えます。
わたしはドロライ主催様とは暁薛アンソロジーでご一緒させていただいた以外に、これまでまったく接点が無かったのですが、先日の薛洋のお誕生日に初めてドロライに参加させていただいたことは、大層よい巡り合わせであったと感じています。


また、2023年7月の初日から始まった、暁薛アンソロジー『甜城若夢』の主催者様とめろ氏のリプライでのやり取りも、7/23日以降に再開を約束したにも拘わらず、めろ氏はこの約束を無視し続け、8/21の時点で再度主催者様からリプライが送られたにも拘わらず、現時点でもめろ氏の意思によって放置されている状態で膠着状態となっています。
このやり取りを拝見させていただきましたが、めろ氏の言い分に関しては、しばしば非常に不可解なものでありました。たとえば、
(以下、【M】=めろ氏、【A】=アンソロ主催様)

M「AはBですか?」
A「AはBではありません」
M「AはBということですね」
A「違います」
M「Aのことは知りません」

といった、ちぐはぐで支離滅裂な認識があったり、

M「a=bである」
M「すなわちc=dである」

といった、本来関連付けられない論理的誤謬を根拠にして無理矢理話を進めようとするなどの、いちじるしい議論の停滞が垣間見られました。
正直に申し上げますと、めろ氏が予め持つ何かしらの前提に誘導しているようにしか感じらないやり取りであったように思います。このやり取りを見るにつけ、わたしはジョン・サールよる有名な思考実験、『中国語の部屋』のシチュエーションを想起せずにはおられません(実験の本意については別とします)。
めろ氏はここで、『あみみこ@k2_eh』というアカウントからの干渉を根拠に、「自分こそが嫌がらせの被害者である」ということを主張しましたが、前述のイベント追放の虚偽申告が同じ類いの事情の絡みであったことからも、もはや彼女の言い分を言葉のまま信用することは不可能であると判断します。
このやり取りの中で出てくる「あみみこ@k2_eh」というアカウントは今でも存在します。にも関わらず、めろ氏は「嫌がらせをしていた犯人が分かった」として、先述の方を『甜飴無法2』から追放した際に、何故か主催様に対してそのことを伝えることさえしませんでした。そのことに関しては、単純に不思議です。
主催者とのやりとりの中では、しつこいほど「あみみこ@k2_eh」は「第三者の複垢である」と断定して話を進め、今こうして「犯人が分かった」などと標榜しているのに拘わらず、まさにそのことに関して話していたはずの主催様に対して何のリアクションも無かったのはまったくもって不可解であり、虚偽の申告によって追放処分をした方に対しては勿論、アンソロジー主催様に対しても、二重において徹頭徹尾不誠実な態度ではないでしょうか(前述の方からの暴露記事からも推測することはできますが、偽証をすることに対して、僅かなりとも危機意識があったのかもしれません)。
私がこの件においてめろ氏ではなく主催様に信を置くのは、めろ氏の「明らかにあらかじめ用意していた答え」を押し通そうという姿勢と、上記に挙げた不誠実さ及び言行相反によるものです。
また、この件においては完全に界隈と無関係の人物 までもが巻き込まれ、現在に至るまで恐怖心からアカウントを非公開にしたままでいらっしゃいます (この詳細については被害者保護のため守秘事項としますが、この方に関しましては完全に本件に関して無関係です)。
勿論わたしは第三者として彼女の言行不一致を指摘することはできますが、この件においてめろ氏を断罪する立場にはありません。
今後の進展を見守るのみです。 


ここで少し、『主観的認識』に関してお話ししたいと思います。
対象者の主観的体験の報告を言語化し、データを分析する方法は、ダニエル・デネットのヘテロ現象学としてよく知られています。
『事実判断』と『価値判断』を混同しないのは本文における前提条件ですが、わたしたちは限りなく愚かでない限り、常にこの二つだけを分類して道徳的判断をくだすわけではありません。何故ならば、この二つの間には、生きている人間の数多の認識が含まれているからです。その点において、上記の方々が提供してくれるものは数多くあるように思います。
方法論としてのヘテロ現象学では、その主観的認識の情報を第三者がデータとして閲することで得られる情報を、「あくまでその人はそのように体験しているもの」として扱うものです。
何故、主観的体験が、考察の対象になってはいけないのでしょうか?それは『客観的事実』ではないからでしょうか?
では、『客観的事実』とは何でしょうか。石に書かれた碑文のように間違いなく確かなものだけを取り扱って、人間と人間性を無視した客観的事実などというものは、仮令法の世界であっても受け入れるものではありません。
ですから、現在のような抑圧下にあっても、どうか自分自身の中にある自然発生的な気持ちに蓋をしてしまうことだけは、誰にもしないで欲しいというのが、わたしの主観的認識による願いです。

