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雑誌報道記者だったわたしⅠ

わっ! エンディングテーマ、シンディ・ローパーかよ。まいったなぁ。会ったよ、わたし、東山くんの対談で。やだなぁ、とことん思い出しちゃうもんだなぁ、やられたなぁ、、、、、、

泣けない私が、久しぶりに泣きそうになった。日テレ開局70年記念SPドラマ「テレビ報道記者」。


日本テレビの女性記者ほか80人を取材した上で構成したノンフィクションというふれこみで、1983年から2020年に渡る大事件を背景に、仲間由紀恵~木村芳乃~江口のりこ~芳根京子演じる歴代4人女性記者たちの奮闘を時代を追って描いていた。
リアルだった。あまりにリアルで胸に迫った。
あの(ような)現場に、わたしもいたことがある。
忌み嫌ったこともある。さっさと辞めてやるとも思ってもいた。でも、ほんとうに現場を離れたいま、ただただなつかしい。
ものかきとしての土台を築いてくれた数年間だったんだろうと思う。
雑誌報道記者としての経験を書いてみたくなった。

報道記者としての期間は短い。たぶん5年ほどだ。最後は、ほとほと参り、とことん疲れ切って、わたしは逃げた。仲間由紀恵が演じた曽根京子が全く同じセリフを吐いていて、驚いた。

曽根はだいだい同世代かなぁと思って観ていたけれども、どんぴしゃ同い年の設定らしい。1981年入社といえば、わたしが普通に4大卒業後に就職した場合と一致する。

初の総合職と言っていたけれども、学生時代からフリーで働いていたわたしに総合職の自覚はなかった。だから、ピンと来なかったが、同年の女子たちは初の総合職ということで就職した人が多かったように思う。

ただ、あのころはまだ、会社側の準備が整っておらず、女子総合職をどう扱ったらいいのか戸惑っている感じだったらしい。友人たちから口々に、名ばかりの総合職に対する不平不満を聞かされた記憶がある。何もさせてもらえない。これならまだ一般職として、お茶汲みをさせてもらえるほうが良かった、と。

正式に、男女雇用機会均等法が施行されたのは調べてみたら昭和61年4月。1986年ということは、わたしが再上京した年だ。それまでの準備期間に総合職になったわたしの同級生たちは、夢破れて退職する人も多かった。

ドラマにあったように、結婚=退職があたりまえだった。結婚か仕事か。女性は当然のように二者択一を迫られた。25歳は売れ残りのクリスマスケーキと呼ばれたものだ。

そんな時代に、曽根は仕事を選び、枕営業などと聞こえよがしに陰口を言われながら、初の女性報道記者としてオウム事件の現場に立った。すごい人だと思う。
そこまで報道記者という仕事に誇りをもち、仕事にかけてきたにもかかわらず、退職を決意し、そして言う。
「わたしは逃げた」と。

「男に生れたかったわけじゃない」と言い放った苦渋の思いが胸を打つ。彼女は「女だ、男だと差別されない社会に生れたかった」んじゃないだろうか。
昇進できないことを不満に思って辞めたんじゃない。どんなに頑張っても、女は女でしかなく、男社会のなかで一人前にカウントされないんだと絶望して辞めた。
最後まで諦めずに、男女平等の社会実現まで踏ん張るべきだったのに、できなかった。それを「逃げた」と表現したように思う。

わたしは違う。もっともっとへっぴり腰で、もっともっと安易に逃げた。さっさと逃げた。
「男に生れたかった」とブーブー言った。男だったら、頑張れるのに、女だから体力もなくて頑張れないと、女であることを言い訳にした。同じ逃げるでも、えらい違いだ。

結局は、このnoteに書いたように、股関節が痛くなって手術をしたのをきっかけに報道記者から徐々に脚を洗っていったという流れなのだが、あのときわたしは心底、ホッとした。これで正々堂々ニュースの現場を離れられる。わたしは病気を言いわけに逃げたのだ。

それでも、いま思うのは、たった5年の雑誌報道記者時代が、いかにわたしを鍛えたか、わたしの土台を作ったかということだ。
あまりに長くなるので今回はここまでにするけれども、おいおい続きを書いていこうと思う。うろ覚えではなく、かつての記事なども探して、照らし合わせて書き残したいと思う。
また、マガジンになるのかな。

腰痛がかなり治ってきたようでで、最近は長く座っていられる。長文も書けるようになってきた。ちなみに、今日(8日)は国際女性デーなんですね。
ギリギリだけど、せっかく女性の働き方について書いたから今日中にアップします。





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