無題11

小説「クリスマスの夜」前篇

 会社を出て大通りを歩くと、歩道沿いの並木がキラキラしていた。ビルの明かりさえ美しいと思えるほど、街中が色とりどりのイルミネーションで光り輝いている。

”そっか……今日って、クリスマスなんだっけ”

 ぼんやり華子は思った。すれ違う人たちがみんな、幸せな家に帰るため急ぎ足しているかのように見える。なかには自分のように、後輩のミスのせいで残業させられ、後輩のかわりに(お前の教育の仕方が悪いんだと)上司の説教を受け、へとへとになって帰るころには後輩の姿がどこにもない……といった理不尽な状況に見舞われている不幸な人間も、どこかにいるだろうか。

 ついてない、というのではない。ただ運が悪かった、それだけだ。どちらも同じかもしれないが、華子にとっては前者よりも後者のニュアンスのほうが、いくらか救われる気がした。時の流れに抗えないのと同じく、起こることは起こるのだ。過ぎたことを、あの時こうしておけばよかっただなんて、今さら悔やんでもしょうがない。

 そう、今さら……。

 いつの間にか百貨店の前に来ていた。相変わらず賑やかな街の雰囲気が、このまま六畳一間のまっくらなアパートへ帰宅するのはよせ、と言っている。華子はふっと短い息を吐き、ガラス戸をくぐった。いつもなら節約を優先して素通りするのだが、今は抗う気力もない。

”そういえば去年は、ケンタッキーで独り……チキンを頬張りながら、道行くカップルが幸せそうに手を繋いで歩く姿を眺めてたんだっけ”

 思い出してぞっとした。あれはそう、せめてもの抵抗というか、私は一人でもさみしくない女なんですよ、だって仕事一筋ですからね! みたいな自分を演出したかったのだ。大学時代に付き合った男のことを十年も引きずっておきながら、そんなことは露ほども気にしていないと、誰にともなく主張したかった……のかもしれない。

 我ながらこの上なく痛々しい。思い出すだけで冷や汗が出る。穴があったら入りたいとは、まさしくこのことだ。

 気がつくと早足になっていた。自らが晒した過去の醜態などに気を取られていないで、さっさと買い物して帰るのだ。人混みでごった返す店内を縫うように進んでいき、脇目もふらずチキン売場に向かった。その時、ふいに記憶がよみがえった―――あの日、ケンタッキーの店を後にして、満腹の胃袋を抱えながら駅に向かった時のことだ。さすがにチキンバレルに手を出すのはやりすぎたと後悔しながら、酔ったように気分が悪くなった華子は、道路の脇にしゃがみこんだ。

 ダメだ、吐くかもしれない―――華子は懸命に口元を手でおさえたが、食道を逆流してくるものの勢いはすごかった。一瞬後、四つん這いになり、我を忘れて嘔吐していた。しばらくその姿勢のまま、ぜーぜーと息を吐き、涙で潤んだ視界の向こうで、タタンタタン……と走り去る電車の動きをとらえた。馬鹿だ、と自分を客観的に思ったのは、その瞬間だったかもしれない。

「大丈夫ですか?」

 背後から、男の低い声がした。心身ともに疲弊しきっていた華子は、とくに何も考えずに振り向いた。そこに立っている細身の男は、ちょっと気が引けるくらい若く、かわいい顔立ちをしていた。ぎょっとなった華子は、慌てて口を拭った。数万円するカシミアコートの袖が汚れたが、気にしてはいられなかった。

「あ、ごっ、は……い」

 声にならない声に恥ずかしさを覚えながら、華子はよろよろと立ちあがろうとした。すると、その腕をふわりと支えられた。布越しに、彼の手の温もりが伝わってきて、眩暈がしそうだった。

「あの、よかったら俺、送りましょうか?」

「え⁈ い、いえあの、大丈夫ですからっ……すみません」

 なんとかそれだけ言って、頭を下げると、ろくに目も合わせず逃げた。あのままじっと見つめ合う……というか、見られる勇気などなかった。いい年した女が道端でゲロを吐いて、今にも死にそうになっている顔なんて。それもクリスマスの夜に。

「最悪……」

 呟く声が、過去と現在で重なった。チキン売場の前まできた華子は、うっと口元を手でおさえた。油と香辛料の匂いが辺りに充満しているせいで、あの日の醜態が記憶のなかで浮き彫りになる。ああもう、さっさと買って帰ろう―――立ち往生する客たちが、山のように積まれたチキンの箱を物色している後ろで、華子は順番を待った。やがて前の方が空きはじめたので、から揚げやコロッケなどが並ぶショーケースのそばに足を延ばすと、

「あ? あれ、おねーさん?」

 聞き覚えのある低い声がした。えっと顔を上げた華子は、そのときすでに目を合わせたことを後悔していた。

「ああやっぱり。あの時の人ですよね」

 華子は言葉を失った。白い制服姿のかわいい好青年が、華子に向かって人懐こい笑みを向けている。そうと分かったとたん、ざわつく周囲の音が一瞬で引いていくのが分かった。ショーケースの向こうから身を乗り出すように顔を近づけてくる彼は、去年のクリスマスの日―――大丈夫かと声をかけてきた時と、寸分変わらぬ若さと魅力を身にまとい、そこに立っている。

 まったく予期せぬ再会に、華子の頭はまっ白になった。

                         つづきます(多分)。



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