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#8 スキークラウンホルダーインタビュー 「スキーにコンプレックスがあった。合格証は、ようやく辿り着いた“卒業証書”」【山口一朗さん】

【今回のクラウンホルダーは…】

「僕もスキーに対してコンプレックスありましたね。中1の時にスポーツ少年団に入って『競技スキーをやれ』と言われたんですが、ポールをくぐった経験がなかったのでうまく出来ず、それで1日で練習が嫌になりましたね。それから自分はどう頑張ったってオリンピックに出られるようなレベルにはないって思ったら、スキーが嫌いになって、大学入学までほとんど滑りませんでした」そう語る山口さんのスキー観に迫ります。

【クラウンホルダーにこんなこと聞きました!】

①クラウンプライズの合格証を見せてください!


②いまの年齢を教えてください。
⇒57歳
 
③お住まいはどちらですか?
⇒大阪府
 
④初めてスキーしたのはいつですか?
⇒母に聞いた話だと3歳ごろだったそうです。そういえば、北海道旭川市に住んでいた幼いころ、キトウシ(現在のキャンモアスキー場、北海道東川町)に行ったことがあったような気がします。
 
自分としては気付いたら滑れるようになってた、という感じですね。1年生で4級、3年生で3級、5年生くらいから2級を何回も受けて、6年生、現在のわっさむ東山スキーで2級に合格していますね。もともと小学1年生の時からスキーの授業があるような地域だったので。
 
Q:スキーが盛んな地域だったんですね?
そうですね。北海道は大きく分けて、スキーが盛んな地域とスケートが盛んな地域とがあるんですが、僕が住んでたのは前者の地域でした。ただ物凄く盛んだったかというとそうでもなかったと思います。
とはいえ、スキーの有名人もいっぱい出ていて、上手い人は多いですね。中学校で2級を持ってる子はそんなに珍しくないです。スキー部なんかだと1級を持ってる子もいますからね。
 
Q:子供の頃はどの程度スキーに行かれてたんですか?
⇒小学校の頃は家族と一緒にと、学校の授業とで年間7日程度いくくらいですね。車とかバスで行ってましたよ。
 
Q:スキーが盛んな地域だと、スキーへの熱量やスキーの技術に関する格差が激しくて、スキーに対してコンプレックスだったり、スキーが嫌いな子もいると聞いたことがあります。山口さんはいかがでしたか?
⇒僕もスキーに対してコンプレックスありましたね。中1の時にスポーツ少年団に入って「競技スキーをやれ」と言われたんですが、ポールをくぐった経験がなったのでくぐることが出来ず、それで1日で練習が嫌になりましたね。それから自分はどう頑張ったってオリンピックに出られるようなレベルにはないって思ったら、スキーが嫌いになって、大学入学までほとんど滑りませんでした。それで中学・高校はスキーから離れて、剣道と水泳、それからバスケをやりました。
 
⑤スキーを本格的に始めたのはいつですか?
⇒ 大学生でスキーを再開してからです。「本格的に」をSAJの級を取った時と考えると、小学1年生でしょうか。北海道の風連町営スキー場(当時。現在は、名寄市の風連スキー場)で、4級を取りました。3年生でやはり風連で3級。2級を取るために、真剣になったのは6年生だったと思います。その頃に通っていたのは、名寄市の菊山スキー場(現在は廃業)でした。でも、大学生でスキーを再開してからが本当に本格的にスキーを始めたといえると思います。
 
⑥-1 2級とったのはいつですか?/どこで取りましたか?
⇒1978年3月で、12歳。北海道和寒町の東山スキー場(現わっさむ東山スキー場)です。
-2 何回目のチャレンジですか?
⇒4回目
 
⑦-1 1級とったのはいつですか?/どこで取りましたか?
⇒1987年1月で、21歳。当時、居候していたホテルのあった信州・黒姫高原スキー場です。
-2 何回目のチャレンジですか?
⇒1回目
 
