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#5 スキークラウンホルダーインタビュー 我流で技術を磨き全中まで出場!高3で国体出場を決めるも…【HN:カナデさん】

【今回のクラウンホルダーは…】

「地元の小さなスキー場でスキーを始めました。チームには属さないまま父親に連れられて兄弟で各地のポールの大会を転戦していました。個人で練習しているので、ポールの技術も本番で学んでいきましたね。競技スキーしか知らず、競技引退後はスキーから離れていたけれど、社会人になってから、痛板の会で知り合った人たちと楽しむ今はすごくスキーが楽しい!」
そう語るカナデさんのスキー観に迫ります。
カナデさんTwitter


【クラウンホルダーにこんなこと聞きました!】

①クラウンプライズの合格証を見せてください!




②いまの年齢を教えてください。

→29歳
 

③お住まいはどちらですか?

→現在は長野。クラウン取得時は愛知。生まれは京都です。
 

④初めてスキーしたのはいつですか?

→3歳くらいだったそうです。
 
Q:生まれは京都ということですが、花瀬スキー場や広河原スキー場がホームゲレンデですか?
→小学生の頃までは花瀬スキー場でも滑ってましたね。ただ僕が子供の頃にはもう閉業してしまっていて、ただ斜面があるだけでしたね。地域でTバーリフトを設置してるだけで、当然ピステも入っていませんでした。親がよく連れて行ってくれてたので、小さい時から遊び感覚でやってましたね。
 

⑤スキーを本格的に始めたのはいつですか?

→小学5年生
地元で競技スキーをやってました。でもジュニアには入ってなかったですね。父親の運転する車に乗って各地を転戦していました。小4の時にいきなりポールの大会に出されて(笑)、それからは毎週のように兄弟で大会を転戦していました。普段の練習は個人でやっていて、ポールとか立てられないので、ポールの技術は本番のレースで学んでいきました。
 
Q:その間誰かにスキーを誰かに教えてもらったりはしたんですか?
→高校でスキー部に入るまで、教えてもらったことはなかったです。全中にも出ることができましたが、そのときも自己流、我流のままで出ていました。中1の時に公式の全中の予選に出たら、普通に通ってしまいましたね。まぁ、競技人口がそんなに多くなかったので、というのもあるかと思います。それと小4からずっと大会に出ていたので、緊張感ある中で滑るというのは、なんならジュニアの子たちよりも慣れてたのかなと思います。
 
Q:京都市内(左京区)といえども花瀬はもはや雪国だと思いますが、競技人口は少なかったんですか?
→学校で授業や部活はあるところもありましたが、ジュニアのクラブはない地域でしたね。地元のスキークラブはありましたけど、籍を置くためのものというか、そこでメインで練習をするとかそういう類のものではなかったですね。小学校の同級生とかにもスキーを一生懸命やる人はいなかったですね。僕の中学ではスキー部もなかったです。
 
Q:ご兄弟もスキーをされていますよね?
→そうですね。3人男兄弟で僕は末っ子なんですが、上2人ともやってますね。真ん中の兄が一番上手くて国体とかも出ていました。
 
Q:そのお兄さんは名門・飯山南高校に進学されていると思いますが、お兄さんも自己流ですか?
→そのはずです。上の2人も僕と同じように草大会に出て練習して我流で上手くなっていますね。
 
Q:草大会を転戦しながらのスキーというのは楽しかったんですか?
→今思えば楽しかったですかね。でも当時は土日遊びたいなと思っていたので、めちゃくちゃ面白かった!という気持ちではなかったですね。何しろ金曜日の夜に出発して、日曜の夜に帰ってくるという生活だったので、遊ぶ時間はほとんどなかったので。でも不満を言うと怒られそうなので、僕も兄たちも「スキーが嫌」と口に出すことは一度もなかったですね。大会に出たら上位になれたので、その満足感もありましたね。
 
Q:カナデさんのお父様がお子さんのスキー教育にそんなに熱心だったのは何故なんですか?
→それが分からないんですよ。父は別にスキー上手くないし。母にいたっては沖縄出身だし(笑)。今でもたまに兄弟で会う時に「なんで父はあんなに熱心だったのか?」ってみんなで不思議がってるんですよね。
 
Q:当時は特にそれほど好きというわけでもなかったスキーですが、今は「スキーをやっといて良かったな」とは思っていますか?
→思っていますね。人間関係が広がったというか、色んな友達が出来て良かったなと。父が一生懸命スキーに連れだしてくれたことで、今の自分があるなと思っています。父にあらためて感謝したいですね。人生で唯一の得意なことと言えるようになりました。
 
