とある窓拭き野郎の決意


「ずいぶん売れっ子みたいじゃない」

そう言いながら三上(みかみ)さんが缶コーヒーを渡してくる。

「いやいや、そんなことないっすよ」

俺は少し照れながら、その缶コーヒーを受け取り、ゴロゴロ両手で撫で回す(なでまわす)。
季節は12月。冬の寒さでかじかんだ手に、缶コーヒーの熱が伝わってきた。

「いや、ほんと暖まりますよ。しかし寒いっすね」

「そうだな。ところで年内は何日まで仕事なんだ?」

「今のところ31日までですね」

「はー、やっぱ売れっ子は違うね。大晦日まで仕事かい」

「だから、売れっ子じゃないですって」

俺はそう言いながら缶コーヒーを開け、タバコに火を付ける。
冬の澄んだ空に、赤ラークの煙が広がった。

 「ところで三上さんは何日まで仕事なんですか?」

 「俺は30日までだよ。本当は31日まであったんだけど、佐々木くんが出てくれることになったからな」

 「俺っすか。そうか、俺の31日は三上さんの分だったのか」

「そうそう。本当は嫌だから困ってたんだよ。かみさんが31日くらい休んでほしいってうるさいから代役を探してたんだ。そしたらほら、今をときめく売れっ子さんがいたじゃない?」

 「いい加減からかうのはよしてくださいよ」

九段下にある現場の屋上。俺と三上さんは靖国神社を見下ろしながら、他愛もない仕事の話をしていた。

俺はガラス清掃の仕事をしている。ロープやゴンドラに乗ってビルの窓拭きをするあれだ。
たまにテレビでも特集されるせいか、世間の認知度は高い。

地方は知らないけど、俺が住んでる東京では、床清掃の仕事とガラス清掃の仕事は、それぞれ専門の会社が請け負ってるんだ。
特にガラスの仕事は高所作業で危険だからな。それ専門の会社がやるってわけさ。
別にどうでもいい話だが、俺たちはお互いのことを「床屋(ゆかや)さん」「ガラス屋さん」なんて呼び合っている。

世間ではガラス屋に対する危険なイメージがあるけれど、この仕事は本当にヤバイ。なんせ今年は同業者が4人も死んだ。もちろん作業中にだ。
俺はそのヤバイ仕事をして5年になる。

ヤバイくらい危険な仕事だからといって、決してギャラは高額じゃない。バイトの年収は300万円程度。
「そんな安いギャラで、なんで危険な作業をするの?」って不思議に思うだろ?もちろん俺もそう思う。
でもガラス屋は仕事の時間も短いし、人間関係も良好だから、俺は居心地がいいんだ。

たまに朝が早いことはあるけど、基本的には9時〜15時くらいでその日の作業は終わる。
こんな風に屋上で一服するのも、ガラス屋ならではだ。

世間のサラリーマンは肩身の狭い思いをしながら、5分10分一服するのが普通だろうけど、俺たちは30分くらい一服する。
昨日行ったキャバクラの話。今やってるゲームの話。そんな他愛もない話をしながら、毎日の時間が過ぎてゆく。

俺は中卒で学歴もないから、普通にサラリーマンになろうったってなれないんだけどな。まあこんな毎日が嫌いじゃないってわけさ。

「よし、ちゃちゃっとエントランス(玄関)をやっつけて帰るかい」

三上さんはそう言うと、ガラケーをポケットにしまい立ち上がった。
俺もやりかけのツムツム(スマホゲーム)を一旦やめ、自分の仕事道具に手を伸ばす。

エレベーターをタバコの匂いで充満させながら、俺たちはビルの1階へ降り、正面玄関のガラスを手際よく拭き始める。

時刻は14時。今日の現場は楽勝だ。

===

続きをみるには

残り 14,763字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?