一般的にSNSにおいて、二次元創作界隈の大多数の人々は、わざわざ自ら腰を上げて争うことを望みません。たとえ、標的が自分であってもです。
或いは単純に、娯楽である二次創作界隈において不愉快なものは見たくないという理由から、公にマイナスな発言をすることは憚るべきだと公言しておられる方もいらっしゃいます。そのお気持ちはよく分かりますし、尊重したいと思いますが、本文においては取り扱いません。
多くの方は、ともすれば自分ばかりか、周囲に延焼してしまうことを恐れて、その思い遣りと不安から沈黙してしまうのです。自分たちが作ってきたもの、守ってきたものが壊されてしまわないか、大切にしているものが奪われてしまわないかと、恐怖と不安を抱いたままうずくまってしまうのです。
今回のケースも、中華BLという特殊な界隈ではありますが、事情は基本的に同じです。
そうした中での『No』の表明、声を上げること、疑念に関して明らかにすることを選択した前述の3名の方に関しては、守りに入る以外の選択肢があるということを、ひとりひとりが身をもって示してくださったように感じました。
めろ氏に辱められ、害意と汚辱にまみれた言葉を吐かれ、長期間にわたって耐え続けた人々は、恐らくはもう界隈に戻ってくることはないと思います。踏みにじられて、一度ぐしゃぐしゃにされた紙は、決してもう元の状態には戻らないのと同じです。踏みにじったその足は、何の痛手を被ることも無く、次の標的を探しているというのに。


しかし、当人の加害を告発、弾劾することと、加害者をセーフティから追い出すことは同義ではありません。
めろ氏は実際、公に「わたしを嫌う人はたくさんいる」「監視されている」などと公言しています。
これについての真意、理由はわかりません。ただ、彼女の攻撃性について、現在ここまでの加害、二次加害が広がっているにも関わらず、ご自身はつねに被害者であるという態度を取り、加害に関して具体的に口にすることが一切ないことから、
①加害自覚がない
②自覚していてもやめられない

のどちらかであるのは間違いないと判断します(現時点ではそれ以外に第三者が推測可能な選択肢はありません)。


前述項においての、『モラルハラスメント』について少し著述したことを思い出してください。
モラルハラスメントの『モラル』は、『道徳、倫理』という意味です。そして、『ハラスメント』は嫌がらせを指します。すなわちモラルハラスメントとは、「道徳や倫理を損なう嫌がらせ」であると定義します。この場合、「道徳や倫理を損なっている」のは加害者のほうです。
このモラルハラスメントとは、言葉や態度で相手の心を何度も傷つけて相手を操作し、精神的に追い詰める行為です。そして、繰り返しになりますが、一般社会におけるめろ氏の加害の定型様式は、明らかにこのモラルハラスメントに相当するものです。


興味深いのは、モラルハラスメントの加害者は、そのほとんどに加害自覚が無いことです。
横浜港北法律事務所の松平弁護士は、
「相手が苦しんでいるのに、加害者側に苦しめている自覚がないということが、モラハラの本質的な問題である」と述べています。
このことは先にも述べたように、圧倒的に『他者の視座』が抜け落ちているということを意味します。『他者の視座』とはすなわち想像力であり、これを無くして他者性を考慮することはできません。
また、モラルハラスメントは、当人が自分の加害を認識可能な状態にあっても、止めることができずに繰り返すケースが非常に多いものになります。
実際、モラルハラスメントが単一の心理パターンの元で行われているケースは非常に稀なのです。ほとんどの場合は、モラルハラスメントに及んでしまう心理的要因、原因となる問題が別に存在するのです。
ただし、このことについては、あくまで彼女自身が解決すべき問題であることから、これ以上の言及は避けることと致します。


【わたしたちは、それでもこのままでいるべきなのか】

わたしたちは今、身勝手な他者の害意の下で、その苛立ちや害意といった感情に振り回される立場にあります。仮に彼女がそうした意図を持っていなかったとしても、これまで繰り返されてきた彼女の振る舞いが、歪な道なりを作ってしまっている状態であることは、結果として間違いの無い事実です。
とはいえ、特定の誰かが加害を繰り返すことによって、自由に発言したり、行動することを制限されている人々がいるこの状態は、もしかすると放置していても、いつの日か何らかの形でなくなっていくかもしれません。 しかし、いずれなくなっていく可能性の有る無しではなく、直接的な加害行為、及び二次加害が発生し、到底自由な場とは言えない歪な状況が「今まさに」形成されていること、このことに対して、わたしは異議を申し立てたいのです。


