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その想いは他の誰かの願いを叶える。


はじめに

今回はちょっとパーソナルなお話を書きたくなったので書きます。

最終的には麻雀の話とか?
家族の話?とか
になっていく気がするので興味がある人は読み進めてください。


父の話

私の父はすでにこの世を去っている。
何年前だっただろうか?
5年よりは長いけど、10年よりは短い記憶はある。
なんにせよ、指折り数えないと覚えられないほどそこそこの年月が経ってしまった。


父のひととなり

どんな人だったかと聞かれれば、
優しい人だったとまず答える。
声も荒げる場面もなく、家族を甘やかし、良き父だったと思う。

特に話すことについては上手だった。
真面目に議論することも、
フランクに話すことも、
大勢の人の前で話すことも苦にしない。
そんなコミュニケーションの強さをもっていたからか、葬儀の時にはこちらが驚くほどの参列者が訪れた。
コミュニケーションの強さを
人望の厚さに繋げられる力も持っていたのだと思う。

ちなみに、母も
普段は強めの言葉や態度をとりながらも
相手のことを察して、先回りして何かをしてあげられるタイプの人間だ。
そして、いざというときの言葉のチョイスを間違えない。
だからこそ、強めの言葉や態度もユーモアの延長線上と捉えられるくらいの絶妙な塩梅で人と関われる。
これまた人に好かれそうなタイプだ。

人に好かれているかとか、人望があるかとかは
あまり自信がないが、
どんな場所に放り込まれても、
適当に話して、その場を楽しく過ごせる
そんな私の妙なコミュニケーション能力は、
どうやら遺伝子に刻み込まれたものなんだと思ってならない。

話を父に戻すと、
仕事もどうやらできたらしい。
雑誌「プレジデント」に載ったこともある。

なんだか、文字に起こすと
こんなスーパーな人間だったか?
と変な気持ちになるが、まあ事実は事実だ。


私との関わり

私に口うるさく何かを言うこともなかった。

学生時代に
「勉強しろよ」と1回も言われなかった。
なんなら、
定期テストが迫って、勉強に追われている私を尻目に、
私の部屋で、優雅にFFやらドラクエやら進めまくって私の心を折りに来るなかなかのファンキーな父だった。

常々父は
「お前はお前の人生だから何をするかはお前が決めろ」と言っていた。
そこに勉強するもしないもお前が決めろ
という意味も含まれているから、
勉強しろとも言わなかったのだろう。

三者面談で担任を前にしようが、
私が「そんな緩くていいの?」と逆に聞こうが、
その言葉を曲げながった。

けれど、私のことを気にしてなかったわけじゃない。
勉強であれば、
今どんなことを学んでるのか?
将来何を勉強したいか?
バイトであれば、
どんな働き方しているのか?など
色んな事をよく私に聞いてきたし、
それに対してアドバイスをくれることも多くあった。

後から聞くと、
大学受験はあんな勉強の仕方じゃ浪人すると思ってたらしいし(実際は落ちてない)
社会人になる時は、その会社に就職してもいいのか、周囲の知人に聞き回るくらい不安だったらしい。

それでも、
信念を曲げず、私のしたいようにさせてくれながら
要所で私を助けてくれた父であった。

おかげさまで、私はここまで道を外さずに生きてこられた気がする。
本当に感謝をしている。


私の心残り

比較的父を早く亡くしているので、
やり残したことはいっぱいある。

私の仕事は、
仕事をしている姿をみようと思えば
簡単に見られるくらい社会の表側にいるタイプの職種である。
父は私の現場が変わる度に
私の仕事ぶりを興味深そうに見に来た。
そんな父に今の職種で働いている姿を見せてあげたかった気持ちが残っている。

そして、見てもらうだけでなく
私自身が、キャリアを積んで、
いよいよ管理者としての役割が見えてきたからこそ、社会人の先輩としての父にいろんな相談をしたかった気持ちがある。

そして、
結婚したことも見せられなかった。
これも心をキュッとさせられることだった。


FC東京の話

さて、ここから1番の心残りの話をする。

私は、FC東京のサポーターになってから20年弱くらい経つ。
そんなFC東京へいざなってくれたのが父だった。

私が、サッカーを部活でやってたからか、
FC東京のチケットをもらってきて、
私を観戦に誘ってくれたのが最初だった。

初めてスタジアムで観るサッカーが楽しくて、
私は一発でFC東京にのめり込む。
その私に呼応するように?
付き合ってくれるように?
そのへんはよく知らないが、
父もスタジアムに足を運ぶようになった。

