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きなこさんは地獄生まれのモモ

22時をまわり、パジャマに着替えて歯磨きをしていたら、玄関の引き戸が激しく叩かれた。2本目のお銚子を飲み終わりつつある父が訝しげに玄関を開く。ご近所の山下さんがいた。

「夜分遅くにすみませんね!山下です!おばんです!あのですね!お宅の猫(ね→こ↑)ちゃんのね!きなこさんがね!うちの花壇にね!おしっこをしていて!それはもうびゃーびゃーびゃーびゃーとしておりまして!」

「あぁそうなんですか、うちのきなこが…それは誠に…」

お父さんは長いサラリーマン生活者特有のヘコヘコした態度でこたえるが、いつも通り特に悪いとは思っていない。

また、山下さんも目を見開いてこんな話し方をするが、別に怒っているわけではない。大きな眼鏡を神経質そうに上げ下げしながら、ハッキリした声で話す。きれいな8:2分けは決して崩れない。

「いえいえ!畜生のことですからね!いいんですけれどもね!自然の話ですからね!でもね!うちの妻がね!騒ぐんですよ!竹やりを振り回して!」

「あぁ、竹やりを…それは、ええと…」

山下さんの奥さんは、昔からさすまたや、本気の竹やりを手に近所をうろついていることがよくあった。無論、警察に怒られて、最近手にしている竹やりは尖っておらず、綿入りのファンシーな柄の緩衝材が先につけられていた。

山下さんの奥さんはよく猫を捕えようとする、と言う話も有名だった。このあたりに地域猫や野良猫がいないのはそのためらしい。

もともとエキセントリックな性格であり、叫ぶような自作の歌を歌っていたり、橋本さんちの近くにある道祖神と談笑したり口論したりしていた。

また、このあたりに出没していた泥棒を大さすまたで捕まえたり、訪問販売を装う何らかの詐欺師を「魂からプラスチックの臭いがする」という理由で見破ったりしたこともあるため、近所からは色んな意味で一目置かれていた。

「きなこさんが捕まるとね!いけないですからね!思わず折っちゃうかもだのでね!なんせもう最近はね!きなこさんはどこどこどこどこ!!!とよく探してるんですね!大変申し訳無いのですがね!きなこさんを外にあまり出さないほうがよろしいと思いましてね!自動車も多くなってますからね!外飼いの畜生にはね!危険がいっぱいなんですね!」

「折…そ、そうですね、できるだけ部屋から出さないことにします…」

奥さんと自動車は同列なのだなぁ、と口をゆすぎながら聞いていた。

動物のことを畜生と呼称はするけれど、山下さんに悪意はない。昔は山下さんちでも文鳥や犬を飼っていたので、動物自体は好きなのだと思う。よく奥さんも右手でたづな、左手で携帯用(伸縮する)の何か棒を持ち、それはもうニコニコしながら(本当にそれはもうもの凄い笑顔で)犬を散歩していたし、犬は犬でかなり懐いているようだった。

道祖神との井戸端会議は、この散歩をしていた頃からの名残なのだという。たまに清掃や飾り付けなどもしていたらしい(ドクロ柄のスカーフが巻かれていた時期があった)。犬が道祖神におしっこをしてしまったときは、叫びながら犬を棒で突き、謝りながら道祖神をピカピカになるまで清掃していたという。おかげで橋本さんはこの頃からずっとノイローゼ気味だった。

強く玄関が締められる音がした。居間に戻ると、やや疲れた顔の父親が冷えた熱燗をすすっていた。

「タカシな…山下さんが、きなこを外に出すなって言ってんだよ。」

「うん、聞こえたてた。お母さんにも言っとく。」

「頼んだぞ…あぁ酔いがさめたな…明日はお父さん、工場の人と飲みに行くから、遅くなるからな。きなこを頼むぞ。あそこの奥さんは本当にやるからな…。」

「うん。おやすみ。」

ランドセルに教科書をつめてから、重い布団に潜る。

うちの猫はきなこじゃなくてモモだ。

モモを部屋に仕舞ってからしばらくたった。最初こそ「私を外へ出すべきだ」という抗議でギョワギョワ鳴いていたモモだが、「山下さんに折られちゃうよ。」と話しかけると、ヌン…と鳴き声は露骨に弱まった。野生の部分で何かを感知したのだろう。不満そうな顔で窓の外を見に行く。昔から誰に対しても塩対応だったが、このごろはその傾向がさらに強まっている。

