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どうしても生きてる|健やかな論理 1|朝井リョウ

 まただ。

 表情が変わったことがバレないように、私は顔の筋肉に力を込める。

「やっぱな、自殺じゃないんだよこんなの。わかってたことじゃん」

 左隣で、そのままごっそりと埋もれていくんじゃないかと思うくらいソファに全身を預けている恭平(きょうへい)が、嬉しそうに呟いている。恭平はドラマを観ながら携帯に文章を打ち込みつつ、たまに、思い出したように体幹トレーニングらしき動作を始めたりもする。そんな、どれか一つのことに集中していられない様子からは、生きていくことに対して能動的な人間だけが体内に抱える泉のようなものを感じ取れる。

「何で自殺じゃないってわかってたの?」

 テレビ画面の中では、仕事に一直線でモテない、という設定の女性警官が、その日のうちに何度か化粧直しをしたとしか思えない仕上がりの顔で、深夜のカップラーメンを啜すすっている。だけど今さら、そんな細かな矛盾点を突こうとは思わない。それを、鬼の首を取ったように高く掲げることで、誰かに〝物事を見つめる視点が鋭い自分〟を想像してもらおうなんて思わない。私は、右の掌で左の肘に尿素クリームを何度も塗りこみ続ける。目の前にある事象を目の前にある事象そのものとして受け入れたほうが楽だ、という諦めのポーズさえ取らなくなったのは、いつからだろうか。

「だってこの被害者、ちょっと前にアマゾンかなんかの再配達頼んでたじゃん。これから自殺するってやつはそんなことしないでしょ」

「へー、そんなシーンあったっけ? よく覚えてるね」

 これまで何度も挑戦して、そのたびに無理だということは思い知らされているはずなのに、私は左の肘の色をこの目で確認しようと試みる。はじめて鏡越しに、まるで何年も着続けているパジャマに付いた珈琲の沁しみの如く、繊維の奥深くまで到達しているような黒ずみを両肘に発見したときは、思わず声が漏れてしまった。

「この人が小さな紙見ながらなんか数字打ち込んでるシーンあったじゃん。あの動作、再配達頼むときの俺すぎた」

 カップラーメンを食べ終えてすぐに爪楊枝をくわえた女性警官が、部屋の中で死んでいた男性の携帯電話を勝手に触り始める。「あっ、大事な証拠品ですよ!」慌てて制止しようとする若い男性刑事の手を軽く振り払い、女性警官は電話の履歴の画面を視聴者に向かって見せつけた。女性的なイメージとはかけ離れているキャラクターだと言いたいのはわかるけれど、深夜のカップラーメンのあとに爪楊枝、は、テンプレすぎるんじゃないのかな。そう思ったけれど、言葉にはしない。本当はどうでもいい。

 ごそりと、視界の左側が動く。ソファの縁に上半身を預けていた恭平が、私に覆いかぶさるようにして、両脇に手を差し込んでくる。

「あーあ」

 嫌がる素振りを見せながらも、私は、きっとその持ち主が思っているよりも大きな掌に身を委ねる。恭平の体に対しては適正な割合の面積なのだろう両掌は、私の体に関わるときはクレーンショベルのフックのように巨大な何かに感じられる。

「肘にクリーム塗ったばっかなんだけど。服汚れるよ」

 パジャマべとべとになるから、と言っても、恭平は「ん~?」と甘えた声を出すだけで、すでに真っ当な思考回路が閉ざされていることがわかる。被害者は自殺じゃない、という予想が当たっていたことに満足したのか、ドラマの展開そのものはもうどうでもいいみたいだ。恭平は、鷹が魚を攫さらうように私の体を持ち上げると、ひょいと自分の上に乗せた。ソファの縁に上半身を預け、両脚を伸ばす恭平に、私の全身はすっぽりと収まる。

 パジャマが汚れていいとして、それ洗うの私なんだよな──そう思ったけれど、この状態になったらそんななけなしの抵抗心は早々と手放したほうが得策だ。恭平はこうしてソファの上で私を後ろから包み込むのが好きで、私も恭平に背後から触られることが好きだ。出っ張っているところも凹んでいるところも硬いところも柔らかいところもそれぞれ違うのに、お互いにこうして重なってしまえば、もともとそう設計されていた部品のように、かちっと音が鳴るほどひとつになる。

「また塗り直さなきゃだよ、クリーム。もうあんま残ってないのに」

「つーか何でそこがそんなに黒くなるわけ? デスクに肘つきまくってんの?」

 まただ。

 恭平の無邪気な声を聞きながら、私は体の真ん中の辺りにぐっと力を込めた。自分より九年間分も若い時の中にいる男は、何か明確な原因がないと体に変調は起きないと思っている。

 正しく健やかな論理だ。恭平は間違っていない。

「何でだろうね」

 私はそう呟くと、仰向けの恭平の体の上で全身を回転させ、うつ伏せになった。互いに、触れてもいい、と認識している肉体同士が触れ合っている時間は、お互いの性感帯を刺激しているわけでなくても、まるで日光浴をしているときみたいにそれだけで気持ちいい。きっとこの現象は、性別や年齢に関係がなく発生するものなのだろうけれど、もう三十代も後半に差し掛かり、じゅうぶん大人で、かつ子どものいない私は、体の関係を結んだ成人を相手にしないと手に入れることができない。

 恭平の胸の上で、最も心地いい顔の置き方を探す。帰宅してすぐ化粧を落とし、少し高い化粧水をせっせと染み込ませた頰は、化学物質などで一切整えられていない胸筋の弾力に、いとも簡単に負ける。

