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心が「弱い」こと—東大に通えなくなって1年半が経った

私は東京大学理学部の三年生です。なのですが、今から一年半前の二〇一七年の六月、私は東京大学に通えなくなりました。

初めに謝っておくと、あなたが今から目にするものは、長く、暗い文章で、ほんとうは「或る人間が病むまで、そして病んでからの記録」とでも名付けるべきものです。

それでも構わなければ、どうかお付き合い頂きたく存じます。

痛み

二〇一七年の四月、私は理学部情報科学科に所属することになり、新たなスタートを切りました。

けれど、私は出だしから躓きました。

私に訪れ、そして今の今まで大学への復帰を妨げている原因。それはただの「痛み」です。

もう少し正確には「胸部の疼痛/心身症」という表現になるでしょう。実際に器質的な原因はない、心の状態から来る痛み。「恋をして胸が苦しくなる」「罪悪感で胸が締め付けられる」と、言葉にすれば誰にでも理解できる、ごくありふれた現象です。そんな風にあちこちに転がっているものが今の私の状況を作り出した元凶なのです。

それは突然でした――しかしよくよく状態を勘案すれば必然でもあったのです。ある日曜(私はその曜日まで鮮明に覚えています)、胸の真ん中、鳩尾のあたりにするどく突き刺すような痛みが、起きたばかりのぼんやりとした私の意識を突然揺さぶりました。私はびっくりして胸を押さえ、鼓動を確認し、なにか重い病気ではないかと思いました。

私はただただ不安でした。

数時間のあいだ待ちましたが、「刺し傷」の疼きは収まる気配を見せませんでした。私は月曜になったら医者にかかろうときめて、親(実家暮らしなのです)に話しておき、それからじっと耐えていました。

ここまでなら普通、いや、普通ではなくとも、あなたが過去に遭遇した思わずうめき声を漏らすような痛みに見舞われた経験とおなじ類のそれだったことでしょう。ただその経験は、何分、何時間、あるいは何日のあいだあなたを苦しめたあとに、「終わり」が痛みと同じように訪れ、あなたを救い出してくれましたが、残念ながら私の痛みはそうではなかったし、今この文章をタイプしているときでさえ、いまだに「終わり」は私という家のドアをたたいてくれず、そういうわけで私はすっかりよわっているのです。

それは無限に続く「再生」でした――ここでいう「再生」とは、「音楽の」を枕詞に持つもの、です。「壊れたテープレコーダー」という表現が最もしっくりくるのですが、テープレコーダーが絶滅した二〇一八年では伝わらないかもしれませんから、単にこう表します。あなたの音楽再生機器――パソコン、スマートフォン、iPodでもなんでも――がすっかり故障してしまって、電源を切ることもできずに同じ曲を延々と流すようになってしまったら? あなたはきっとうんざりして、買い替えを検討するか、修理に出すかするに違いないでしょう。

けれど悲しいことに、私のケースでは「からだ」という機器が耳元で(しかも大音量で!)「痛み」を流し続ける故障にかかりました――そして通常効果的な修理はまったく役にたたず、加えてこの「からだ」という機器は、交換もできず、買い換えることもできないのです。一年と八カ月もの間この「痛み」を聴かされている私がどれほど気が滅入っているのか、これでいくらかは伝わったでしょうか。

このメービウスの帯のような周回は、私のこころが過去のある出来事に閉じ込められていたことによって起こりました。元々私は一度うつ状態になり、当時はその治療中だったのです。私がどうやら表面(=意識)上ではその「とらわれ」から脱したように見えても、地(=無意識)の下ではそうではなかった、あるいはその爪痕がいまだ悪さをしていると、こういうわけなのです。

不快な音楽に耳元でがなりたてられながら、学生は通常の生活――すなわち講義、課題、はては通学まで――を送れるものでしょうか? 答えは残念ながらNOでした。それどころか、そもそも「起き上がる」という行為ですら、実はこの「痛み」に邪魔されないという前提の上で成り立つものなのだと、私は身をもって知っています。