外に出られないモモとだべっていると、だいたい毎日エレクトーンかオルガンみたいな、くぐもった音が遠くから聴こえてくる。山下さんちからだと思う。今日も奥さんが稼働している。

聴こえてくるのはいつも、クラシックやテレビで聴くような音楽ではなく、叩きつけるような不協和音がメインの曲。いつも違う曲だけど、即興なのだろうか。

今日の歌詞を要約すると
「最近見なくなったきなこさんは土産を手にバスで木更津を経由し地獄へ帰った。捕えられなくて口惜しい口惜しい口惜しい。でも今日は火曜なのでスーパーで寿司を買う。南天のど飴。」

ポイントデーに寿司を買うのは賢い選択だと思うが、こんなにかわいいモモは断じて地獄生まれではないので、少しムッとした。

毎日17時から15分程、似ているけれど毎度違う曲を歌い切る。今日は寿司を買いに行くのだろう。昨日は「イカメンチ」だったし、一昨日は「中華の棒」だった(春巻きのことだと思う)。

モモが寝てばかりいるようになった頃から、奥さんの魂の叫びはあまり聴こえなくなってきた。

「あまり体調が優れなくてね!最近はあまり外にも出んのですね!かえって静かでいいですね!ハッハ!」

親戚から送られてきたという大量のみかんをおすそわけに来た山下さんは、応対したお母さんによると少し痩せ、すっかり白髪になっていたという。毎日奥さんのお世話をしているらしい。介護ということだろうか。

お母さんは、おじいさんが世話になっていたデイホームを山下さんに紹介したというが、「何をするかわからないのでね!」ということだった。竹やりは手放していないのだろう。

橋本さんちの前の道祖神は、汚れが目立つようになった。しばらく前に橋本さんが亡くなってからは、管理も特にされず、井戸端会議がてらの清掃もなくなり、より一層古ぼけて見えた。部活帰りに通り過ぎるときに見える道祖神は、少し傾いていて、寂しそうに見えた。

高校受験の年の冬、モモが星になった。僕と同い年(くらい)だったから大往生だ。僕はかなり凹み、もともとおっくうな勉強なんかはまるで手に付かなかった。名付け親であるお母さんは、なるべく普段どおりを心がけていたみたいだけれど、家事の途中に突然さめざめ泣いたりしていた。パート中にも泣くものだから、途中で帰らされたりもしていたようだ。

僕もお母さんも、しばらく暗い気持ちで日々を過ごしていた。お父さんはそんな家族の気持ちを察してか、定型文な勉強はどうだ〜とか聞いてきたり、お母さんに下手な冗談なんか言って愛想笑いをされたりしていた。お父さんって結構お父さんだったんだな、と思った。

その甲斐もあり、お母さんも僕もモモを思い出として受け入れなきゃね、となりかけた頃、突然「山下さんとこの奥さんが亡くなった。」と聞いた。お父さんの読んでいる新聞に載っていたという。たしかに最近はあの歌もほとんど聞こえず、遅くはじめた勉強には集中できるので良かったけれど、複雑な気持ちだった。

元気ではなくなったのも、亡くなったのも、モモと似たようなタイミングだな。

「最近は旦那さん、よくスーパーで見かけてたからねぇ、そんな感じかなとは思ってたけれど…ホラ、あの人声が大きいから…ねぇ。」

山下さんはどこでも「山下さんがいる」ということが声でわかる程だったので、母の言いたいことも理解できる。



通夜へ参列することとなり、両親は喪服、僕は学生服を着て山下さんちへ赴く。思ったよりもずっと冷えるため、厚手のコートも羽織る。葬祭会館ではなく、自宅で催すのは、ここらでは珍しくはない。

出迎えてくれた山下さんに父は

「や、この度はまことにご愁傷さまで…」

と定型文。

「この度はお出でいただき!誠に申し訳ありませんね!どうぞ顔を見てってやってください!皆さんにご迷惑かけてましたからね!多分地獄行きでしょうね!ハッハ!」

笑っていいのかもわからない、いつもの調子の山下さんだが、僕の知っている姿よりもかなり痩せ、頭髪は薄くなっており、顔には皺が増えていた。

初めて入った山下さんちの6畳の仏間。隅にある立派な仏壇は閉じられ、中央に簡素な棺と祭壇があった。祭壇には花や飾りに囲まれた、本当にそれはもうもの凄い笑顔の奥さんの遺影。また、中華の棒と南天のど飴がお供えされていた。そして砂壁の部屋には似つかわしくない大小のさすまたや金棒の細いやつ、様々な竹やりが立て掛けられており、僕ら一家に緊張が走る。