「なんかちょっと」太った、と言おうとして、私は言葉を変えた。「体格よくなった?」

「え、わかる?」

 これだけの言い換えで、こんなにも嬉しそうな声を出すのだ。私は左耳を彼の胸にくっつけながら、体内の臓器が奏でるぐりゅりゅという水っぽい音を聞く。

 再配達を頼んだ人間は自殺なんてしない。長時間に亘ってダメージを与えない限り人体が黒ずむことはない。そんな正しく健やかな論理を生み出し続けている工場音。

「プロテイン変えたんだよね。他人から見てそんなすぐ変化あると思ってなかったけど」

 私は恭平の腰の後ろに手を回すと、「ふうん」と相槌を打つついでに息を吐いた。全身から力が抜け、自分の形がより、恭平の輪郭に沿う。

「会社の近くに二十四時間営業のフィットネスができてさ、そこプールもあんのプールも」

「へえ、プール」

 一番居心地のいい体勢を取ると、テレビ画面を見つめることになる。相変わらずどれだけ働き続けても顔が仕上がったままの女性警官が、年下の男性刑事を突飛な言動で振り回している。

「平泳ぎしまくったら胸筋ついたっぽくてさ」

 恭平はそう言うと、嬉しそうに「体重も増えてきたんだよな、筋肉がでっかくなってきた証拠」と言いながら、またぐりゅぐりゅと内臓を鳴らした。体重が増えたことを喜んでいる人間の上で、私は、同性の友人たちと百グラム単位で減った増えたと一喜一憂していた時代を懐かしく思った。

「体重、どれくらいになったの?」

「やっと大台乗った、八十キロ」

 八十キロ。

 見つめていたテレビ画面が、パッと、スマホの画像フォルダと入れ替わったような気がした。

 だけど、そんなわけはない。

「背が百八十二あるからさ、八十くらい体重ないとヒョロヒョロに見えるんだよ、俺」

 二人掛けのソファからあふれ出す恭平の腕。生えている産毛が、冷房の風に揺れている。

「つーかプールマジでおすすめ。俺たまに昼休みとかにも行ってるもん。すーげえスッキリするんだよ、午後からの仕事超捗はかどるから。佑季子(ゆきこ)も会社のそばにあったら行っちゃえばいいのに」

 そうだね、と適当に相槌を打つと、私は恭平の腰に回した手をわしゃわしゃと動かした。筋肉の上に乗った脂肪は柔らかく、「うわっ、くすぐったいって」動かせば動かすほど反応する大きな体は確かに間違いなく愛おしい。

 昼休みにプールなんか、行けるわけないじゃん。そりゃご飯食べたあとに体動かしたらスッキリするんだろうよ。でも化粧も髪の毛もどうすんの。もしかしてこれまで長い間ひとりの彼女と続いたことないのかな。できることなら私もあんたたちみたいにいつでも机に突っ伏して仮眠とか取ってみたいよ。居酒屋に着いたら熱いおしぼりで顔を思いっきり拭いてみたいって。

 私は、右手を、いつのまにかその輪郭と硬度を変えていた部分にそっと添える。

「ごめん、勃(た)ってきたわ」

 異性の体が密着すれば、性的に興奮する。今日も健やかな論理が、ひとつずつ積み重なっていく。

 番組のハッシュタグが毎週必ずトレンド入りするような一話完結型の刑事もののドラマをなんだかんだ飽きずに毎週観ている恭平の姿は、エロい。体格が男らしいとか若くて感度がいいとかそういうことよりも、毎週楽しみにしているものがあって、しかもそれが世間に生きる多くの人たちと一致していて、そんな自分を全く恥じたり隠したりしていないところがどんな部分よりもエロく感じられる。

 テレビ画面の中では、再配達を頼んでいたから自殺ではないと断定された事件が新たな展開を迎えている。

 私はひとさし指で、パジャマ越しの先端を撫でる。

「ちょっと、佑季子」

 テレビ画面が、CMに変わる。何の前触れもなく。

 それくらいの滑らかさで、何もかもぶっ壊れればいいのにな、と思う。その一秒前、自分の真下にある八十キロの肉体を司る一か所をこの指で愛でていたのに、あまりにも自然に、私は。

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『どうしても生きてる』刊行記念
朝井リョウさん サイン会実施決定!


10月18日(金)丸善 丸の内本店にて、本作の刊行を記念して、著者の朝井リョウさんによるサイン会が実施決定!
こちら、ご参加には整理券が必要になりますので、詳しくは下記をご確認ください。

丸善 丸の内本店 サイン会情報ページはこちらから

■概要
日時:10月18日(金)19:00~
場所:丸善・丸の内本店 2F特設会場
定員100名様
要整理券(電話予約可)

■参加方法
○丸善・丸の内本店和書売場各階カウンターにて、対象書籍をご購入でイベント参加ご希望の先着100名様に整理券を配布いたします。
○発売前はご予約にて承り、書籍ご購入時に整理券をお渡しいたします。
○ご予約およびお取り置きいただいた方には、3Fインフォメーションカウンターにて書籍と整理券をお渡し致します。
○整理券がなくなり次第、配布終了といたします。

■注意事項
○整理券はお一人様1枚までとさせていただきます。
○写真撮影・録音・録画等は、ご遠慮下さい。

■対象書籍
『どうしても生きてる』(朝井リョウ著/幻冬舎刊/1,600円+税)

■ご予約およびお問い合わせ
丸善・丸の内本店 和書グループ 
03-5288-8881(営業時間 9:00~21:00)

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