Q:なぜ大学でスキーを再開されたのですか?
⇒まず大学で何かスポーツをやりたいと思ってたんですね。それに加えて、大学入学当時自分が持ってるスキー2級は中途半端だなと感じてて1級が欲しいと思ったんです。あとは、「本州でだったら勝てる!」という甘い考えもありましたね。で、丁度僕が大学入学した年の3月に関西大学のスキー同好会ZOOが関デモで初優勝していたと知って、強いチームだったので、「よし、ここに入って強くなろう」と思いました。
 
Q:北海道出身の山口さんが関西の大学でスキーを再開されてどうでした?同級生と比べるとやはり上手かったんですか?
→ZOOに限らず、関デモ全体でも、同期でいうと2級以上を持っていた人はほとんどいなかったと思います。「2級」というインパクトもさながら、卒業した中学校が富良野市だったので、それだけで他のチームの先輩にも「富良野の子や!」と覚えてもらえるほどでした(笑)。でも、ZOOの上級生はほとんど1級だったので、先輩たちに早く追い付きたいなと思いました。基礎スキーの関西のチャンピオンチームなのでやはりレベルは高かったですよ。あとは北海道と内地とで雪質が結構ちがうので、雪が重くてびっくりしましたね。

 
Q:大学生になって嫌いだったスキーに夢中になれましたか?
→スキーが好きになったかというとまた違ってて、1級を取りたいという明確な目標があって、それでスキーを頑張ってたという感じですね。1級を取りたい、それからテクニカル、クラウン、そして大会で上位に入って賞状をもらいたい。その中でも、一番大きかった気持ちは、「ZOOの関デモ連覇の役に立ちたい」でした。
 
⑧-1 テクニカルとったのはいつですか?/どこで取りましたか?
⇒1988年3月で、22歳。関西学生基礎スキー大会(関デモ)が開かれていた信州・戸隠スキー場です。
-2 何回目のチャレンジですか?
⇒2回目
 
⑨-1 クラウンとったのはいつですか?/どこで取りましたか?
⇒1990年2月で、24歳。ホームゲレンデだった白馬・岩岳スキー場(現・白馬岩岳スノーフィールド)です。
-2 何回目のチャレンジですか?
⇒5回目で、その春には就職して「板を脱ぐ」ことを決めていたので、実質ラストチャンスでした。
 
Q:クラウン取得で苦労した点や壁は何ですか?
→クラウンは6種目あって、当時は2種目以上70点未満だと不合格になりました。岩岳での5回目のチャレンジは、苦手なポール(制限滑降)が何とか無難にできたと思ったのですが、なぜか総合滑降は過去4回の受検でもいつも点が出なかったので、「合格してもギリギリだろうな」と思っていました。何がダメということでもないんだけど、上手く滑れなかったんです。最終的に岩岳で合格したんですが、「この時期、この時間帯ならこういう雪で、こう滑ればいい」という地の利はありましたね。結果的に、パラレルターン、ウェーデルン、ステップターン、ゲレンデ・シュプルングがどれも71点で、総合滑降は68点。制限滑降が合格だったので、「1種目不合格のみ」、かつ合格ラインプラス2点の「352点」だったので、何とかクリアできました。合格発表のあとに、山口が受かったという話にスクールでなり、ある先生は「検定員甘すぎだよ!」と言ってましたが、また別の先生は「ちゃんとした資格をもった先生が見たんだから、自信をもっていいぞ」と言ってくれました。
 
Q:クラウンに合格されて高校生までのスキーのコンプレックスは克服できました?
→回答が難しいですね。ずっと自分は下手だと思ってたし、今でも思ってるんですね。上手い人は周りにいっぱいいたので、そういう人と自分を比べてしまうので優越感みたいなものは一切なかったですね。
クラウン取ってもこの程度の滑りしかできないのか!?と愕然とすることもありました。実際その年の関デモでも、クラウン取得の前年が2位で、同率2位だった先輩は翌年抜けて、優勝者も出場してなかったので、その年は優勝候補筆頭だったんですが、結果は4位でしたからね。何かが足りなかったのでしょうね。
 
