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審判のAI化について

先日行われたW杯で、三苫の1mmというのが話題になった。スポーツ界は今では積極的にビデオ判定を取り入れるようになっているが、過渡期であるためか、しばしば物議も醸している。

野球も例外ではない。人間の審判が下したアウト/セーフの判定やフェア/ファールの判定が、ビデオによるリプレイ検証によって覆るということが今では普通になっている。

この流れでいくと、将来的には生身の人間の審判は職を失うことになるのかもしれない。つまり、AI審判の登場である。たぶん、アウト/セーフも、フェア/ファールも、ストライク/ボールも、技術的にはすでにAIに任せることができるのだろう。あとはコストなどの問題と、それを選手や観客が望むかどうかである。

僕は基本的にビデオ判定やAI審判には反対である。現在行われているビデオ判定は時代の流れなので仕方ないとも思っているし、合理的なところもあるので何がなんでもすべて反対というわけではないが、慎重に検討すべき余地がまだまだ残っていると思う。

僕が懸念しているのは、人間の審判がいなくなることで野球が貧しくなるのではないかということだ。

二つのエピソード

篠宮慎一『誰も知らないプロ野球「審判」というお仕事』という本を昔読んだことがある。そこでは長年野球審判を務めた篠宮氏だけが知る逸話が豊富に語られていた。

たとえば、落合博満について。落合は選球が良いことで有名だった。ある試合で篠宮氏が球審を務めたときのこと。全盛期の落合がバッターボックスに入る。カウントはツーストライクと追い込まれた。次に投手が投げた球はコースぎりぎり、入ったか入ってないか紙一重のところへ。

落合は見送った。篠宮球審は右腕を上げ、三振のコールをした。

落合はバッターボックスを退きベンチへ向かうが、そのさい篠原氏に向かって、振り返りもせずこう言い残したそうだ。「ボール半個外れてるぞ」。篠宮氏は絶対の自信を持って三振のコールをしたのだが、相手は球界一の選球眼をもつ落合だ。一抹の不安が残ったという。

そんな落合も晩年を迎える。外角のボール球に落合が手を出し、空振りした(ファールだったかもしれない。昔読んだ本なのでそのあたりの記憶は多少曖昧だが許してほしい)。落合は篠宮球審に訊く。「いっぱいか?(ぎりぎりストライクか、の意味)」。篠宮氏「いや、全然外れてますよ」。落合「そうか」。本来、選手と審判のあいだでこういうやりとりはするべきではない。いっぱいかどうかは打者自身が判断しなければならないので、それを審判に確認するというのは打者に有利に働いてしまうからだ。しかし、あの選球眼の良かった落合が、完全なボール球を見極められない。そのことに驚いて篠宮氏は思わず答えてしまったのだそうだ。次の球、同じようなコースを引っ掛けて、落合は凡退。そのときの捕手が篠宮氏にこう声をかける。「落合さんもそろそろ潮時かもね」。その年、落合はユニフォームを脱いだ。

イチローに関する逸話。インコースギリギリの球をイチローが見逃す。篠宮球審の判定はストライク。イチロー「いっぱいですか?」。篠宮氏「うん。」うんとは言ったが、少し外れていたかもしれないとも思った。ナイスボールだったので、思わず右手が上がってしまったのだ。そのとき、捕手は古田(たぶんオールスターの試合だったのだろうか。このへんも記憶が曖昧)。意地の悪い(=名捕手である)古田は次も全く同じコースにミットを構える。投手も要求通りのコースへ投げ込んだ。やばい、これをイチローが見逃したら、二回続けてボールをストライクと言わなければならなくなる——と思うか思わないかのうちに、イチローが見事に球をはじき返し、クリーンヒット。篠宮氏はほっと胸をなでおろす。古田が篠宮氏に声をかける。「やっぱりイチローは天才だね」。

人間の審判が姿を消すことの意味

これらのエピソードの紹介を通して私が言いたかったのは次のようなことだ。

もしこれがAI審判だったら。
バッターと球審との会話もなかったし、捕手と球審との会話もなかった。

もしこれがAI審判だったら。
篠宮氏が見た落合、篠宮氏が見たイチローについては、語られることがなかった。

もしこれがAI審判だったら。
僕たちはこのようなエピソードを知ることはなかった。
これらの伝説的エピソードを通じて落合やイチローの天才性が語り継がれることもなかった。

複数の人間が複数の視点から一つのことを見ている。それぞれが自分が見たことを自分の視点から語る。そのことによって人間の世界は成り立っている。

審判が一人いなくなることは、視点が一つ消滅することを意味する。
視点が一つ消滅することは、野球が一つ貧しくなることだと思う。



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