大さすまたの先あたり、鴨居に並んだ遺影が目に入った。白黒のおじいさん、おばあさん、そしてその隣にはカラーの文鳥。文鳥?さらに隣には犬。犬??その隣は、武将みたいなアニメっぽい男性のキャラ。

写真の下には、それぞれ小さく文字が書いてある。

「山下きなこ」
「山下きなこ2」
「呂布」

文鳥の山下きなこ、犬の山下きなこ2…もしかして、うちのモモのことをきなこさんと呼んでいたのは「山下きなこ3」ってことだったのだろうか。うちの猫を数字で…?うちのモモを…?ちがう。きなこ3じゃない。

あと呂布?ゲームのやつ?

山下さんが僕の視線に気付き、

「妻は好きなものの写真をね!飾る趣味があってね!奥にはもっとあるがね!いつも見えるところにもこうして飾っているのだよね!ハッハ!奥にきなこ3のもあるよ!」

父がへぇ…とため息のように吐き出す。うちのモモを勝手に。遺影だから鬼籍の文鳥や犬はまだいいが、呂布。呂布は妙に低解像度で、おそらく山下さんのものであろう8:2分けの頭が2割ほど見切れている。ズームで撮ったポスターとかだろうか。

母は…これは笑いをこらえている顔だ。母はこういうのに大変弱いのだ。鳥→犬→低解像度呂布。昔「ガキ使」で、寺の歴代住職の遺影が並んでいるところにジュウシマツ和尚の遺影があったのを観た直後から15分ほど笑い続け、痙攣し、翌日は腹筋の筋肉痛に悩まされていた。

一家全員同じタイミングで低解像度呂布から視線をそらし、目的を思い出す。恐る恐る棺を覗くと、そこにはとても穏やかな顔の奥さんがいた。遺影に写る奥さんはいつも見かけていた頃のふくよかさだが、箱に納まっているその顔はかなり痩せていた。腹で組まれた指も細く、そして長かった。左手の薬指には、まだ指輪がはめられていた。あの前衛的なエレクトーンを思い出した。

色んな感情を抑え、香典を備えて拝み、さっさと帰ろうとすると、

「タカシくんね!きなこ3にも迷惑かけてね!タカシくん本当に申し訳なかった!うちのは猫も好きだったのでね!うちに入れる入れる入れる!!!と言ってたからねタカシくん!その子はタカシくんとこの子だからとね!止めたんだ私が!ただ代わりにね!写真だけ撮らせてもらっていたのだね!本当に申し訳なかった!タカシくん!これは君のとこの畜生だからね!返すよ!」

小さな額縁に入れられた写真を渡された。

本当にそれはもうもの凄い笑顔でしゃがんでいる奥さんと、奥さんの足に頭をこすりつけているモモが写っていた。僕のモモ。誰にでも塩対応だった、あのモモ。写真にはとても小さく、山下きなこ3と書かれているが、山下の文字だけ、二重線で消されていた。僕の知らないモモは、かなりの甘え顔だった。僕の知らないモモ。山下きなこ3。

「受験勉強頑張ってくださいね!ハッハ!これ食べなさい!おじさんの好物でね!妻がいつも買ってくるんだ!美味しいからね!タカシくん!皆さん!来てくれて申し訳ありません!ありがとう!さようなら!」

強い握手をされ、強制的に南天のど飴を2つ渡された。多分祭壇に置いていたやつだと思う。

一家、無言の帰路。右手の額縁は軽くて冷たい。途中で父が「…呂布…」とつぶやくと、母は震えながら「うぅ」とうめき、直後かなりの強さで肩パンを繰り出した。父は「うぅ」とうめき、2センチほど浮いた。コートのポケットに入れた南天のど飴を指で転がした。

