珍しくマジメにドキュメンタリーについて語ってみる

珍しく
真面目なことを語ってみる。
常々考えてきたし、ずっとなんとなくだが違和感があったテーマに、
「ドキュメンタリーとかそれに伴うやらせ」がある。
基本的には、
番組として放送している以上、そしてそこに作ったヒトがいる以上、すべてやらせと言っても過言じゃない現実はある。言い切っちゃうけど。
だって、
やらせってのの範囲を広げれば、どんな演出だってやらせと言えるんだからね。
そういう現実を知ってか知らずか、今まで会ったドキュメンタリー畑のヒトって、けっこう大多数が無神経で嫌な奴だ。
その反動もあるのかもしれないけど、ものすごく尊敬できてその考え方を吸収させてもらった先輩もいる。数人ね。
その中の1人と言えるのだけれど、それ故に一方的に師匠だと思っているのだけれど、ここにその人が書いた文章があるので、長いけど引用します。
「写真展案内   眼に映るものがあり、それをカメラで切り取る。それは思いがけなく眼の前に現れた場景であり、二度と現われることはない。もし演出でそれを創り出そうとすれば、そこにあるものは似非の瞬間なのである。「撮らせてもらっていいですか?」そう言葉をかける。しかしカメラを意識した瞬間に自然体や、それに伴う趣は消滅してしまう。「真」を「写す」のが写真であるとすればだが……。
 日頃、写真を撮ろうとカメラを構えて歩いているわけではない。偶然に遭遇した被写体が琴線にふれ、シャッターを切る。よってその一瞬の出合い、そしてその時カメラを持っていられたこと、それに対してシャッターが切れたこと自体がラッキーなのである。三脚を備えて何時間も粘ったり、被写体が現れるのをじっと待っているなど、到底私に出来ようはずもない。
 そこにあるのは、ただラッキーな瞬間なのである。日常の中にラッキーがあったともいえる。いや、ラッキーな瞬間が日常だったのかもしれない。それに気づくかどうかである。そうした写真が好きなのである。街は面白い――だから歩く。日常は面白い――だから歩く。そしてシャッターを切る。ここにあるのはそうした写真たちである。」
これは、2017年に各地のオリンパスギャラリーで行われた「なぎら健壱 写真展「すれ違う日常」」に寄せられた写真家・なぎらさんの文章。
名文だと思った。
演出という言葉を隠れ蓑にして、上のヒトや視るヒトに媚を売ったわざとらしい“つくりもの”で勝負するのではなく、
偶然その場に居合わせるという“演出力”で勝負する潔さと覚悟。
嘘っぱちのドキュメンタリーに、作る方も視る方も飼いならされてるんだな、って気付かされた思いがしましたよ。
凡百のディレクターは、演出という名の逃げを打つ。そうしないテレビディレクターはいないでしょうね。
それ以前のただのバカは別にして。
ボクもワリと逃げの手は打つほうだしね。
それはプロだからとも言えるんだけど…。
それをせず、
ラッキーを必ず生み出す自信と、それを裏打ちする表に出さない努力でもって、プロの仕事を実現していくって、ものすごくハイレベルなクリエイティビティだなぁって。
名文だと思う。って書いたけど、文章がいいという意味は当然あるけど、
内容が良くて、それを必要最低限の簡潔さで表現しているところが見事だと思ったワケで。
そこにディレクションのヒントがあるかもね。

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