Q:高校の進学先はどうやって選ばれたんですか?
→実は当時自転車にハマってたので北桑田高校という自転車競技部のあるところを進学先として考えていたんです。でも、福知山成美高校から「学費免除するからスキーでうちにこないか?」というお話をいただいて、家がそんなに裕福なわけじゃなかったので、「それなら」ということで福知山成美高校に進みましたね。
 
Q:スキーで他の高校に行くという選択肢はなかったんですか?
→全中には出ていたんですが、「スキーを頑張ろう」という気持ちはあまりなかったですね。だから「スキーをやるための高校選び」という発想が自分にはなかったんです。当然どこの高校がスキーが強いといかって知識もなかったですし。
 
Q:道具代とかはどうされてたんですか?
→小学校4年生の時に初めてカービングスキーの板を買ってもらったんですが、それ以外は基本兄からのおさがりでしたね。大会用のストック、ワンピしかり。あとは中古だったり、兄づてで安く譲ってもらったり。板も新品で買ったのって、高校までで4回あるかないかくらいだと思います。
 
Q:高校のスキー部の成績はどうでしたか?
→初めて先生がついて、色々教えてもらったのでだんだんと上手くなってきました。
2年はあまりよくありませんでしたが、3年生の時は自分なりにスキーを考えながらやってたので調子は良かったですね。でもインターハイ予選でインターハイ決まった後の国体予選で、左ひざの前十字靭帯が切れてしまったんですよね。
 
Q:それまで我流でスキーをやられていて、初めて他の人から指導を受けて戸惑いはなかったですか?
→最初は何も分からなかったですね。外足にのるとか、ポジションがどうとか、外向傾がどうとか、言われたんですが、専門用語が全く頭に入ってこなかったです(笑)。言葉と運動が一致しないんですよね。だから最初はちょっと詰まりましたね。でも、ビデオ撮ってもらって、それを見返して、その反復で成績は出るようになりましたね。
 
Q:高校生の時はスキーを楽しめていましたか?
→楽しくもありましたが、やはり厳しかったので辛い部分もありましたね。
 
Q:高校卒業後はスキーとはどう向き合われたんですか?
→大学は龍谷大学のスキー部にスポーツ推薦で入ったんですが、大学自体を1年で辞めてしまいました。
 
Q:それはどうしてですか?
→高3の時に凄く調子が良かったんですね。B級大会でも上位の成績が出てたんですけど、その時のイメージが凄く強く残ってたんです。でも、靭帯を切ってしまって、そこから再起して1本目の滑走で全然上手く滑れなくて…「あぁ、これはもうダメなんだな」って思って、気持ちも切れちゃって競技はやめちゃいました。
 
Q:大学を辞められた後はどうされたんですか?
→1年間フリーターをしてました。めちゃくちゃ遊んでましたね。その時に彼女が出来たんですが、フリーターだと格好がつかないなと思って、それで自衛隊は国家公務員だし恰好つくかなと思ってそれで入りました。当時は岡山にいたので、岡山の応募で入って、四国で訓練して広島に配属されましたね。
自衛隊は2年いてその後は建築機械のレンタル会社の整備士になりました。整備技術はどこで習ったとかはなくてイメージで習得しました(笑)この仕事が2年くらい。その後タンカー船の乗組員を1年やっていましたね。
 
Q:その間スキーはどうされてたんですか?
→全くやってませんでしたね。大学やめてから25歳の時まで5年間はスキーの滑走日数は0でしたね。ほとんどスキーのことを考えませんでした。
 
Q:スキーを再開されたきっかけはなんだったんですか?
→スキーとかスノーボートの板に大々的にアニメをプリントした『痛板』で滑る人たちをYouTubeで見たんですね。で、自分もちょっとオタクなところがあって、アニメとかも好きなので、「これやってみたい!」って思ったんです。で、実際にそれに参加して、出会った人と友達になって、またスキーを再開しました。
 
Q:グループに入った中ではカナデさん凄く上手かったんじゃないですか?
→普通に滑るということでは上手い部類だったのかもしれません。ただそれまでアルペンしかしたことなくて、一般の人たちと滑ったことが全くなかったので、一般のスキーヤーの中に入ったら技術的に自分が位置にいるのかよく分かっていなかったし、意識もしてませんでした。それと『痛板』のグループではツインチップの板やスノーボードでキッカーやレールをやるような人が多くて、そっちの方向で凄い人がいっぱいいたんですね。だから、自分は普通のスキーはできるけど、こういうのは出来ないから凄い!こういうの自分もやりたい!!って思いました。
 
