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女性蔑視の愚かしさ

この世でもっとも恥っさらしなこと…

それが“女性蔑視”


なぜなら、すべての男は1人の例外もなく【女性】から生まれ、なおかつ【女性】の血と遺伝子を継いでいるから。


だから、【女性蔑視】は【自分自身を蔑視】することなのである。


にもかかわらず、まるで自分とは「別もの」であるかのように【女性を蔑視】するその姿は、見ているこっちが恥ずかしくなるほど、



    バカまる出し


の様相を呈しているのである。


さらに、【女性を蔑視】することは、つまりは【人間を蔑視】することであるから、


オイラは、【自分】も【人間】もさげすんでいるだ~!


と叫んでいるにひとしい。こんなことを恥ずかしげもなく言ってしまえる、その【感覚】が、これまた、


   底抜けにイタい


のである。


しかし、そう思う自分の中にも自分では気づきにくい差別意識があるという情けない事実を認めざるを得ない。

自分自身の差別意識にハッとする瞬間は以下の4点。


①仕事上の交渉相手が女性であった場合にホッとしている自分に気づいた瞬間。
 

これは男性間の競争意識や、もっと根っこの部分でいえば、男性にひそむ「暴力性」…それがより少ない女性に対し、安心感をおぼえるからである。これは、厳しくいえば女性を見くびっていることになるのである。


②町ですれ違う女性の身体的魅力に目をうばわれる自分に気づいた瞬間。(女性特有の美をとらえる芸術的感性とは似て非なるものだ。)                                         


これは、町ですれ違うその女性の人柄はおろか名前さえ知らない存在に対し単に上っ面だけ見てエキサイトしているわけで、性的な欲望の対象としてのみ見ていることを意味するからである。


③女性は、「好き嫌いの感情」がベースになっており、好いてもらえれば優遇されるが嫌われてしまえば冷遇される。という自らの意識に気づいた瞬間。


男どうしの関係は「信頼」を主な紐帯とするため、男女間の恋愛感情のように「冷める」ということがない。つまり「女は感情的」「女心と秋の空」などと形容されてきた移ろいやすい「女性の心」など、到底信ずることはできないという先入観が横たわっている。


④女性を追いかける男性を見たときに「女の尻を追いかけやがってみっともねえ」とつぶやく瞬間。


これは、幼い頃より親や教師から、「男だったら夢を追え!仕事に生きろ!」とか 「女を追いかけるのではなく、女に追いかけられる男になれ!」などと説教されるうちに、いつしか、

夢や仕事に生きる男は硬派で男らしい 

       ↓

女にうつすを抜かす男は男らしくない

       ↓
女は夢や仕事よりも下に位置するもの


という観念が無意識に刷り込まれた結果である。


以上4点のうち、

①「暴力性が下回る女性を見くびる」は【防衛本能】に根差している。が、これは、私の意識がまだまだ【暴力】というものに価値を与えているから、という側面もある。

男が心のどこかで暴力的な力を「強さ」「カッコ良さ」「男らしさ」だといつまでも錯覚しているかぎり、


男性が腕力的に劣る女性よりも自らを【優位】に感じることは避けられない。


殴り倒されても、殴った者が敗北したのであり、殴り倒されたことは敗北でも恥辱でもない。つまり、【暴力などになんの意味も価値も無い】ことが骨の髄からわからなければこの意識を克服することは難しいし、克服できなければ、女性だけでなく男性に対しても自分より腕力の劣る者に対し心のどこかで見くびるであろう。もし、克服できたならば、その克服した人に接した人は、一様に【深い精神性】を感じ取るに違いない。これは今後の課題だ。

②の「性欲の対象としてのみ見る」は【種族保存本能】に根差している。が、そこには、「女性」を「女性」である前に【人間】として【人格】を尊敬するという当たり前すぎる視点が完全に抜け落ちているのであり、ここは、その人の【人生観】、【人間観】が鋭く問われるのだ!

③の「感情的で移ろいやすい女性への不信」については、【個人的偏見】以外のなにものでもない。

なぜなら、男どうしの友情でも「信頼」だけでなく「好き嫌いの感情」が大きな部分を占めるのは自明の理であり、男女の恋愛においても「好き嫌いの感情」だけでなく、やはり「信頼」が根底にあるからだ。

それに「感情的で移ろいやすい心」は、男も同じであり、つまり男女ともに【人間】とはそういう生き物だからである。もちろん個人差はある。だが、あくまでも「個人差」であり、決して「男女差」ではない。

④の「女性の存在は夢や仕事より下に位置する」は【社会的偏見】といえる。

この【社会的偏見】は、実に古くからあり、世界三大宗教にも『自らの情欲に負けて「修行」をおろそかにさせないため』という理由で「女人を見てはならない」とか「女人に近づいてはならない」などという思想が散見される。また、儒教などにおいても【社会的統制】という大義名分のもとすべてを序列化しているため、男尊女卑的な側面が見受けられる。

現代でも、男は社会や家庭から、重要な【経済戦士】であると位置づけられ、「女にうつすをぬかすヒマがあったら仕事に精を出してもらいたい」との暗黙の社会的要求から、【脇目もふらずに夢や仕事に生きる男】という《理想の男性像》が形作られていったのではないかと類推するものである。

だがカン違いしてはならないのは、「修行」にしても「仕事」にしても、男を横道にそらすのは、

   女性ではなく“男の情欲”


であり、これを、まるで【女性の責任】といわんばかりの論法は、チンピラのいちゃもんと大して差はない。

他にもあるかも知れないが、自らが自らの中に見いだすことができる差別意識は、現時点ではこの4点しか見つからない。

他方、私以外の人たちに、見受けられる事柄として、次の2点がある。

一つは、母親との関係である。母親が外に男性をつくって子どもを捨てて家を出て行ってしまう経験をした等のように母子関係において、女性への尊敬の念を形成できなかった場合である。これは、母親のみならず、父親が母親に対して支配的かつ侮蔑的な言動をする姿を見てきた場合にもあてはまる。


もう一つは、たとえば、容姿が非常に良いとか、裕福であるとか、有名であるとか、といった場合、女性から積極的に近づいてくるケースがある。男性は、女性が自分の人格ではなく、見てくれや金やステイタスが目当てなのではないか?自分にこれらのものがなかったら、自分は相手にされなかったのではないか?との「疑心暗鬼」から、「女性不信」→「女性蔑視」へと転ずる場合である。

vol.2へつづく…



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