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禁句の呪縛、今でも言えないその言葉

私にはその言葉を発することに強い抵抗があり、日常生活で使うことをためらってしまう言葉がある。その理由は今から約20年前の会社での日々の生活の中にある。

私が最後に勤めた会社に入社したのは、2004年の6月だった。
当時、会社は社外からコンサルタントを招いて全社を挙げて業務改善に取り組んでいた。

活動は「(仮称)無駄排除プロジェクト」と命名され、コンサルタントが作成したプログラムに従って無駄をなくすための活動を日々行なっていた。

まずは業務解析である。社員全員が日々の業務を15分単位でまとめて上司に報告し、上司はそれらを分析してそこに潜む業務の無駄を洗い出す。そして、改善のための施策を個々の組織で決定して実行し、その成果を業務解析で確認するといういわゆるPDCAを回す。

このプロジェクトの陣頭指揮を取っていたのが、当時の社長だった。今回はその社長の話である。

プロジェクトの成果発表会が毎月行われ、そこには社長をはじめとする会社の幹部が全員参加した。社長は非常に厳しく、かつ鋭い視点の持ち主で、発表内容に対する指摘を受けるとほとんどの社員は、返す言葉がなくなるほどだった。

その厳しさをもっとも表していたのが、「禁句の数々」である。

当時は「禁句集」なるものを社員は持たされており、常にその言葉は使わないようにしていた。それらのほとんどは「あいまいな表現」だった。代表的なものは「努力します」や「思います」などである。

考えてみれば、当たり前のことである。ビジネスの世界では上司は部下にコミットメントを要求する。つまり、「いつまでに何をどうするのか」である。そこには「努力」などという言葉はありえない。ましてや、「思います」なんぞは論外なのだ。

社長は4年ほどで定年となり、その後はこの「禁句」も事実上は解放されたのだが、4年もの間禁止されていた言葉は、いざ使おうと思っていも使えないものである。

ところが、国会中継を見ているとこれらの言葉が乱用されている印象さえ受ける。野党から追及を受けた大臣が決まって使うのが、「その点に関しましては、〇〇の方向で今後努力させていただきます」というフレーズの言葉である。

なんともいい加減な表現である。これは、「何もしません」と言っているのと同じなのだ。いずれ時間が過ぎて、「例の件はどうなりましたか」と質問されれば、「努力致しましたが、実施は困難でした」などと言えばいいのである。

ところで、すでに会社を退職したので、家庭では「努力します」などという言葉はつかわないのだが、困るのが「思います」である。

この言葉は普通に使っても問題ないにも関わらず、いまでも克服できていない。モーニャン(妻)からの「〇〇はいつするの?」という質問に対して、「〇〇までにはしようと思う」と言おうとすると、頭の中で「『しようと思う』じゃないだろう!『します』だろ!」と言っている当時の社長の顔が浮かぶのである。

本題からはズレるが、もう一つ彼に関してよく覚えていることがある。それは時間に遅れることに対する指導である。彼は、30分遅れたものよりも数分遅れたものをひどく叱責した。

時には会議の5分前になると会議室の鍵を閉めて遅刻者をシャットアウトした。かれの言い分はこうである。

「30分遅れるのは、ほとんどにおいてどうしようもない理由があるのだろう。しかし数分遅れるということは時間のコントロールができていない証拠である。参加する会議への思いが足らない。そんな奴は会議に出る必要はない!」

とにかく厳しかったのである。

しかし、不思議とかれは怖がられこそしたが、嫌われることはなかった。それは、誰もがかれの言っていることに深く納得していたからだろう。

また、厳しいだけではなく、目標にに向かって労を惜しまないものへのねぎらいを決して忘れなかったこともその理由だろう。

今の時代、受け入れられないトップなのかもしれないが、私は不思議なくらいその頃のことを懐かしく思い出すのである。今でも「思います」は使えないけど。

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