Q:大会で北海道のスキー仲間と会うことはありましたか?
→高校の同級生で、岩岳の大会の女子個人戦で連覇を果たしていた小助川麻理さん(当時小樽商大)とは大会直前に岩岳のゲレンデで偶然会って話したことはありましたね。「私上手くないんだよね」と言われましたよ。だから「何言ってんだよ、自信もって滑れよ!」と言いました。岩岳3連覇は逃しましたが、技術戦にも出ていたし、向こうの方がずっと上手なんですけどね(笑)。ちなみに彼女は高校時代に卓球部員で、スキーは高校の授業だけなんですよね。全国大会で成績残してる選手が高校時代は卓球部だって知ったら驚きますよね。
 
Q:大学卒業後はスキーを滑らなかったんですか?
→そもそも社会人になってからスキーをやるつもりがなかったですね。続けられないだろうと思ってました。新聞記者は忙しいし、持ち場(担当地域)を離れる時に職場に1時間に1回は連絡を入れないといけなかったりと、スキーをする上での制約が少なからずあったので。
なので、スキーにいったのは本当に数える程度です。福井支局に勤務となった時も、人事担当の上司から「スキーばっかりやるなよ」と釘を刺されましたが、もう全然そんな気はなくて。会社の同僚で滑りに行こうという話も1度あったんですが、僕は当直勤務明けで遅れていった時にはみんなもう「疲れた」と言って先に帰っていました。僕も2本だけ滑って帰ってしまいました。あとは、奈良支局で勤務していた時に、先輩から「スキーの記事かけるだろ?」と言われて記事を書くために滋賀県のスキー場に1日行ったりとか、2011年と12年に、広島の文化センターで勤務した時にスキー講座を企画して受講生の皆さんと一緒に行ったりとか。そのくらいですね。
 
Q:2011年、12年に久しぶりにスキーを滑った時の感想はいかがでしたか?
→下見で行ったときには、道具をレンタルして滑ったんですが、スキーが違っててビックリしましたね。カービングスキーを履いて滑ったんですが、体力も技術も落ちてるハズなのにこんなに簡単にターン出来るのか!?と。スキー講座の本番では、買っただけで十年ぐらい乗ったことがなかった小賀坂のスキーを初めて履いて滑りました。
 
Q:久々のスキー楽しかったですか?
→自分がどうこうというよりは、受講生の皆さんと一緒に行ったのですが、「普段は運転のためにお酒飲めないのに、今日は飲めて良かった」という声を聞いて、スキーを楽しんでもらえてよかったなという気持ちが強かったですね。
 
 
⑩年間滑走日数は何日ですか?
⇒クラウンを取ったシーズンを含む4年間(大学時代)は約70日でした。この10年間は全く滑っていません。大学時代は、12月の20日くらいに大学終わってそこから半月くらいはスキー場行って、1月末に後期の試験を受けて終わったらまたスキー場に行ってという感じでした。八方尾根での大会に出たこともありましたが、基本は岩岳の学生大会と関デモくらいで転戦しないので、仕事しながら練習も出来るという環境でしたね。
 
⑪ホームゲレンデはありますか?/どこのスキー場ですか?
⇒滑っていないので、ホームゲレンデと言っていいか分かりませんが、一番強い気持ちを持っているのは、スキー学校で3シーズン務めた白馬岩岳です。1級を取った黒姫や、小学生の時に通った風連や菊山への思いは強いですが。
 
⑫スキーにはどうやって行きますか?車/電車/バス?
⇒実質「元スキーヤー」なので、行くとしたら、というご質問としたら、公共の交通機関を使います。電車、バス、それとタクシーだと思います。
 
⑬定宿はありますか?
⇒学生時代からお世話になったのは、白馬岩岳の「ロッジやまじう」です。長く行っていませんが、時々、SNSで連絡は取っています。白馬村周辺で2014年に地震があったときは、すぐに連絡しました。故郷に近い思いを抱いているので、あんなことがあると、心配になります。ですから、もし、近々スキーに行くとしたら、岩岳だと思いますし、泊まるのは、やまじうだと思います。
 