Q:痛板でスキーを再開したカナデさんにとっては初めての遊びのスキーであり、初めて(競技じゃない)一般のスキーヤーとのスキーだったと思いますが、どうでした?
→めちゃくちゃ楽しかったですね。すぐにハマりました。
 
Q:ただ、痛板に入られた後も香川県の国体に出られてると思うんですが、それはナゼなんですか?
→高校の時に靭帯のけがで国体に出られないまんまに終わってしまったという思いがあったんです。だから自分の中でけじめをつけたいと。それで、国体に出たらけじめがつくかなと思いました。
 
Q:なぜ香川県から国体に出られたんですか?

→その時はタンカー船で仕事してたんですが、香川籍だったんですね。それで香川県で国体予選に出たんです。香川は縁もゆかりもなく、住んでただけだったんですが(笑)
 
Q:国体前に県の選手たちで集まったりすると思うんですか、どんな雰囲気だったんですか?
→他の方はみんな昔からの顔なじみで、僕だけが「お前誰?」という雰囲気でしたね(笑)。僕は予選会の時に滑走順序が最後だったんです。アルペンは滑走順序が最後だとタイム出にくいので、僕がスタートするときは、おおかたの順位は確定しているという空気が会場にはあったし、香川県では誰も僕のこと知らないから、2位でゴールしたときは「誰、こいつ!?」という感じになりました。でも最終的には他の選手の方とも仲良くなれました。
 

⑥-1 2級とったのはいつですか?/どこで取りましたか?

→令和3年1月30日。八千穂高原スキー場
 
-2 何回目のチャレンジですか?
→1回目
 
Q:そもそもスキーをやられてかなりになるのに、なぜこのタイミングで検定を受けようと思ったんですか?
→実は2級を受ける1週間前に乗鞍で左の側副靭帯を切ったんですね。それまでフリースタイルとかスノーボードをやっていたのですが、しばらくは激しい運動は出来ないから、せっかくなのでこの機会に(フリースタイルやスノーボードほどは激しくない)基礎スキーで検定を取ろうと思いました。 

⑦-1 1級とったのはいつですか?/どこで取りましたか?

→令和3年1月31日木曽福島スキー場
 
-2 何回目のチャレンジですか?
→1回目

⑧-1 テクニカルとったのはいつですか?/どこで取りましたか?

→令和3年2月7日 国境スキー場
 
-2 何回目のチャレンジですか?
→1回目
 

⑨-1 クラウンとったのはいつですか?/どこで取りましたか?

→令和3年2月15日木曽福島スキー場
 
-2 何回目のチャレンジですか?
→2回目
 
Q:クラウンを受けてみてどうでしたか?難しいと思いましたか?
→難しいと思いましたね。菅平で1回目を受けて落ちたんですが「難しいな」と感じましたね。
 
Q:とはいえすぐに2回目を受けて合格されていますよね?1回目を踏まえてどう修正したんですか?
→修正というより、自分がやって後悔しない滑りをしようと思いましたね。落ちた時に何がダメだったのか?と考えた時に、楽しく滑れてなかったなと感じたんです。ガチガチに緊張してしまってて。このまま終わったら次はもう受けないだろうなと思ったので、次は点数どうでもいいけど、楽しく滑ろう、そう思いました。で、調べたら次の日に木曽福島で検定があったんです。
 
Q:カナデさんから見て「クラウン」というのはどんな検定だと感じましたか?
→スキーの「上手さ」を表現する、のがクラウンだなと思いました。競技は速さで、クラウンは見せる滑りができないとダメなんだなと。あとはツインチップの板だったり、スノーボードをやっていたのが大きかったと思います。アルペンしかやってなかったら普通に落ちてと思います。やること、求められることが全然違いますよね。コブなんて競技の時は滑ったことなくて、痛板で「コブ滑りましょうと」言われて滑ったのが初めてでしたし。これはこれで凄いスキーの世界だなと思いましたね。
 

⑩年間滑走日数は何日ですか?

→30日
 高校の時は100日くらいですね。高校の時は1月から4月までずっと学校いってなかったですね。ずっとスキーしていました。大学の時はすぐにやめてしまったので5日程度ですね。スキー再開してからは40日前後ですね。でも今年はまだ3日くらいで全然滑れてないです。

⑪ホームゲレンデはありますか?/どこのスキー場ですか?

→特に決まってはいませんでした。

⑫スキーにはどうやって行きますか?車/電車/バス?

→車

⑬定宿はありますか?