私は痛みと戦っていた、というよりその攻撃にひたすら耐えていたのですが、ついに六月に限界を迎えました。私が大学に行くことをやめようと決めたとき、心の底から安堵し、涙をぽろぽろと流したことをいまだに覚えているほどに。これは大袈裟な表現に違いありませんが、戦時中に抑留され、日々迫害におびえていたユダヤ人たちが、ドイツの降伏を知ってわっと泣き出したその日の感情を、私は間違いなく追体験していたのだと、振り返ってそのように思うのです。

こんな反応に困る経験を読まされて、画面の前のあなたはさぞ困惑していることでしょうね。けれど安心してください、もう私の痛みについて、書けることはまるっきりないからです! なぜだかわかりますか? 

なぜなら、私は何もしなかったから。いや、できなかったという表現の方が適切なのでしょうか?

私はあの軒先に生えるとがった氷柱で胸を貫かれる痛みを味わいました。だから私は横になり、そして夏が終わりました。

私は刃先がぎざぎざしたジャック・ナイフで胸を何度も刺される痛みを味わいました。そうして横になるうちに、秋は音もなくあらわれて去っていきました。

私は江戸時代に、なまくらの刀で自刃した武士の死に際の痛みを味わいました。やはり私は横になって布団をかぶり、冬はあのしんとした冷たさで私の友として暫く窓のそばに座っていましたが、ついに消えていきました。

そうして春になり、また夏がやってきて終わり、秋が過ぎ……。

そして私は、まだじっと横になって居る。

書き表してしまえば、たったそれっぽっちのことなのです。

過去に閉じ込められるということ

それにしてもこんな出来事を引き起こした原因、すなわち「過去に閉じ込められる」とはいったいどういうことなのか? けれど何ということはなく、これもまた誰でも経験することにすぎません。

あなたにも随分昔の出来事なのに未だにときおり記憶がよみがえり、思わず布団の上でじたばたしてしまう恥ずかしい思い出があるのではないでしょうか? あるならば、それも一種の「過去に閉じ込められる」ということでしょう。

けれど、その恥ずかしい出来事のことで今でも常に頭がいっぱいだとか、現在のほぼすべての物事をその出来事に当てはめて判断してしまうとか、そうなってくると危険な状態です。身近でよすがにできる人に相談するか、カウンセリングにかかることを強くすすめます。まあ、自分でそんな状態にいると自覚できるケースはまれでしょうが。

「囚われる」と書いたとき、それがたとえば牢獄や底なし沼のような、陰鬱とした場所への聯想を生むのは自然なことです。そして一定数の「囚われの人々」にとってそれは間違いなくその想像通りなのです。すなわち、月百時間を超える残業と上司から飛ぶ人格を否定する罵声にさらされる職場であったり、「いじめ」という別名のついた暴力や無視によって徹底的に尊厳をずたずたに切り裂かれる教室などは、誰であれその空間そのものが全ての人にとっての惨劇であることに同意するでしょう。

けれど、一見するとそんなイメージとは無縁な、むしろ「明るい」場所ですらも実はその舞台になりえるのです――ある特定の性質/傾向/経験を持った人間は、その空間のなんてことのない特徴との恐ろしい偶然の相互作用によって生み出された毒に、神経の芯のそのまた芯までを侵されでしまうのだから。

都内のとある中高一貫の学校で私がその部活――サッカー部でした――を選んだのは、なんてことはない、ただサッカーを小学校から続けていたから、それだけです。私は運動神経はからきしで、端的に言ってしまえば下手でしたが、一生懸命に打ち込んでいました。その部活、それなりの人々にとっては青春のよい思い出をもたらしてくれたであろうものが、いつのまにか私をとらえて、いや、私がそこにぴったりと接着剤でくっつけられたように、離れられなくなってしまったのです。

ほんとうに私の経験を理解するために必要な膨大な情報は横において、ただいくつかのキイ・ワードを提供するに止めておきます。

繊細さ

「繊細」という言葉を聞いて、意味の分からない人はなかなかいないでしょう。しかしものが「繊細」であるか見抜ける人間、あるいは見抜けたとしてもその扱い方を理解している人間は実はまれです。

