あれから2年

「分かりきれなさ」という距離感を

2016年7月26日に津久井やまゆり園で殺傷事件が起きてから2年が経ちます。僕は2年前と変わらず、総合病院の精神科に勤務して、一般的な精神科診療に日々従事しています。2016年に事件が起こる約4ヶ月前まで、津久井やまゆり園に非常勤の嘱託医として月に数回勤務していた僕は、事件後に何度か園に行って、一緒に仕事をしていた看護師さん達に話を聞き、衝動的に「いろいろな目線」という文章を書きました。

あの時の混沌をきわめた気持ちは整理されないままです。整理しないままなのかもしれません。これは、混沌としたものを整理するばかりが適切な行いだとは思えないからですが、別の見方をすれば、僕と事件の距離感が、無理矢理にでも整理をしないとやっていけないほど近い距離感ではないということを意味しているとも言えます。

記憶を辿ります。事件の数日後に園を訪れるまでの僕は、頭の中で「なんで?なんで?」と繰り返す事しかできませんでした。自分の知っている人があんな形で亡くなったという現実があまりにも受け入れがたく、気持ちがついていっていない段階だったこともあり、加害者の人のことばかり報道するメディアに憤りを感じたし、勤務先で事件のことが話題になった時も話す気に全くなれませんでした。直接自分や自分の身内が被害に遭ったとか、自分の職場で事件が起こったとかではなかったのですが、非常勤とはいえ何年も関わりを持ってきた方々が信じがたい状況に見舞われているという事実は、なんだか逆に現実感を希薄にさせたというか、ショックが大きすぎて思考が停止してしまったようでした。ただ、これも別の見方をすれば、ショックすぎると言って思考停止に陥ることができる隙間があったということになるかもしれません。

なぜなら、その後に訪れたやまゆり園では、恐らく誰一人、思考停止しているような人はいなかったように思えたからです。そんな隙間が、園の方々には全くなかったのだと思います。僕は仕事柄、基本的には医務室の方々と仕事をしていたので、医務室で看護師さん達に話をうかがいました。中でも、診察の際に最もやりとりをしていた一人の看護師さんは、表面的には事件前と変わらず、とても気丈に振るまっていて、事件後の対応に追われながら、入所している方々の日常生活のケアもこなしていました。恐らく、ほとんど休日もなく走り回っていたのだと思います。そんな状況を僕に説明してくれている時も笑顔で「なんとかやっています」と言っていました。

でも話を聞くうちに「毎朝、園に来る車の中だけは一人だから、大音量で音楽かけて大声で泣いちゃうんですよぉ」とあっけらかんに、まるでくだらない世間話でもするような口調で言ったりもしていて、非日常的すぎる園の状況を改めて実感しました。きっと園にいる皆さんが、気持ちも実務も限界を超えているような状況だったのではないでしょうか。その実感から、僕も思考停止に陥っている場合ではないと感じて、ポストベンションの必要性や、知的障害を抱える方とそれを支える方々のことについて、自分の知識と実体験に基づくことくらいは伝えたいと考えて「いろいろな目線」を書き、去年の記事にも書いたような、微力でもできることを医療面で行うという行動をしました。

その後、津久井やまゆり園は場所を移し、恐らく、主に重度および最重度の知的障害を抱える方々の生活を支援し続けています。

恐らく、と書いたのは、事件の数ヶ月後以降は、園と僕とのやりとりは、時折入院のご相談を受けたり、こちらから園に電話をして、前述した看護師さんから状況をうかがっていたくらいのもので、新しい津久井やまゆり園の現場を実体験としては知らないからです。

事件をきっかけに立ち上げられた「19のいのち」というウェブサイトがあります。

被害者の方のご家族の声や被害者の方々に寄り添う真摯であたたかい声が寄せられていたり、その後の歩みが掲載されています。このサイトを訪れるたびに、被害に遭われた方が送っていた日常生活や、そのご家族の想いの一端に触れ、いろいろな形で感情が揺さぶられます。本当に意味がある大切なウェブサイトだと思います。

そして、ここに掲載されている声を読めば読むほど、触れれば触れるほど、冒頭にも書いた「自分と事件の距離感」を実感します。

直接被害に遭われた方、そのご家族・ご親族、そして園の方々のことを、どうやっても僕は分かりきれないのだと思います。実際に自分が知的障害を抱えているわけではないし、知的障害を抱える方を支えることを日常生活で体験しているわけではないのだから、考えてみれば当然のことかもしれないのですが、毎回それを実感します。それが悲しいとか悔しいとかではなくて、その度に「分かれたらいいのに」とも強く思い、定期的にウェブサイトを訪れるのです。「分かりきれない」ということは、ある意味もどかしいとも言えますが、簡単に「分かった」と考えるよりもずっといいはずです。なぜなら、人のことはそんな簡単に、もしかしたら永遠に、分かりきれません。その「分かりきれなさ」を、「要はこういうこと」というように乱暴に要約して「分かった」と感じるならば、それは錯覚です。その錯覚のまま、例えば加害者の人の発言として報道されている「生産性がない」とか「生きる意味がない」とか決めてしまうのは、絶対に間違っています。というよりも、愚かなことだと僕は思います。

人のことを「分かりきれない」のは仕方がないことかもしれませんが、それでも、「分かりきれなさ」という距離感を少しでも縮めることを諦めない方が、意味のあることなのではないかと考えています。

今後、知的障害を抱える方々の支援をどうしていくべきか、精神障害を抱える方々とどうお付き合いしていくべきか、精神医療に携わる一個人として日々考えます。その答えのおぼろげな輪郭はなんとなく見えていて、方向性はある程度定まっています。それは、「分かりきれない」ということを前提にして、分かろうとし続けるということです。2年前の、胸が引き裂かれそうな、いまだに整理されない混沌とした気持ちとともに、そういった目線を確かなものにしていきたいと思ってます。

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