ほとんど間を空けることなく
FC東京で好きな選手を見つけたと言い出し、
母もFC東京にハマった。

家族3人の趣味になったFC東京。
会話も増えたし、
今も母親とスタジアムに通う日々だ。
学生から社会人になり、
いつしか、
父の日と母の日のプレゼントは
毎年、本来の日よりも前倒した2月に
FC東京のユニフォームを送るようになった。
(ヘッダーの画像参照)

そんな日々を過ごしていたものの
ある年に、味スタで行われた、
FC東京-川崎フロンターレという
「多摩川クラシコ」と銘打たれた好カードで異変が起きる。
その日も当然家族3人で観戦しにいくものだと思っていた。
しかし、父親は来なかった。
珍しいこともあるもんだなと思っていたら
体調が悪く、自宅でテレビで試合観戦中に自ら救急車を呼んで、そのまま緊急搬送された。

体調の浮き沈みがありつつも、
父はそこから自宅に帰ることなく、息を引き取った。

FC東京はまだJ1を優勝したことがない。
東京のJ1制覇を見届けること。
これは私の数少ない夢であり、生きる意味である。

けれど、
本当なら父とも一緒にその景色を一緒に見たかった。
私が買った3着のユニフォームが歓喜で揺れる。
それが今はもう叶わない。

私自身が、
FC東京のJ1優勝を見届けられずこの世を去ることとなったら、悔やんでも悔やみきれないほど現世に未練を残すことになると思う。
そう思うと、父の無念さが痛いほど私に伝わってくる。

だからこそ、
3人で歓喜の瞬間を分かちあいたかった。
そのことが私の心に重く深く残っている。

仕事に家族に趣味に、
色んなことに駆けずり回った人生。
だから向こうでゆっくり休んでほしい。
そんな気持ちはあるけれど、
まだそっちに行くのは早いだろうに…。と
やっぱり思わされてしまう。


Mリーグの話へ

さて、勘の良い人は気づいたと思う。
この話は仲林さんと、仲林さんのお父さまの物語に、私自身を投影したものであることを。

仲林さんのお父さまは、
闘病の影響で、Mリーグのファイナルを見届けられるのは今年が最後かもしれないという。
だからこそ、仲林さんは、
今年、Mリーグの優勝がほしい。
そしてMリーグの最終戦のPVのチケットを贈り、
その優勝の晴れ舞台を見届けてほしい。
そんな強い想いを自身の配信で打ち明けてくれた。

※語ってくれた配信の切り抜き


来年ではなく、今年とることの意義

Mリーグの優勝。
それを届けたい。一緒に共有したい。

それだけであれば、
今年でなくても可能性はある。
今年だめだったけれど、
来年頑張ろうでも叶う可能性がある。

けれど、
「今年」でなければいけない。
「今年」だからこそ価値がある。
そんな優勝がこの世界の誰かにはあるのだ。

Piratesとしても
今年もし優勝したとしたら、2度目の優勝である。
その優勝は
仲林さん、優さんは初優勝の価値がある。
ただ、
きっと瑞原さんも、剛さんも
今年の優勝には今年の優勝ならではの価値を見出しているはずである。

Piratesの選手、スタッフ、関係者が
「優勝したい」という想い。 

それは、波及して
誰かの願いを叶えうる大きな力になる。
そして、その誰かの願いは「今年」勝つことでしか叶えられない願いかもしれない。

FC東京の優勝を一緒に見届けたい
そんな私と父の願いは叶わなかった。
けれど、
仲林さんと、仲林さんのお父さまの願いは叶えてほしい。そう願ってならない。

絶対的に有利な状況であるのは間違いない。
それでも、優勝が決まるその時まで、
みんなでサポートしたい。
Piratesに関わる色んな人の願いが叶ってほしい。
父との想い出を振り返りながら
そんな気持ちでいっぱいになったのである。


最後に

私のパーソナルな感情を残すためという側面が多くあったこの記事であるものの、
ここまでお付き合いいただいたみなさまには感謝しかありません。
残り少ないMリーグの試合。
みなさんも後悔しないように声を枯らしましょう!

それでは!