もし人間をヴァイオリンにたとえるなら、当然ヴァイオリンを放り投げたり、蹴っ飛ばしたりすれば壊れますし、弦を引っ張って遊んだりすればそれは切れる、そんな扱い方がダメージを与えることは誰にでもわかります。

しかし「繊細な」それ――このたとえは相応しくないかもしれません、なぜなら私はヴァイオリンに親しんでおらず、ただイメージだけで語っているのですから――というのは、演者が「普通」に引いているつもりでも、その弦にとって力が強すぎたりこすり方が悪ければ、いともあっけなく擦り減ってしまい、本来持つパワーを発揮できなくなる。

にもかかわらず、この上なく不幸なことですが、演奏者はそれに全く気付かぬままヴァイオリンをこれまでと同じように扱い、「すぐに音が出なくなった、なぜなら安物だから/弱いから/大量生産品だから」などと宣い、それが出せる唯一無二の音を知らないまま、ぽいとごみ箱に投げ入れしまうのです。

私というヴァイオリンと致命的に相性が悪く、最後には私をすっかりだめにしてしまったその力。それは「勝利」、「組織構造」と「チーム」、「孤独」、そして「責」でした。

「勝利」――私の学校は進学校でしたが「文武両道」を掲げていたこともあり、部活でも高い目標、といってもおそらく強豪校にとっては最初のハードルのような場所なのですが、を目指していました。それは「勝ちにこだわる」という霧となって部全体を覆い、私はそのもやの中で、その空気を吸い込みながら生きていたのです。

けれど人間その他の動物がおいしくたべられる野菜を犬が消化できずに嘔吐してしまうように、「勝ちにこだわる」ことは次第に毒になって私を蝕みました。いや、私だけではありません、同じ練習をしても上手くなれない、なかなか勝てないチームメイトすべてにとって、それは気付かぬうちに、けれど少しずつ私たちの身体に呪詛となって巻き付き、ぎりぎりと締め付けていたのです。

「組織構造」――「チームが一丸となる」という表現はたいへん聞こえもよく、また実際に目標達成を目指すうえで重要であるでしょう。顧問はこれに似た言葉が根を張るよう、口を酸っぱくして私たちに語りました。

ところで、私たちの学年は部員が二十二人いました。これはぴったり二チームの人数でしたから、自然と「A」と「C」というチームを作られました。私は下手な方のCでした。このAとCは中学から始めて同じ練習をこなしていたはずなのに、少しずつ差がついていき、高校チームに合流するころにはもう背中が見えないほどに広がっていたのです。

AとCは、「同じ部活にいる」ということ以外の共通点をなくしていきました。レベル別に分けられた練習と試合、試合後のビデオでの振り返りやミーティング、練習の帰りに駄弁る相手といった形式上のものを並べると淡白に見えますが、実際に失われていたのは「こころの共有」だったのです――勝てば一緒に喜び、負ければ共に悔しがる。その感情をお互いに確かめ合うことで絆が育まれ、逆に言えばそれがなければ、相手への思い入れも水で溶いた絵具のように薄まって、最後には消えていく。その渦中にいた誰も、そのことについぞ気付かなかったのです。

おかしくなり始めたのは、高校二年生の秋ごろからでした。そのころにはもはやCからAはすっかり遠い雲の上の存在になり、後輩の一部にも抜かれ、けれど走り込みやダッシュなどのきつい練習は同じ分課せられる。最初に顧問への不平がぶすぶすと音をたてて立ちのぼり、それは次第に集まり、大きな大きな煙になって、Aの人間の一部への不満を巻き込んであっという間に膨れあがりました。

その頃になると、もう顧問が下手なグループの指導を見ることはなかったと、私は記憶しています――いや、もっとずっと前から、指導は上手い選手を伸ばすために充てられました。顧問も忙しい身です。仕方がないのです。