ひとつ例え話をします。
『梅林止渇』は三国志演義の曹孟徳が、乾きに喘ぐ自軍に対し、「この場所を抜ければ梅の林があるぞ」と嘘をつくことで、兵士たちの口の中に唾液を生じさせ、のどの渇きを癒してどうにか士気を保った、というお話が元となる故事成語です。
これは、「現時点の問題を一時的に打開するために、偽りであれ別の何かの情報を利用して場をしのぐこと」を指し、クレバーさなど、主に良い意味で使われることのほうが多い言葉です。
今の状態を誤魔化して、いつかは、と耐える点には共通するものがありますが、曹孟徳は0か1かの賭けをしたわけではないでしょう。ある程度何がしかの展望があったからこそ、一時的に耐え凌ぐために行動することを選択したのです。
では、わたしたちはどうでしょうか。
「今では無いいつか」に期待して、いつか来る(或いは来ないかも知れない)日を待ち続けて沈黙し続けるのは、はたして賢い方法なのでしょうか。
これはまた、道徳的課題でもあります。
わたしたちは苦しんでいる人を知っています。それが苦しみの性質さえ捉え難い、自身と遥か遠いところで起きている事柄ならば、或いは見て見ぬふりもできましょう。
ですが、この狭い界隈の中で、次は誰が標的になるのでしょうか。次は誰が苛烈な嫌がらせの末に、界隈から去ってしまうのでしょうか。
それはわたしかもしれず、あなたかもしれないのです。


ここで前半の、「誰でも偶発的にめろ氏の加害に遭う可能性がある」 という事柄について振り返ります。
厳密に言うと、「めろ氏に目を付けられやすい人間」と、「恐らくは標的にならないであろう人間」の間には、少なからず溝があるように思います。
これまでのめろ氏の加害の手口からすると、多くは知らずにめろ氏に近づいて干渉した人々が標的になっています。
とはいえ、実際には暁薛ドロライ主催様のように、わけもわからず加害の標的にされた方もいらっしゃいます。そういう意味ではやはり溝はあったとしても、広く飛び火する可能性はあるということを示しておりますし、あまり積極的に二次創作界隈で交流をされていない方であっても、現在の界隈を「色々とけたたましい」と表現される有り様です。
果たして、界隈で何の不快感も感じていない人、すなわち二次加害を受けていない人はどれだけいるのだろうか、と考えずにはおられません。


これまでわたしたちは、この二次加害を『加害』と捉えることなく、ただ黙って耐えてきました。
無論、その中にはそれぞれの様々な理由、様々な意図があったことと思います。実際、わたし自身も冒頭部分で申し上げた通り、陰湿な空気にすっかり嫌気がさして、界隈から去る(逃げる)心づもりでいたのです。
しかし、わたしはこの告発には、公益性のみならず、道徳的価値がみとめられるものであると信じております。それはすなわち、この問題があくまで当事者間によってのみ言及可能であると考える強固な認識に対して、第三者から一石を投じられるものであると考えられるからです。
わたしたちは、それでもこのままでいるべきなのでしょうか。
繰り返しますが、これは道徳的課題でもあります。
不当な行いに対して、『No』が言えないという現状の息苦しさは、誰かが加害された(されている)ことの証であり、また、我々に対する二次加害でもあるからです。
すなわち現時点において、めろ氏の加害に対して、第三者はもはや部外者ではありません。したがって、黙って我慢し続けることには、自衛以外の意義はありません。
しかし、自衛という選択をすることも、決して誰かに糾弾されるようなことではありません。声をあげないこと=改革を望まない=沈黙に信を置く、という意思表示でもありません。そのみっつの文脈は、互いに答えを導き出せる関係にないからです。
ダイレクトに他者の害意に触れること、或いはその二次加害に遭うことで、ひとのレジリエンスは間違いなく低下していきます。先述のモラルハラスメントによるストレス反応も、こうした事象と相関関係にあるものです。仮にその苦しみを甘んじて受けろ、などという傲慢不遜な態度を取るのであれば、それはめろ氏の卑劣な加害とどれほどの違いがあるのでしょうか。