焼けた野原には畜生の骨が散乱している。黒く焦げた道祖神の周りには彼岸花が揺れている。空はとても澄んだ冬色の青でもうすぐ日が沈む。大きな満月が白く光っている。

地鳴りのような音が低く聴こえる。野原の遠く向こうには巨大な黒い門がある。ハガレンで見た真理の扉に似ているが、「ようこそ木更津」と白文字で書かれている。

野原の中心では、山下さんの奥さんが長い長い棒を振り回して踊っている。本当にそれはもうもの凄い笑顔で、ふくよかだ。地鳴りのような音に合わせて踊っている。踊るように見えないエレクトーンを弾いている。地鳴りの音はエレクトーンの音だった。

奥さんの頭の上を愉快に旋回する文鳥、山下きなこ。奥さんを見ながら楽しそうに跳ねている犬、山下きなこ2。そこに、猫がゆっくり寄っていく。

モモ。あれはモモだ。

奥さんは笑顔のまま、しゃがんでモモを撫でる。尻尾を立てて奥さんに頭をこすりつけるモモ、山下きなこ3。お土産の彼岸花を口にくわえている。

踊るような演奏で、モモが先導で。棒を小さく縮めて小脇に挟み、一行は高速バスに乗り込む。バスはゆっくり走り出す。真理の扉をめがけて。

大さすまたを手にした巨大な2人の呂布が真理の扉を左右に開く。扉の向こうは一本道で、木更津の街が拡がっている。

その、もっと向こうには。

木更津を経由した、暗い空のその先は。

待って。モモを連れて行かないで。

バスは木更津の街を走る。

地獄を目指して。

嫌だ。モモを返して。

泣きながら追いかける。

バスは小さくなっていく。

南天のど飴を道にばら撒きながら。

2人の呂布が山本さんの声で笑う。

「「ハッハ!ハッハ!」」

僕は追いつけない。地獄へはいけない。

焦げた道祖神があさっての方向を示して泣いている。

嫌だ。モモはきなこじゃない。嫌だ。

「「ハッハ!ハッハ!」」



暗い天井と和風の電灯が目に入る。
2時42分。自分の部屋で、涙を流しながら目を醒ました。布団の上で夢を反芻する。

モモ。モモは奥さんと地獄へ帰ったのだろうか。山下きなこ3になって。

カーテンを開ける。外はまだ暗い。

そんな訳はない。

自分に言い聞かせて布団に横になるが、眠れない。

コートを着て、玄関から静かに外へ出る。

電灯に照らされた部分から、雪が降っていることが分かった。ただでさえ山あいの町は、雪に音を盗られて本当に何も聴こえない。目的もなく歩く。

元橋本さんちのすぐ脇に、




の看板がある。もちろん近くには、あの道祖神。雪が積もっていて、看板とともに弱々しい電灯に照らされている。光の加減で泣いているように見える。なんとなく、しゃがんで手を合わせる。

山下さんの奥さんは、進んで地獄へ向かっていきました。でもまるで楽しそうだったし、住めば都という言葉もあるから、多分、地獄でも元気にやっていくんだと思います。…夢だけど。

心で道祖神に伝えた。頭に積もっていた雪を払ってやると、泣き顔には見えなくなった。コートに入れっぱなしにしていた南天のど飴を1つお供えした。

近所をぐるっと回っていると、雪が止んだ。おぼろげに月が見える。身体がだいぶ冷えてきた頃、山下さんちの前まで戻ってきた。こんな夜更けにまだ電気が着いていて…垣根の隙間から、あの仏間が見える。棺の前には、山下さんの背中が丸まっていた。

山下さんは棺を覗き込み、肩を震わせていた。

声が大きく、変だけど正義感があり、いつも姿勢の正しい山下さん。奥さんの起こす騒動のたびに、近所に謝って周っていた山下さん。奥さんの棺に手を入れて、多分奥さんの手を撫でている山下さん。

山下さんが、泣いている。

見てはいけないものを見てしまった。大人が、山下さんが泣いている。音立てないように、足早に山下さんちの前を通り過ぎる。

おぼろげな月を見上げる。山下さんの奥さんを思い出した。本当にそれはもうもの凄い笑顔が月にうつる。目をそらし、南天のど飴を口に放り込んだ。とても冷たい。こんな歌があった気がする。