→基本は車泊

⑭普段は誰と行きますか?

→1人で行って、現地で友人と滑る感じです。

⑮クラブやサークルには入っていますか?

→高校の時にスキー部でした。

⑯レッスンは受けていますか?特定のコーチがいますか?

→高校では競技スキーをしており指導を受けましたが、それ以外では特には受けてません。

⑰年間スキーに使うお金は?

→使用ギアはリサイクルショップ等の中古で、他は移動費・リフト券代・食費程度。年間15~30万程かと思います。
 
小学校~中学までのお金はわからないですね。でも、宿も泊まったことないし、いつも車中泊だったので、そんなにかかってなかったんじゃないかな。高校生の時は50~60万円はかかってたかなと思います。大学はアルバイトして貯めた15万円持って合宿行って、それで終わったので15万円ですね。
 
スキー再開してからは、移動費がほとんどですね。新しくマテリアルを買ったりはしてないです。全部リサイクルショップとかで買ってますね。国体出た時の板もヤフオクで買いました。エッジが1㎜ちょっとしかない奴でした(笑)

⑱スキーをするために仕事や家族の理解を得るように工夫していますか?

→基本土日に滑りに行く程度なので職場では特に工夫はしてません。また、独身なので家族等へも上記に同じです。

⑲クラウン取ってからスキーへの取り組み方/楽しみ方は変わりましたか?

→漠然とスキーが上手い人って評価から、ちゃんと資格として認められたので友人等から教えて欲しいと言われる様になりました。クラウン取るまで自分の中で自信をもって「こう滑るんだよ」と言えない部分があったんですけど、自信がつきましたね。それから、検定等を見ていた人ともTwitterを通じて友人になりスキー場で会うと一緒に滑る様になりました。
 
現在は検定の時にお世話になったスキー場の社長とのご縁があり、系列のスキー場の社員として働いています。御岳2240というスキー場があって、そこと木曽福島のスキー場の経営者が同じなんですね。そこの社長が僕と同じで木曽福島でクラウンとってるんですが、その縁で支配人とかによくしてもらってたんです。で、前の会社をやめようかなとツイートしたところ、木曽福島の公式アカウントから「じゃあ、うち来る?」とDMを頂いて、それで今に至っています。
 
スキー場の社員として働きだしたというのもありますが、レジャースキーヤーに目を向けるようになりましたね。僕は競技スキーを長年やってきましたが、競技とは全然世界が違う一般の人たちにスキー場に来てほしい、いっぱいスキーを楽しんでほしいなと思いますね。上手くなるという目線で言っても、レッスンを受けるのももちろん良いのですが、ポールやったりキッカーやってみたり色々やったほうが良いと思いますね。
 
Q:そう思われるのは何故ですか?
→僕自身、ボードやツインチップ、テレマークなど色んなことをやってスキーが上手くなったなと感じたからです。それがあったからクラウンを取れたなと感じています。自分が楽しいと思えることをやるのが一番上手くなると思うんです。僕は競技スキーをやってスキーが上手くなったわけですが、競技だけだったら今ほど上手くはならなかっただろうと思います。クラウンも落ちてたんじゃないかと思いますね。
 
Q:高校時代のスキー部の方々がまだスキーを続けられてるかどうかはご存じですか?
→分からないですね。でも、香川の国体に出た時に、高校の時に一緒にやっていた人の名前を見つけた時はなんか嬉しかったですね。競技でないにしろ、指導者だったり何かしらの形でスキーを続けてほしいですね。
 
Q:今後はスキーを一生続けると思いますか?
→痛板とかクラウンとって出会った人とオフシーズンで遊ぶようになったんですが、共通点はスキーなので、続けることになるかと思いますね。クラウンに受かりましたが、自分の中ではまだそんなに上手くないと思ってるんですね。相変わらずツインチップとか乗ったりしてると、別の分野でもっと上手い人がいて、スキーの高見がまだ一杯あるなと感じてるので、そこに挑戦していきたいですよね。

【スキークラウンホルダーのアンケート回答まとめ】※年齢は2023年1月時点

【スキークラウンホルダーのキャリアまとめ】

【スキークラウンホルダーの話を聞いて…】

小4から草スキー大会を転戦して、コーチに教わることなく腕を磨いていったカナデさん。
競技引退を機に一度スキーを離れてからは、これまでと違ったアプローチでスキーと向き合われています。ツインチップ、テレマーク、キッカーと自分が「自面白い!」と思えるものに色々と挑戦することで、スキーの技術そして楽しみ方に幅が出来たというお話が特に印象的でした。

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