この項では主に、めろ氏の加害の影響によって、わたしたちがどのような立場にあるか、どのような立場に無いかを述べました。
これは、限りあるパイの取り合いでも、ゼロサムゲームでもありません。誰かの苦しみが除かれた同じ分、誰かが不幸になる訳でもありません。
わたしたちは、それでもこのままでいるべきなのでしょうか。


【最後に】

二次創作は、ひとりひとりが自発的に好きなものを楽しめる娯楽の場です。
創作側が誰かの権利や安全を侵害しないその限りにおいては、自然権に基づく自由権の範疇において我々の活動を侵害する権利もまた誰にもありませんし、ほとんどの人は、そこが議論や口論の場になることなどを望んではいません。実際に、その根本的な総意が、暗黙の了解になっているとも言えるでしょう。
具体的な意思表示を提示しようとすれば、意見を言うことそれ自体に疑問を持ってしまうというパラドックスが生じるのは、そうした理由からです。
二次創作という娯楽は個々の『好き』によって成り立ち、基本的に何が正しいか、何が間違っているかを吟味するということはなく、これほどの人間が雑然とする中、創作それ自体は諍いや対立へ向かう性質を持っていません。そして、二次創作文化においては多様な表現が尊重されると同時に、目を背けるのもまた自由なのです。そして今、その自由さえも遮っているのは、果して誰でしょうか。
しかし、そうした拘束力の少ない世界に在るからこそ、過剰に礼節を重んじるがゆえ、わたしたちは言葉を謹んできました。わたしたちは、その内容や意思表示に同意できないにもかかわらず、その行為をも、何の合理的理由もなく不本意のうちに尊重してきました。
合理的理由に基づく判断と行動は、身の回りの事柄について考え、調査し、理解し、改変するための、現在存在する最も知的な発想であり、どのような場合においても、最も強力な枠組みでもあります。
ゆえに、この枠組みが自浄作用として機能しない場合には、わたしたちは集団としての今の在り方に疑問を持つべきです。

そして、まさに今がその時なのではないでしょうか。
繰り返しますが、わたしはこの告発に即し、不特定多数の方々にめろ氏に対する加害を要求しているのではありません。めろ氏に対してわたし個人への謝罪を要求するものでもありません(但し、めろ氏には別件において謝罪、或いは弁明する必要のある事柄があるはずです)
私が示唆してきたことは、これによって問題に決着がつくかどうかということではなく、沈黙に信を置く人々に、いったいその直観がどれほど『自明』であるかを問ういとなみでもあり(声をあげないこと=沈黙に信を置く、という意味ではありません)、かねてよりめろ氏の繰り返してきた加害と二次加害について、沈黙をもってのみ対抗するは、もはや弔鐘を聴くばかりで何をも解決することはできないという認識に関する個人的な指摘でもあります。

どうか、余力ある同胞の方は、沈黙しないで共に声をあげ、行動していただけないでしょうか。
或いはお声をあげられなくとも、記事に賛同していただくだけでも構いません。メッセージで連帯の意を示していただくことはできないでしょうか。


二次創作文化の上に胡座をかいた不当で卑劣な行為、或いはそれに『No』が言えないという現状に対しては、公的機関が機能しない以上、意見を異にする者たちが協力して改善しなければない道徳的課題であることを信じ、これをもって告発の締めくくりと致します。
わたしは昨年の時点でこの界隈を去るつもりでいました(そうするのに十分なものを見て、十分な嫌悪を感じてきました)。けれどきっとまだ、すべてが手遅れになったわけではないと思います。

本文における加害者側に、指摘や意見、言い分や反論がある場合、【発言にあたっての前提】を共有の上、メッセージをいただければと思います。
内密な事柄であれば、仰っていただければ秘密は必ず守ります。
また、【発言にあたっての前提】において先述したとおり、守秘事項についてはお答えいたしかねます。


ここまで読んでくださったすべての方々に、感謝を申し上げます。
どうか、皆様のお力をお貸しください。
言葉が力になりますように。


しいたけ  
      

  

【参考】

https://twitter.com/toumin10kmh/status/1692861735974412421

https://twitter.com/XiaoXue_dw/status/1693210024158671135

https://twitter.com/blue_yue_/status/1663505946923122688

□𝕏社ヘルプセンター
□ダニエル・C・デネット著   解明される意識
□ダニエル・C・デネット著   思考の技法 直観ポンプと77の思考術
□リチャード・ドーキンス著   悪魔に仕える牧師
□苗野/紡音ゆび子著   あにまるえしっくす1
□弁護士法人デイライト法律事務所
□横浜港北法律事務所

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