⑭普段は誰と行きますか?
⇒学生時代は、所属していた「関西大学スキー同好会ZOO」(これも、現在は廃部)の仲間と行きました。社会人になってからZOOのOBの集まりで、やまじうに1度だけ行ったことがあります。家族で集まるという趣旨だったので、妻と行きました。
それから、先ほども話しましたが、会社から広島市の学校法人に出向して、文化センター(毎日文化センター広島、18年3月に閉館)の館長を2010年春から3年間務めました。縁あって、ユートピアサイオトをご紹介いただき、2011年と2012年に、文化センターの特別講座として、日帰りスキーツアーを企画したことがありました。感謝されたのは、よく家族でスキーに行くという方々でした。「いつもは車で行くから、お父さんは、本当は飲みたいのに、飲めないんですよね」と言ってくださったときには、開いて良かったと思いました。
1年目(1回目)でまあまあうまく行き、2年目(2回目)もやろうと考えていた時に、ユートピアサイオトの経営がマックアースに移ったのは幸運でした。マックアースCEOで、関デモで最大のライバルだった一ノ本達己さんと久しぶりに連絡を取り、講座への支援もしてもらえたのは、ありがたかったですね。

⑮クラブやサークルには入っていますか? 現在は入っていません。
⇒学生時代には、上記の関西大学スキー同好会ZOOの所属でした。あとは、しいて言うと、中学1年の時に、名寄市のスキースポーツ少年団に入ることになり、初日の練習でポールがくぐれなくて、その日限りで挫折しました。以降は、大学に入るまで、学校のスキーの授業以外では滑ったことがありません。
 
⑯レッスンは受けていますか?特定のコーチがいますか?
⇒学生時代に一番お世話になったのは岩岳スキースクールのSAJ元デモンストレーターの福島政男先生でした。やまじうのご主人で、スキークロス女子でバンクーバー2010冬季オリンピック日本代表の福島のり子さんのお父さん。スキー学校でレッスンが終わった後、インストラクターを集めて講習会が連日あったのですが、その時などにご指導いただきました。
それと、ZOOとしては、時々、当時SAJデモンストレーターだった小野塚喜保さんにご指導をいただいていました。

現在は、レッスンは受けていませんし、コーチ等もいません。ただ、実際にやった方法で、上位の資格を目指したいという方に参考になるかもしれないと思うのは、自分の練習の内容や課題をノートに記録していくことです。現役時代には、ポケットに入る大きさのノートに短い鉛筆を挟んでゲレンデに出て、1本滑ったら、リフトに乗りながらそれを出して気づいたことをメモしていました。天候、雪質、こぶやブッシュの状態、滑った種目やスピード、自分の感覚、誰と一緒に滑ったかなどを、できるだけ思い出して、記録していきました。雪でノートが濡れたり、手がかじかんだりして、うまく書けないこともありました。でも、塵も積もれば山となるで、時々メモを見返して、「この斜面のこの雪質だと、ここで失敗しているな。きょうは、そこだけは気を付けよう」と活用していました。当時はそういったことをやっていたスキー仲間はあまりいなかったので、「山口メモ」と揶揄されたこともあります。でも、新聞記者になったので、メモする癖をつけておいてよかったなとも思っています。
 
⑰年間スキーに使うお金は?
⇒現役時代=学生時代(1980年代終盤)は、70万~80万円でした。通信添削のバイトなどをやっていました。シーズン中は岩岳の寮で滞在して、そこで働きながらスキーの練習をしてた。滞在費が2,500円/日かかるんですが、テクニカルを取ってからは少しギャラが高くなって、1回仕事が入ると5000円くらいだったんです。なので、3日に2回仕事入ればプラスになるくらいの感じでしたね。大阪から岩岳まで夜行バスで5千円くらいで行けたので、そんなにお金の面で苦労することはなかったですね。
 
⑱スキーをするために仕事や家族の理解を得るように工夫していますか?
⇒現役時代は、スキーにかかる費用はすべてアルバイトでためていたので、親が「金をかけすぎる」と言った時にも、無視していました。現在は全くお金をかけていないですし、滑っていないので、特に工夫はしていません。
 