不幸だったのは、繊細な私は特に共感能力が高かった、そこに尽きます。私は顧問への不平を聞けば忙しさと勝ちを目指す苦労に思いを馳せで心が痛み、Aの誰それが無理解だという話を聞いても心が痛むのです。そして何より、その悪口を言っている彼ら、「目標」という旗印のもとで放っておかれ、誰にも顧みられることのない、毎週末の練習試合では負け続け、楽しかったはずのサッカーが色褪せていく、その彼ら。彼らが互いを不満や陰口で慰め合うことがこの上なく哀しく、またその誰かを突き刺す言葉の刃も、実のところ彼ら自身に向けられているような気がしてならず、私は何よりもそれに心が痛むのでした。なぜか? なぜなら彼らこそが、私が三年か、あるいはそれ以上のあいだ、第一に「感情を共有」してきた人々――すなわちチーム・メイトだったからです。

「チーム」と「孤独」――私は素直で、顧問の言葉をそのまま受け入れていました――つまり、どれもこれもチームのためだ、と。そして各部員は、チームのためにできることをしなければならない、と。

私はただただ練習に打ち込んで、ベンチ入りして自分が戦力になること、それだけを目指していました。ですから私には、Cの人間が口々に発する不平不満が、理解できたが理解できなかったのです。つまり、彼らがどういう境遇からそう口にするか、その事情は理解できる、けれど自分にはそんな気持ちは露ほども存在しない。

わからない。

そのとき私は、Cの人間がAの人間に対して感じた底の見えない崖のような断絶を、まさにその彼らに対して感じていたのです。

「責」――私はまた、とりわけ責任というものを感じやすい気質でした。Cチームのメンバーは、練習をさぼったり、まじめに取り組まなくなりました。すると私は、他のメンバーの分までチームに貢献する責任がある、いやしなければならないと自分を追い込むのです。先輩として後輩の手本にならなければいけない、とも感じていました。そして、彼らのつらさに気付いている唯一の人間である、だから何か、何かをしなければ、とも。

私にはまた、一つの信念がありました。「けして他人のせいにしてはいけない」と、一見なんだか立派なものに聞こえます。けれどそれは、あらゆるものを「自分のせい」という解釈に落とし込み、他人の問題までを背負い込み最後には重みに耐えきれず自分を潰す、滑稽な痴れ者の信念だったのです。

ナイフ

私は精魂込めて練習に打ち込み、指示の声を出し、膨大なノートを付け、きつい走り込みに耐え、どんな瞬間でも勝ちを目指し、彼らのために何ができるかを、崖の縁を見下ろすような追い詰められた心持で、必死に考えて居りました。けれどもその中身はというと、ちっとも上手くなれず、したがって後輩には情けない姿を見せ、走りはのろいままで、あらゆる勝負や試合に負け、そして彼らにはなにもしてやれず不平を横で聞いているだけでした。

今や私は、周囲と断絶した孤島のような場所で、練習に打ち込み、そのたびに、ああ、今日も上手くなれなかった、私はチームの役に立てていない、と自分を責め、悪口を聞くたびに、ああ、私は彼らのためになにもできていない、と自分を責め、その悩みを誰にも打ち明けることができないまま、それは毎夜「切り裂きジャック」に変貌し、私をずたずたに切り刻むのです。

想像できるでしょうか、空想のナイフを思い浮かべて、それで自分の胸を刺し続ける。そんな虚ろな自傷によって精神の幾らかの安寧を得られる、そんな状況を。けれど私にはその行為がどうしても必要でした。

このとき私はわけあって家族と心のつながりが切れていて、信頼できる教師はおらず、心を開ける友人も居りません。何よりも不平不満を陰で言っているということは、彼らのために秘密にせねばならない、どうしても言えない、と岩のような固い誓いを立てていたのでした。

そして最もばかばかしいことには、おそらく賢明な方はこれまでの文章を読んで笑ったことと思われますが、結局そこに在ったものはただの高校の運動部の風景とよくある陰口にすぎない、ということでした。ただ、それが私の特異な精神状態/経験/環境のレンズを通り、またおそろしく歪んだ考え方のレンズも通って、あれこれと形を変えた結果として、まるで巨人を背負うような重圧、けれども虚像の重圧を、私の弦に与えていた、いや、今もいくらかは与えていると、そういうわけなのです。