少しだけ熱の残っていた布団に潜り込む。縮こまって秒針を聞いている。明日も早い。

山下さんの背中を思い出す。

奥さんは地獄行き、と言っていた。山下さんは、来たるべき時がきたら、天国に行けたとしても奥さんを探しに地獄へ向かうんだろう。そんな確信を持った瞬間、意識が途切れた。一瞬だけ、夢で見た景色が映った。真理の扉がゆっくり閉まっていった。

「なぁタカシ…あの写真な、あのーなんていうかな…早めに捨ててくれないか。」

タメからは想像もできない角度で、率直にお父さんが言う。

無論あの写真とは、山下さんの奥さんとモモの写真だ。なんでも(子どもの机の小銭を勝手に『借ります』と書きおきした上で持っていった際)、奥さんの写真が目に入り、なんとも凄いパワーを感じ恐怖した、ということらしい。確かにあの写真は凄い。もの凄い笑顔。

お母さんは「うちのモモなのに!」と、山下きなこ3の表記にプリプリしていたが、「でもモモはかわいい」という理由で、特に破棄依頼などはしてこない。

僕もとりあえず、部屋の角にあるモモの遺骨コーナーに飾ってはいるけれど、見るたびに不安になるため、できるだけ視線を外していた。お父さんの気持ちと似たようなものではある。

でも捨てるのは…。
このモモの顔。
泣いていた山下さん。

数日の間、かなり考えて悩んで、山下さんに返すことにした。(モモの部分だけケータイで撮影して母に渡しもした。)

母が「これも山下さんトコに持ってきなさい!」と渡してきた伊豆製の魚の干物と件の写真を持ち、家を出た。

時期としてはけっこう暖かな陽気だが、足取りは重い。…まずい。なんて言って返せばいいのか考えていなかった。

時すでに山下さんちの前。立派な「山下 徹」の表札をぼんやり眺める。あの日から、初めての訪問。数秒悩みつつも、ドキドキしながらとりあえずチャイムを鳴らす。

「!!!!!!ハイ山下です!!!!!!」

との即答怒号?が聴こえ、玄関が開く。あの日から少しだけ健康そうになった山下さんが、いつもの顔で出てきた。大きな眼鏡を上げ下げしている。

「おや!!タカシくんか!!こんにちは山下です!お久しぶりですタカシくん!!ま、ま、拝んでいってください!」

有無を言わさず仏間へ連行された。廊下や目に入る部屋は思ったよりも汚れたりはしておらず、むしろきれいにしてある。仏間の長い棒類や呂布はあの日のままで、立派な仏壇には、おじいさん、おばあさんと、本当にそれはもうもの凄い笑顔の奥さんが飾られていた。干物を供え、手を合わす。ご飯を入れる器には、カピカピのネギトロ巻と南天のど飴が入っていた。寿司を…。

「おや!それは干物かな!立派だねぇ!ありがとうね!妻も喜んでいるはずだね!」

慣れない手付きでガチャガチャさせながら急須と湯呑みを持ってくる。

「や、あの、お構いなく…」

お父さんと同じような口調でこたえる。

「タカシくんね!!高校受験を討ち取ったと聞きましたよ!おめでとうタカシくん!!これからも精進するのだね!」

断定的に言われながら、妙に濃い色のお茶と南天のど飴を出される。お茶とはどう食べるのがいいのか。

「それで今日はどうしたのかねタカシくん?!そろばんでも教えようか?!ハッハ!」

かなりのハイスピードで本題を探られた。山下さんは昔そろばん塾の講師だったらしいが、僕の高校にそろばんの授業はない。

「あの、えーっと…あの、こ、こちら…」

おずおずと写真をこたつの上に出す。

「!!…あの写真か!ハッハ!これがどうかしたのかね!?」

「あの、えーと…えーとですね、こちら、お、お返しにあがりました…」

「どうしてだい!?!?!?!?!?エッ!!きみのとこの畜生写真(じゃしん)だろう!?!??!?!!?エッ!!」

顔が凄いし近い。奥さんとは違う感じで凄い。

「ワァ!!…アッスイマセン…ンンッ…あ、あのですね。」

山下さんは凄い顔で完全に静止し、返答を待っている。
言葉にしないと。言葉に。

「あー、の、えっと、はい。これ、僕、考えたんですけど、これは、あのーこの猫、名前あの…ホントはモモって名前で…えーとでも、きなこ3でもあって、この時のモモはあの、奥さんの猫でもあると、思っていて。ングッ」