⑲クラウン取ってからスキーへの取り組み方/楽しみ方は変わりましたか?
⇒クラウンを取ったのが、大学卒業の3週間前でした。既に新聞社への入社が決まり、記者になることが決まっているので、スキーは続けられないと考えていました。そのことは、岩岳のスキー学校の常勤の先生や先輩方も理解してくださっていたようです。ある常勤の先生からは、「(クラウンの合格証は)スキーの卒業証書だね」と言ってくださいました。
 
 私は、中学時代の同期(隣の組)に田端夏葉さん(SAJ元デモンストレーター)がおり、高校の同じクラスには、岩岳学生大会基礎の部で2連覇を果たした小助川麻理さん(小樽商大卒)がいました。学生時代に関西でスキーを再開した時には、「1級を取れれば。もしかしたら、準指導員ぐらいも!」「関西でなら、上位に入れるかも」といったぐらいの気持ちしかありませんでした。田端さんや小助川さんの活躍を見て、「自分は、どれだけ頑張っても、あの領域には踏み込めない」と冷めた思いを抱いていたのも事実です。ですから、大学の最初のシーズンの初めに、1級が取れて、翌シーズンに準指導員と同格とされる「テクニカル」が取れたことは、予想を上回るペースでした。さらに、「現役最後のシーズン」と決めていた2月に、クラウンが取れたことは、本当に大きなことでした。
 
ただ、それよりも大きかったのは、スキーをやっていたということです。大学卒業=元スキーヤーになった時から30年以上たって、スポーツビズの山本雅一社長(岩岳スキースクールでの先輩)や、マックアースの一ノ本達己CEO(関デモ同期で京産大。第11回大会男子個人戦は1位一ノ本、2位山口)、SAJ元デモンストレーターの海野義範さん(日体大基礎、岩岳スキースクールの後輩)らと、一緒に仕事できたり、今でもすぐに連絡が取れたりできることが、何よりもありがたいと感じています。
それと、岩岳スキースクールの校訓は、新聞記者を続けるうえで、大きな支えになり、指針になりました。「スキー」の部分は、「取材」でも、「報道」でも、「人生」でも成り立つ言葉だと感じています。
 
スキーについて智恵を出せ
智恵のない者は汗を出せ
智恵も汗も出ない者は、
静かに去れ
 
私は、スキー仲間へのメールの最後に、時々「シーハイル!」と書きます。アニマル浜口さんの「気合だ!」や、内田裕也さんの「ロックンロール!」を真似したところがありますが、私の勝手な解釈では、自分の歩んできた道に誇りがあるからこそ、お二人は繰り返してそういった言葉を使ってきたのだろうと思うのです。私自身もスキーをやったことで、いろんな場面で助けられてきました。だから、今は滑っていないけど、「スキー万歳!」「スキーっていいよね!」とことあるごとに言いたい。新聞社に入ってスキーをしなくなりましたが、そう遠くない将来に定年となる私は、「ちょっとぐらいなら、また滑ってもいいかもな」と思い始めています。
 
Q:最後に何かメッセージはございますか?
スポーツ界は五輪汚職の影響で今逆風が吹いています。世間に相当嫌われている時期だなと感じています。でもやっぱりスポーツは力を持ってて可能性があると思うんです。例えば、国際大会で日本が活躍したら沸き立つじゃないですか。だからスポーツの力とか可能性を伝えられるようなことを私はやっていきたいです。その一環で、サッカーのレアル・マドリードが地元大学と2006年から大学院を開いていて、オンラインでスポーツマネジメントのMBAを2022年に取りました。スキーだけじゃなく、幅広くスポーツ界がもりあがってほしい、立ち直ってほしい、そのために出来ることを増やそうという思いですね。

【スキークラウンホルダーのアンケート回答まとめ】※年齢は2023年1月時点

【スキークラウンホルダーのキャリアまとめ】

【スキークラウンホルダーの話を聞いて…】

スキーが盛んな地域で生まれ育ったが故に、「スキーに対してコンプレックスがあった」とお話されていた山口さん。それでも、一度はやめたスキーを大学で再開しクラウンまで取得されたこと、そして、スキーをされなくなった今もスキーへの感謝の想いを口にされていたことに、幼少期からスキーに慣れ親しんだ山口さんならではの、深く静かなスキー愛を感じました。

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