冬も終わりに近づくと、彼らはある一つの言葉を口にするようになりました。「早く負けてほしい」、そんなものです。それは私にとっては、大会でベストいくつに入るという目標に向けて懸命にがんばっていたAの人間への、この世でもっともひどい冒涜と裏切りを煮詰めて集めたような、口にするのもおぞましい侮辱に聞こえました。そして、Cの人間はいったん部活の外に出ると、まるでそんな言葉など発するわけもないという風にAの人間と談笑を始めて、それを目にすると、あの虚像の巨人がぼろ雑巾を絞り上げるようにして、私という存在は捻じれ、ぷつりと切れてしまいました。けれど現実の身体はぴんぴんしているものですから、私は現実というものがいったい何なのかわからなくなってしまいました。

「板挟みになる」という表現は、ゆるい。反目し合う二つの存在のどちらともに入り込んだならば、それは板と板のあいだに挟まるなどというものではなく、万力で手を挟んで両側から引っ張られ、あるいは逆方向にねじられ、身体を引き裂かれ、引き裂かれたそのどちらにもなお意識がある、といった類の表現こそがふさわしい。

私は毎晩ひとりで部屋で泣いて居りました。

そして四月の末、私たちは最後の大会の初戦で負けたのです。

なあ、きみは覚えていないだろう。負けた後のミーティング、引退の発表が先生から行われ、Aチームの人間がみな号泣しているその場。かんたんな挨拶を述べて解散になった後、そのとき発した言葉を。

「なんだか、泣けなかったな」

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私はなんのために頑張っていたんだっけ? なんでチームは勝てなかったんだっけ? チームが一丸になっていなかったからなのか? それは表面に現れない断裂を、私が明かさなかったからではないのか? きちんと言うべきだった、すべて、このチームには嘘とおためごかしが蔓延していると。そうしたらチームは本当の意味でまとまって、試合に勝てたかもしれない。そもそも私は何をやっていたのだろう。なぜベンチに入れず、外から応援することしかできなかったのだろう? 私がやったことといえば、ウォーミングアップの手伝いと、がんばれ、という声出し。ただそれだけ。二年下の後輩がピッチの上で頑張っているのにそれだけ。私のせいだ。私がチームの問題を解決できなかったから私のせいだ。私がCの人間に何もしてやれなかったから私のせいだ。私が悪い。私が悪い私が悪い私が悪い。私はほんとうにできることを全てやったのか、いやそんなことはない、だから私が悪い。Aの人間は泣いていた、号泣していた、ああ、ああ、取り返しがつかない。私は取り返しのつかないことをした。終わってしまった。私は何かしたいのにもうなにもできない。私が、悪い……。

それから

そんな言葉がおよそ三年ほど私の頭の中でぐるぐると巡り続けました。

大学一年の冬休み、起き上がれなくなった私は精神科に行きました。

そしてそれから一年と半年ほど、治ったのか治ってないのかわからないまま情報科学科に進学し、そこで痛みが私の中で終わらない再生を始めたのです。

現在について

こんな風に書くとまるで私がたいそう悲劇的な人間のように見えるかもしれません。ここまでの長い文章を読みもし私に同情してくださった方がいるなら、おそらく喜ばしいことでしょうが、私は快方に向かっているようなのです。辛抱強く医者と臨床心理士の先生のところに通い、また家族との絆を育んだことが効いているのでしょう、痛みの「再生」が弱まる日が増えました。気分は前向きになり、物事への意欲が出てきました。それでも大学へ通学するだけで体力を使い切り、翌日はじっと横になるほかないのですが。おそらくそう遠くないうちに、私の中からこの痛みは消えるでしょう。