山下さんの顔が、フッと真顔になる。

「つまり、その、この写真は、あの…モモだけど…うちのモモだけど…でもこの時は、きなこ3でもあってその、山下さんの…山下さんと奥さんの、思い出…思い出の写真だと思ったんです。」

しどろもどろ学生と、真顔のおじさん。

「だからあの…ケータイでも撮ったし、あの…僕んとこじゃなくて…や、山下さんにお返しジタホウガ…イイドッ…グズ…思っ…スイマゼン…ズッ。」

泣いた。
モロに泣いた。怒られた訳でもないのに。高校生なのに。

山下さんは、真顔でジッと僕を見つめる。自分の鼻をすする音だけが聴こえる。

少しの沈黙の後、山下さんが口を開いた。

「この畜生はきなこ3ではなくてモモと言うのだね!それは大変に青天の霹靂ではあるがね!間違いであったと!それは大変に失礼なことをした!申し訳無い!」

あ、そこなんだ。
こたつの天板スレスレまで頭を下げた山下さんは、2秒後、姿勢を正し、眼鏡を上げ、続けた。

「正直に申して!今の話は理屈になっていないね!意味が分からない!しかしね!タカシくんのね!気持ちは伝わった!!!!私を思ってのことだという優しさ!!!!確かに私と妻の思い出であるね!そう考えてくれることがねタカシくん!とても喜ばしいことでありますね!」

悪い気はしない、ということだろうか。少し安堵し、僕は俯いたまま少し頭を下げた。

「そういう話であればね!受け取りましょう!モモさんであり!きなこ3である!畜生と我が妻の思い出を!ウム!君はとても立派な若者であることが理解できたね!ハッハ!」

笑った直後、即座に真面目な顔をし、あぐらから正座になる。山下さんは写真を賞状を受け取るように左手→右手で掴み、

「ありがとうタカシくん!!わたくし山下は!!この妻との思い出をォ!!!大切にィ!!!致します!!!!」

と叫び、再び天板スレスレまでお辞儀をした。

なんだこれは。もういいから早く帰りたい。

山下さんのお辞儀は2分間続いた。
世界で1番長い2分間だった。

「お母さんやお父さんにね!よろしくお伝え下さい!タカシくん!これお礼ですからね!皆さんで食べてください!なぜかというと元気が出るからですね!」

マクラか?というサイズの南天のど飴ファミリーサイズを渡された。いらない…。

おいとまするために廊下を歩いていて、ふと思い出した。

「…エレクトーンとか、そういうのってもう捨てちゃったんですか?」

すると、山下さんは訝しげな顔をしてこう言った。

「うちのエレクトーンはね!17年も前に下取りに出してしまっているよ!なぜうちにエレクトーンがあったことを知っているんだい?!」

え?

あの日帰るとお母さんは長い棒を持ち歩きエレクトーンの音が聞こえると暴れた。動物を見るとモモだと言って追いかけるようになった。お父さんはお酒の量が増えた。心を壊して病院から帰って来ない。僕はいじめで高校を中退した。

僕の部屋にあるモモの小さな骨壷。その中から毎日くぐもった音が聴こえる。僕にしか聴こえない奥さんの声とエレクトーンの音。

「地獄は痛くて苦しくて嫌なのに出られない。きなこ3に騙された。きなこもきなこ2も燃えてなくなった。南天のど飴を撒いたのに道がみつからない。徹さんごめんなさい。痛い。苦しい。」

エレクトーンの音は地獄の音だった。

エレクトーンの音はモモから出ていた。

奥さんは最初から半分地獄に落ちていた。

モモは地獄生まれだった。

モモは奥さんを地獄へ導いた。

山下さんは寝たきりになった。

山下さんは南天のど飴を食べられなくなった。

山下さんは奥さんを探しに地獄へ向かう。

お母さんはもうすぐモモに連れて行かれる。

お父さんはお母さんを探して地獄へ行く。

僕は。

僕は。

今日も道祖神に南天のど飴を供える。

道祖神は朽ちていく。

道を示してくれない。

黒い扉が遠くから近づいてくる。

モモの遺骨は僕の部屋にある。

遺骨の隙間から僕を見ている。

待って。僕を連れて行かないで。

道祖神は泣いている。

道を示してはくれない。

助けてください。

助けてください。



明日、南天のど飴がなくなる。

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