この文章を書いた理由はふたつ存在します。

ところで皆さんは、何でもいいです、過去の痛みの「経験」ではなく「感覚」そのものを思い出すことができますか? おそらくそんな人はめったに居りません。私も同じように、十年もすれば今これほど私を苦しめている痛みを再生できなくなるのです。

思い返せば、私は不幸であって幸運でもありました。私の親は、私のためにできることを懸命にしてくれ、私を心配し、寄り添ってくれました。私の大学には臨床心理士=カウンセラーの方へアクセスできるリソースがあり、そこで二人の方に大変お世話になりました。学科長も心配した様子で休学したいという申し出を受け取ってくれ、それからあれこれと私のために配慮してくれました。

けれど、いくつもの"if"が私に訴えかけます。

もし学生ではなかったら? 二年も休職して復職できる職場というものがあるのでしょうか。

もし親が協力的でなかったら? 私は安心して身を預けられる存在のないまま、不安に苛まれるステージから脱せられなかったでしょう。

もし大学にカウンセリングできるリソースがなかったら? 私が市井のカウンセラーに同じこと(五〇分/週の面談)を頼めば、累計で百万近い費用がかかります。

学科長に理解がなかったら? 居住国がアメリカで、医療費が高額だったら? 高校でいじめに遭ったり別の問題を抱えていたら? 最初に挙げたいじめや「黒い」職場にいたら? もし実家がもっと貧困で余裕がなかったら? ......etc,etc.

おそらく私のように、あるいはそれ以上に「繊細な」人間はそれこそ溢れるほどにいて、そして彼ら彼女らは危機に直面した時、いまの"if"のうちひとつが"true"なだけで、寛解までの道のりはぐんと険しくなるでしょう。そして事実として、そんな人間はいくらでもいるはずなのです。単に私に、そしてあなたに見えていないというだけで。

そして私はこの痛みが消えたとき、それらの人々へ思いを馳せることもやめてしまうのではないかと、それが不安でならないのです。

よく休む同僚がいて迷惑だ。あそこの家には働かないニートがいる。あいつは大学からドロップアウトしたらしい。果てはなんらかの事件を起こして報道された○○という名の他人。それらがあの"if"たちを満たした「繊細な人々」であるのだと、そうした情報の端書きを見聞きするたびに、私には分かってしまうのです。ですから、私には「いま」を書き記し、遺しておく必要があるのだと、そう深く深く感じているのです。

もう一つの理由は、もっと抽象的です。

あなたはこの絵を御存知でしょうか。

これはマグリットという作家の"Empire of light"という作品で、シュルレアリスム、超現実主義とよばれるジャンルに含まれる絵です。

カンバスの上半分には青空と白い雲が広がっているのに、下半分は夜に囲まれた家、という現実にはあり得ない情景。

私にはこの絵が、今の私の視界と重なりました。

私はすべてが灰色と化す世界を抜け出して、ようやく晴れわたった青空を目にすることができるようになりました。一方で、未だにこころには過去の断片が巣食っていて、どこかこの絵の下半分の、街灯のちいさな明かりをたよりにした「夜」の空間に住んでいる、そんな心持がするのです。

私はこの絵に、陳腐な表現ですが、感動しました。一目見て、胸がふるえました。この絵は出会ってからずっと私のこころと共に在って、或る時は底から力を込めて私を支え、また或る時は私の隣に座って慰めをかける、そんな存在でありました。

そして私から痛みが消えたときのことを思うと、こうしてその感情とその背景に至るまでのすべて、それを遺さねばならないと、そのように駆り立てられたのです。

さいごに

ひとつ。もしよければ、お願いします。

この文章が長ったらしく、傲慢で、自己満足的で、飽き飽きさせるひどいものなのか、それとも幾らかは他人のこころに訴えかけるに足るものなのか、私は知りたい。

皆さんに幸せが訪れますように。

すみません、関係する方と色々話し合いました。サポートはもう大丈夫です。これ以上は遠慮させてください。サポートいただいた方、本当にありがとうございました。いただいたお金は大切にしまっておいて、元気になるまでお金をいただいたことを忘れないように過ごしたいと思います。